2022年10月31日月曜日

坑にす

 今日で10月も終わりだ、今年の一年もう後二ヶ月しかない。時の流れの早いのを感じる。そして今日は10月31日、ハロウィンの当日だ。年々ハロウィンは盛んになっていく、日本人はキリスト教徒でもないのに、クリスマスと一緒で本来の宗教行事色が薄れ、今やはっきり言って怪奇仮装大会の様相を呈している。

 このハロウィンの馬鹿騒ぎはかなりまえから広がっていた。私のハロウィンのブログは過去幾つかあるが、最も古いのがこれである(ここクリック)。この過去のブログを探していて気がついた!12年前のこのブログが載っている10月は私がブログを始めた記念月であると、うぅ~ん、一年どころか干支の一巡の12年間もおもえばあっというまだったな。

  そのハロウィンのイブ・イブの日、韓国で悲惨な事故が起こってしまった。その報を聞いたときまず驚いたのはその人数の多さである。154人が雑踏が原因の「圧死」とある。一体どうしたらそんなに死ぬのか。直近の日本の圧死事故は明石花火大会後の雑踏が原因の圧死があるが死者は11人である。韓国の事故は多すぎる気がする。しかし後で映像を見ると、現場は坂になった細い路地である。ぎゅうぎゅうに詰められて混乱した群衆が、下り坂で体が傾き、倒れる力がより強く加わったのが分かる。まるで空気の入った注射器のシリンダーを押すように圧縮され圧死したのだろう。それで驚くほどの死者となったと思われる。

 下り坂で群衆の重さがより加重され被害を大きくした事故を探すと、日本では昭和31年元旦に新潟県彌彦神社で、3mの落差の境内のテラスとそれを結ぶ石段で、大混雑した参拝者が雪崩れてきて、下のテラスと石段下で124人も圧死する事故が起こっている。行き場のない大混雑と落差が大惨事をもたらしたことが分かる。

 客観的にあ~だこ~だ言うのは評論家やジャーナリストに任せるとして、おざなりの同情より、まず第一に自分として巻き込まれないようにどうしたらいいか自己対策を考える。しかしよく考えると、この歳が来て混雑などは努めて避けているので、私が群衆の中で圧死することなどはまずないだろう。

 圧死とはずいぶん苦しいものだと思う。子ンまいとき祖父か祖母に手を引かれギュウギュウの群衆に揉まれたことがある。どうゆう状況か思い出せないが、ともかく私より大きな大人の群衆に埋もれてしまい、人の服以外何も見えない。そのうちとても苦しくなり、「息ができん~~ん!」と泣き叫んだ。そのことがトラウマのようになって今も記憶に残っている。今になって考えると、本当に肉体が圧迫され肺が潰され呼吸困難になったのではなく、ギュウギュウの密集や人いきれで心的なパニックとなり呼吸困難になったものと思われる、だから私の手を引いていた大人はそう慌てることもなく私を抱き上げるかなにかして群衆から連れ出してくれた。

 このソウルの雑踏事故の死亡原因の「圧迫死」というのは、よく考えると大群衆の中だけでおこるものでない。「圧迫死」とはもう少し言葉を分解すると「体幹に対する強度な圧迫による内臓損傷(特に肺など)によって窒息、またはショックを起こし死に至らしめる」と読み解ける。だから圧迫死はなにも群衆のなかだけではない。例えば人を生きたまま竪穴に落し、上からドサッと土をかぶせ全身を埋めると、覆う土の圧力で当然「圧迫死」がおこる。この恐怖は群衆に押しつぶされる以上だろう。アウトローな社会の制裁、あるいは凄惨な犯罪として時々起こっているが、死体、証拠が土中に隠滅されるため発覚しない事件も相当あるだろうことを考えると怖い。

 私のような歳まで世界史が好きでいると、一般的な通史には飽きがきて、いろいろな変わった世界史のエピソードなんかをあさったりする。そのなかでも世界史の有名人たちの異常死の歴史という分野は結構面白い(刺殺、毒殺、面白いのでは腹上死など・・)。その異常死から「圧迫死」というのを探すと、残酷な殺し方を好まない日本史では聞いたことないが、外国では結構多い。有名なところでは中国・東晋時代(4世紀末)の孝武帝が布団蒸しにされ圧迫死させられている。他にも探せなかったが中国史上、皇帝や有名人で圧迫死させられたのが複数いる。ローマ皇帝も確認は出来ないが確かにいたと記憶している。

 中国ではたまさかの暗殺として用いられるどころではない。れっきとした刑罰として存在するのだ。高校の世界史では必ず習うキーワードに『焚書坑儒』というのがある。秦の始皇帝が多くの儒者を殺し、儒学の本を燃やしたことをさす。『焚書坑儒』を読み下し文にすると

