今日、9月11日は、東日本大震災よりちょうど6か月目、またニューヨークの同時多発テロより10年目の日である。
大きな震災、テロであったため、その起こった日の月日の数の組み合わせから名付けて、「3・11」とか「9・11」とか言ったりしている。
このように大災厄を3-11とか9-11とか表すようになり、その意味が一般的に通じるようになると、これらの数字の組み合わせや羅列についても何か災厄に見舞われるような関連性があるのではなかろうかと考えてみたくなる。
もちろん合理的な考えではないことはわかっている。この数字に何か意味があってその関連で大災厄が起こるなら、それらの数字の羅列を分析すればこれから起こる大災厄を予測もできることになる。
実際にそのような予言をする人もいると聞くが、他の占いと同じで当たる確率は偶然の可能性以上のものではない。
しかし、人はあらゆるものに『意味』を与えなくては済まない生き物のようで、「数字」が発明されて表記され出した時から、「数字」の意味を考えるようになった。
もともと「数」は「一対一の対応概念」から生まれたモノであろう。「3」という数は、小石が3個ある。というのが基本である。
だが「数字」を発明したことにより具体的な一対一の集合概念から離れ、数字を抽象化するようになる。
われわれは一々、頭に小石を何個か、などと思い浮かべなくても数字を全く機械的に操作することにより加減乗除を行っている。
まず幼児でもない限り「3」という数字に「林檎が3つ」などと表象する人はいまい。人は「3」という数字を抽象化して把握しているといってもよいだろう。
この抽象化した数字に意味を考えるというのはかなりおもしろい(深い哲学的な考察になる?)場合がある。
一昨日のブログでは「9」をとりあげたが、ここでは「3」についてちょっと考えてみる。
下世話な話で恐縮だが「3」というと、「三角関係」の複雑さが思い浮かぶ。「2」の関係の場合、惹かれるにしても反発するにしても話は単純である。しかし「3」になるともう全く予測不能な展開がある。
外には何もない空虚な空間に(この場合、場の力は万有引力のみを考える)二体の「球」を入れ、それぞれに方向と初速度を与えてやると、二体の動きは永久的に予測可能で、いついかなる時でもその動きは把握できる。
しかし、これが三体になると、将来的な三体の運動の予測は不可能に近くなる。まるで人の運命が予測できないように。
また、テーブルの足を作る場合「1」でも「2」でも足は安定しない。ところが「3」になった途端、不動の安定性を得る。
線分にしても「1」でも「2」でも空間はできない。しかし「3」になると三角形の形の空間ができる。
もちろんこれらは「3」以上の数であればこのような性質を有することは当然である。
ということは、数字「1、2」と「3」の間にはかなり大きな溝があるような予感がする。
私のような稚拙な思いつきに近い考えでも「3」についてこのように出てくる。一つ一つの数字を検討していけば面白い特徴が見つかるかもしれない。
「3」について整数論、哲学的考察は以下のサイトを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/3
時間があれば「9」、「3」に続いて次に「11」も考えるとするか。
2 件のコメント:
整数論全開ですね、私にはただの数字にしか見えませんが2が素数だったとは意外でした。なぜか素数には惹かれます。
今日あせび温泉行きました。山を拝める露天風呂が好きだからです。入ると一人事を言いながらたまに笑う人とか、水風呂の水を桶で外に出し続ける人とかがいて、映画の「カッコウの巣の上で」状態だったのですが、結構面白かったです。露天はあいにく暗かったので山は真っ暗でしたが、山の尾根からの月の出が拝めました。打たせ湯をかぶりながらの月見ははじめての経験でした。そのあと、いつも通り3回のサウナを終わらせて帰りました。ああ気持ちよかった\(^o^)/
いいですね。サウナに入れる体質の人は。確かにサウナがすんでくつろいでいる人を見るとみんな何の屈託もないような感じです。
ためしに我慢して入って見ましたが、数秒で心悸亢進、焦熱地獄で、このまま閉じ込めらるる!と恐怖が起こり、飛び出ました。
普通の浴槽でも5分も入れません。
こんな状態なのに風呂好きとはおかしいですよね。
お風呂ってうんとぬるい方がいいのになあ~、と浴場関係者に云ったら、ぬるくすれば、家の狭い風呂しか知らない餓鬼どもが、プールにして泳ぎまくるからと言ってました。
なるほど、ガキが風呂で傍若無人に泳いでいるのを見ると、親に代わって捻くりあげたくなります。やっぱ、熱い方がいいか。
あせび温泉、できた時、一回行きました。
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