今日の午後四時前、影は自転車に乗るわたしである。日は西の山の端に沈みかけており、影が長く尾を引いている。 私は気象歳時記にはかなり敏感である。じゃあ12月5日は?写真からもわかるようにこの日の前後、もっとも日の入りがこの地方では早い。一年で夜の訪れがもっとも早いのがこの日と言っていいだろう。
去年も携帯写真でこの日夕日で長く影を落とす自分を撮影している。歳時記にあまり敏感でない人は夜の訪れがもっとも早いのは22日の冬至と思っている人が多いが、そうではなくて日の入りのもっとも早いのは今日前後である。
三時台を過ぎると早くも夕づく日の光は見る間に弱まり、四時近くなるとまことにかそけき光となり影をはるかかなたまで投げかけるようになる。気温もグッと下がり侘しき風情となっていく。
私はこの日、もう一つ切なさで胸いっぱいになることがある。去年の同じ12月5日、私の親父が最後に私のもとを訪れたのである。
普段は三人の孫に囲まれて県外で娘夫婦と楽しく暮らしているが、時々、独り身の私のところへ来る。くれば大体2~ 3日、時として一週間いる。顔を突き合わせればよく小言を言われた。男の子供は私一人なのにいつまでもしっかりしない私に、言わざるを得ないのだろう。私もそのことはよくわかっているが、親子の気安さでずけずけ言いあい、険悪になる時もある。でも、親父もわかってたみたいで、仲良く別れられるように思ってなのか来て2日ぐらいすると
「わし、明日、帰るわ。」という。
去年の夏を過ぎたあたりから、毎月のように急にふらりとやってくるようになった。そして一日で帰っていく。そして口やかましくも言わぬようになった。ただ「おまえ、これから、どうするんだ。」と頼りない私を心配する口癖はかわらない。とみに痩せて行っているのが気になり、親父死期が近いの知らせに来たのだろうか、まさかな。親しい友と冗談で話したことを思い出す。10月、11月もそのようにふらりと来てすぐ帰った。
そして、忘れもしない12月5日、早朝、今から行くわ。と急の連絡、ポンコツ軽四で駅へ迎えにいった。いつものハイカラな格好は変わらず、皮のカーボーイハット、黄色のサングラス、ウエスタンスタイル。80代の爺さんの格好ではない。再会するたびに苦笑する。
聞くと明日帰るという。別に用事はないという。わたしもいよいよ親父の身に対し不安が巻き起こってくるが、口にはしなかった。
夜に入り北路の温泉に夕食も兼ねポンコツ車で出かける。一緒に浴場に入ったが裸の親父の体を見て、涙がこぼれそうになった。驚くほどやせている。中年過ぎても筋肉質だった面影もない。このときのわたしの心の中は今から考えると「ああ、おやじ、わたしに別れを言いに来たんだな。」と思ったに違いないと思うのだが、その時はまさか、不吉な、と否定、抑圧したのだろう、意識には努めてのせなかった。
かえり、遅くまで開いているスーパーに朝食を買いに寄った。店の前に冬物の厚手のパジャマが吊られているのを見て「おまえ、寝るとき、寒いやろ」と私のために買ってくれた。
その親父も四か月後、葉桜の頃、半月に満たぬ入院で逝った。
亡くしてわかる親のありがたみ。というけれどまさにそのとおりである。自分のことを心底心配してくれるのが親である。さんざん苦労や厄介をかけても見返り一つなく尽くしてくれたのが親である。
せめて万分の一でも恩返し、と思うだけで不幸の数々、それでも恨みに思うどころか、80歳越えても子の心配。
せめてあと2,3年生きてくれればと私が言えば、神や仏の罰が当たろうというもの、これ以上いつまで情けない息子に気苦労させられるのかと死んだ親に叱られる。
私に子でもいれば、また、子の為に私が苦労することで親の恩に報いることもあるが、それもない。もうすこし、もうすこし、生きて、少しでも喜ぶことをしてあげたかったと正直思っています。しかし、千遍いっても、せんないこと、墓に布団はかけられません。
親と子は深い絆で結びついています。しかし、やがて寿命からすれば当然親が先に逝くはずです、どうしても避けられない別れ「さらぬ別れ」があります。60歳近いいままで親が元気でいてくれたことだけでも親のありがたさを感じなければなりません。
さいごに伊勢物語にみる親子の、さらぬ別れ、の歌を紹介します
長らく離れている
老母
老いぬれば さらぬ別れの ありといへば いよいよ見まく ほしき君かな
子(在原業平)
世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もといのる 人の子のため
在原業平はこの返歌をしたためながら母を思ってひどく泣いたそうです。
息子に「おまえ、寒かろう」と厚手の夜着を買った親父を思い出すとわたしも涙がこぼれます。