 「書ヲ焚キ、儒ヲ坑ニス」(書をたき、儒(者)をあなにす)と読む

 すなわち儒者を竪穴に落とし、土をかぶせ生き埋めにしたのだ。偉そうに自分の治世を批判する儒者を皇帝の権力で圧死による死刑にしたのである。これを「坑にす」というのである。下は世界史のテキストにも載っている「焚書坑儒」の図、一説では数千人このようにしてブチ殺したと言われている。こわ~~~~ぃ世界史のエピソードだ。

2022年10月29日土曜日

汽車をつかっての秋の小遠足

  降りたのは牟岐線の小さな駅・西原駅、駅舎もない。


 吹きさらしのホームだが、不思議なことに立派なトイレがホームの真ん中にある。最近は駅舎があってもトイレがない駅がほとんどであるのに、駅舎のない駅でトイレがあるのはきわめて珍しい。それにトイレは男性女性用があり、おまけに身障者トイレもある。降りたついでに使ったが掃除も行き届き清潔だった。これはどうも鉄道会社の負担で運営しているのでなく、地域コミュニティーが維持しているようだ。こんな小さな駅だが地域の人の温かさがほのぼの伝わって来そうで、ずいぶん印象の良い駅でおりたものだ。


 遠足の目的は後ほど言うとして、目的地まで約1kmである。歩き出したが、まわりは広大な平地が広がり海も近いからか、ずいぶん風が強い。風圧で進むのが困難になるほどだ。遮るものがないので風は紀伊水道から直接吹いてくる。

 普通の田舎道と思っていたが、いたるところにコスモス畑がある。作物ではないので、人々の目を楽しませてくれるために植えてくれている。ここでも地域の人々のやさしさを感じる。しばらく行くと「コスモス街道(ロード)」の表示があった。見に来る人のためのコスモス駐車場もある。


 コスモスの花ばかりではない。鉄道沿線では銀色のススキ、真っ黄色のアワダチソウも目を楽しませてくれた。

 

  この遠足の目的は、秋の草花を楽しむためではない。道中の花々の鑑賞は思いもかけない余徳であった。

 コスモスが目を楽しませてくれたおかげでいつの間にやら目的地に着いた。


 ここで百数十年前、我が郷土が生んだ「和製インディー・ジョーンズ」さんの研究・冒険の写真展があるので見に来たのだ。それについては次回のブログで取り上げます。

2022年10月26日水曜日

水素バス

  昨日のこと、徳島駅に入るため、バスのターミナルと共用の歩道で待っていると終点のバスが止まって乗客を降ろしている。なにげに見ると、見かけがちょっと変わっている。最近増えた新型の「ノンステップバス」かとおもった(確かにノンステップだが)。


  しかしよく見ると横っ腹にこのように書いてある。


 これが水素を燃料に走る車・バスである。すでに市内を走っていたのだろうが、はっきり見たのはこれが初めてだった。

 前に友人の車で北島あたりを走った時、友人が変わったキャノピーのある広い駐車敷地を指して、「これが最新の水素ステーションじょ」といったのを聞いていた。もう2年以上になるかなぁ、コロナ前だ。サスティナブル(持続可能というらし)な社会を目指すためこのころからエコカーじゃの、再生可能エネルギーじゃの、電気自動車だの言われていた。要するに炭酸ガスをできるだけ排出しない(0に近ければ一番良い)社会を目指すのである。

 その一つとして水素エンジンの車が生まれ、いよいよ徳島でもこのように水素ステーションを作って実用が始まったのだ。水素を内燃機関で燃やしてできるのは水だから炭酸ガス排出は0である。電気自動車とならんで将来性が期待されている。私はもうずいぶん以前からマイカーを手放していたので、正直そんな将来の車のことまで関心はなかった。そう遠くない将来、炭酸ガス排出が0となる車にメーカーもユーザーもシフトし、それに適応できない車メーカーは淘汰されると聞けば、そうかと頷くばかりである。

 その炭酸ガス0の車の二大主流は電気自動車、水素自動車であるといわれている。古い人間としては、電気モーターの電気自動車よりレシプロやロータリーエンジンが使える水素自動車の方に愛着がある。レシプロやロータリーエンジンを全くなくしてしまうのは何とも惜しいような気がする。電気モーターでクルクルなんど、なんか味気ない、強力な爆圧でピストンやロータリーを動かすほうが私の好みに合っている。水素自動車はその爆圧、水素爆鳴気で強力な馬力を生み出し車を動かす。

