今朝、一週間前に採血した癌マーカーの結果を電話で聞いた。
ドキドキの瞬間だった。最初の電話で事務の人が出て、それから看護婦さんに代わった。こちらは手間も診察代も省いての電話一本なので、病院も簡便に看護婦さんが結果を言ってくれるのだろうと思ったら
「少しお待ちください。先生から説明があります。」
こう告げられると、何か再検査、あるいは検査入院というかなり強い陽性の検査結果が出たので、先生から説明があるのではなかろうか、とまたドキドキ。
結局、結果は半年前と同じグレーゾーン(擬陽性)、今後も経過観察ということになった。
悪くもなかったがよくもなかった。
癌の検査はそれで一応終わったが、不定愁訴に近い症状はずっと出ている、こちらはもう一生付きまとう持病の覚悟であるが、不快感は除去したいのでまた今週中に診察を受ける。
夜、ほぼ一週間ぶりに「ローマの湯」へ行く。
私はかなり強い「ちか眼」である。温泉では足元がよく見えず危ないので曇る眼鏡は外し、この時だけコンタクトレンズを入れる。
眼鏡は近くも見るためかなり度が緩く鮮明には見えていないが、コンタクトにすれば遠くまで鮮明に見える。だから普通は湯気でぼんやりするはずの温泉だが私の場合はコンタクトを入れるため温泉に入るときが一番視力がよくなる。
一週間、病気の症状やら検査待ちのためかなり疲れたというかやつれた顔が洗い場の鏡に映っている。鮮明に見えるためヒゲの剃り跡までよく見える。
体を洗い終わった後、ぼんやり洗い場の鏡の前で坐り続けていた。急にくたびれが来たみたいだ。いつまでもそうしているわけにもいかないので、気合を入れて立ち上がりかけ、斜めうつむき加減の顔が鏡に映った。思わず、ハッとして、そのまま中腰で固まってしまった。
なんとそこには
「あ!死んだ親父だ!」
懐かしい親父の顔が映っている。年寄るとこんなにも似るものか。
「親父!」
と心の中で呼びかけそうになり、思わず顔が正面に向くと、そこには親父とは違った私の顔があった。
ちょっとした角度によるのか、何かの錯覚がもたらしたものか。一瞬、死んだ親父と寸分違わぬ確かに自分の鏡の姿があった。
「なんだか松山鏡の話みたいだなあ」
松山鏡の話はこちら
http://www.koumyouji.com/houwa/12.htm
今日は温泉に人少なく、円形の大きな湯船は私一人であった。ゆったり半身浸かりながら自分の足を湯を通して見た時、夜と朝の違いはあるが、蕪村の次の温泉の句を思い出した。
「湯の底に わが足見ゆる 今朝の秋」
俳句のいいところは若い時わからなかった句が歳とともにわかってくることである。
持病を抱え、足腰も弱り、湯船につかり、しみじみと自分の足を見るとき、この俳句の良さがわかってくる。
温泉から出て空を見上げると雲の間から上弦の月が顔を出していた。これがまん丸に成長すると仲秋の望月となる。
2 件のコメント:
>>しんさま
素朴率直な句でどれも私は好きです。ちょっと種田山頭火のようなとこがありいいです。形式にとらわれないのも種田流です。
私は鑑賞がもっぱらで自分では作れません。詩人(もちろん歌人、俳人にも)になることは高校2年の時にあきらめました。
経過観察で良かったですね(^○^)これからも元気でブログが書けますね!
「松山鏡の話」は、結構面白いです。鏡は神社の拝殿の奥にもおいてありますよね、理由はいろんな説がありますが、私は神を拝みに来た人に対して、「神はお前だよ」と言う為のものだと思っています。もしくは、「現実はあなたの意識の反映ですよ」かもしれません。親鸞聖人は「「自分自身を見つめなさい」ですかね、みな同じことですね。
俳句は難しくてついていけません、湯の底の自分の足を見るのに何故秋なのか?たまたまなのか?秋でないとダメなのか?季語を入れないと俳句にならないからか?だったら温泉で足見ただけじゃん!
すねて一句、 蝉の声 着メロにした あほなやつ (^o^)/
コメントを投稿