 私は車も持っていないし、機械工学にも詳しくないが、先日、車も持っているし、メカにも強く、また若いので将来の車の乗り換えの考慮から、エコカーに関心がある男の人と話をしたことがあった。その人は、将来は電気自動車が優勢となり、またその生産は国を挙げてバックアップしている中国の自動車メーカーが日本や他の国のメーカーを圧倒するだろうと言っていた。私は自分の好みからレシプロやロータリーのエンジンが好きだから、水素燃料で巻き返しは出来ないものか聞いた。しかし彼は首を振った。電気自動車がやがて全世界を席巻し、エコカーの主流となって、中国の車メーカーが世界の電気自動車のシェアを大きく取るだろうと断言していた。

 (もう自分はそれまで生きてはいまいと思いつつ)ちょっとショックというか嫌な気分になった。百年以上かけて築き上げてきたドイツや日本の自動車は機械工学の華であると言って良い。細かな工作を必要とするピストン、シリンダ、など細かな機械部品が多く、燃費や馬力を上げるため、洗練に洗練を重ねてきた。世が電気自動車一色となれば、それらの技術はすべてガラクタとなる。そして更地になった自動車産業に新しく建てられるのは中国系の電気自動車産業となる、と聞けば残念を通り過ぎて悔しくなる。

 確かに冷静に考えれば電気自動車が未来の主流になることは理解できる。いま蓄電池の容量や充電時間の長さが問題となっているが、これは改善していくだろうし、なにか革命的な技術革新で桁違いの軽量小型大容量の蓄電池が発明されるかも知れない。そうなれば充電する時間を待つのでなく、あらかじめ充電してある小型軽量の蓄電池をカートリッジにすれば一瞬で交換できる。

 しかしなぁ~、機械工学の華のレシプロエンジン、かたや電気モーターくるくる、競争するとどうしても電気モーターが勝つんかなぁ、電気モーターは原理も作るのも簡単、現に私が中学の時、理科か技術家庭科か忘れたが、基本的な素材から電気モーターを作ったことがある。電池につなぐと手作りながらクルクルまわった。もちろん電気自動車の電気モーターは、私の手作りのモーターと比べ馬力が違うが、原理的には同じである。それに対し、レシプロエンジンなんかは、基本的素材から、中学生どころか機械工学を出た大学生でも作る事はできまい。それくらい内燃機関エンジンを一から作るのは難しい。

 中国が世界を席巻しているいわゆる白物家電(冷蔵庫、洗濯機、クーラーなど)は電気モーターが組み込まれている。中国メーカーの電気モーターは量ばかりか質でも改善している。なるほど、基礎から少しづつ積み上げ築いた複雑な機械の塊の内燃エンジンでは、中国は日本、ドイツに追いつけまいが、電気モーターならばと、特化して攻勢をかけてくるだろう。

 将来電気自動車のシェアが大きな部分を占めるのは仕方ないとしても、内燃機関のエンジンはなんとか将来も、発展的に残すべきであると考えている。そうすると炭酸ガスを出さない水素エンジンは、その希望の一つである。内燃機関エンジンの技術、ノウハウを全部破棄するには惜しい気がするがどうだろうか。

追記(訂正)

 ブログをアップした後で「水素自動車」について調べると、二種類の全く違う原理で動くタイプがあることが分かりました。

 一つは、内燃機関エンジンの「水素を直接燃焼させるタイプ」、これが私のブログのいう水素自動車であります。

 二つ目は「燃料電池を用いて発電するタイプ」でこれは水素と酸素から発電して、その電気で電気モーターを回す仕組みです。結局、電気自動車と変わりありません。

 そして徳島バスが走らせているバスは後者の、水素を消費する燃料電池を用いて発電し、電気モーターを回すしくみの車でした。

 私が見た徳島バスは確かにタンクから水素を補給して走りますが、これは水素バスというより「燃料電池自動車」です。上の二枚の写真をみると、「この車両は水素で走っています」と書いてありますが、「水素バス」とは書かれていません。私の早とちりでした。内燃機関で水素を燃やす「水素バス」は徳島ではまだ走ってはいませんでした。他府県ではバス以外にも乗用車、トラックなどが走っています。

2022年10月25日火曜日

砂糖の話 その6最終回 金平糖

  眉山山麓に周回遊歩道がある(眉山病院から神武天皇像までの道) そこを少し散歩をしようとアミコビルから向かったが新町橋を通って天神さんにつく頃にしぐれてきた。雨宿りのつもりで阿波踊り会館に入った。中には郷土の土産物売り場がある。いろいろ見て回ったがその中に阿波三盆糖のサトウ菓子があった。


 このブログで砂糖の話を書いて6回目となった。ブログの最初は原料のサトウキビから始めた。そして今も我が郷土に残るサトウキビ畑、伝統の砂糖産業などについて書いた。それから作られる菓子などについても取り上げたが、その伝統の阿波三盆糖のサトウ菓子、考えたら食べたことがなかった。どんな甘みか一つ買ってたべてやろうと、その和三盆糖の詰め折りの値を見た。徳用マッチ箱より一回り小さい箱にいろいろな色や形の詰め合わせが2000円である。

 バラで小袋に十円玉くらいの和三盆糖菓子が一つ入ったのもあり、これは200円くらいだった。どんなものか味わうために買うならこれがいいかなとおもったが、そこでちょっと考えた。子どもの時の記憶のどこにもこんな上品な「阿波三盆糖のサトウ菓子」など食べたことがない。さして余生も長くない私である。おそらく生涯一度となるその試食は意味あるのか、そう考えると、子ンまい時、祖父母に育てられた家に客用のお茶うけとしていつも茶箪笥にあった、金平糖の甘みがなぜか思い出されてきた。

 「こんな爺になって今更高級なサトウ菓子の甘みを味わうより、もうずいぶん味わったことのない、あの懐かしい金平糖の甘みをまた味わいたい」

 と思い返され、結局、阿波三盆糖のサトウ菓子を買うのを止めた。ここの土産物売り場には金平糖などない。近くのコンビニに寄ってみたがやはりない。砂糖のブログの話を書き始めてからスーパーの菓子売り場でどんなサトウ菓子があるのだろうと思って見たこともあるが、金平糖は私がよく行く佐古ハロウズにも佐古コスモスにもないことは確認していた。そうするとどこにある?

 前にアミコビル一階の無印良品でサトウ菓子の一種、綿アメを買ったことを思い出し、そこで探すとあった。一袋税込みで99円、なんと安くて庶民的な菓子であることよ。

 安もんの金平糖と馬鹿にすることなかれ、金平糖は歴史的に見ると西洋菓子のルーツでもある。16世紀南蛮人が渡来したとき持ってきたのが金平糖。そしてコンペイトウの名はポルトガル語のコンフェイトから来ている、これは(英語の)菓子というconfectionとも同じ語源である。18世紀末ころ生まれた和三盆の菓子より歴史は古くその名も由緒があるのである。

 袋を破ってポイっと口にいれた。小さな石をくわえた感じだ、歯に当たるとカチッと音がする。そんなに甘みはない、でも舌でころがすと甘みがジュワ~と口中に広がる。あめ玉とは違った、なにか清涼感のある甘みだ。大昔祖父母の家に常においてあったお茶うけの菓子の味だ。

2022年10月24日月曜日

令和四年・鴨島大菊人形

 今日は「鴨島大菊人形」の紹介ですが、一方的な記述を避けるため、本日は二人の対話形式でイベントを紹介したいと思います。まずキャラの簡単な紹介から

 👨 20代後半のサラリーマン、早くもくたぶれがみられる、真面目一方でやって来たためか、彼女いない歴も年齢と同じ、常識人だが融通が利かない、ITが得意で勉強好き キャラ名はヒロシ

 👩 年齢は絶対言わないため不詳だが、一度口を滑らせて、徳島大空襲で東の空が赤くなったのみたわ、と言ったので80才はとうに過ぎている勘定、香水キツイ厚化粧で、本人は40才前後の上品で美しいオバさまに見られたがっている元気なオバハン キャラ名はビデ夫人


鑑賞する二人 

👨 今、吉野川市役所の敷地内で菊人形をやっていますがビデさんはもう見られましたか?もし暇ならボクと一緒に行ってみませんか。

👩 あら、うれしい、デェトみたいね、母子と見られたらいいけど、恋人同士とみられたらどうしよう、知り合いにあったらあなた、うろたえるんじゃない

👨いえそんなこと気にしませんから、さぁ一緒に行きましょう(内心)れはない!むしろ祖母孝行やってるのかなと思われるわ!

  さぁ着きましたよ。



👩 あら、菊人形だけじゃなく、菊の品評会もやっているのね。鉢の菊や懸崖菊はまだ蕾や開きかけが多いわね、ちょっと早かったかしら。

👨 そうですね、遠くから来る人はたびたび見られないので、この開き具合だと数週間後の盛りに見に来ればいいかも知れませんね、来月の20日までやってますからね。でもビデ夫人や僕は町内だからたびたび見に来ればいいじゃないですか。

 次のメインの「菊人形」のブースを見ましょうよ。



👩 まぁ、こちらの菊人形は小菊で作られているからか、菊もきれいに開いて衣装もきれいこと、うふっ、小菊といやぁ、十年前、祇園で舞妓に出てた時、わたし「小菊ちゃん」て呼ばれたのよ。

👨 (内心)あ、いかん、またボケからくる妄想が始まったか、話題をそらさにゃ、取り合ずブースの菊人形の場面、全部見てみましょうよ、

👩 毎年、大河ドラマが主題でその菊人形シーンをやってるそうね、この場面は今年の大河「鎌倉殿の13人」ね。ヒロシ君、なんでもよく知っているのに、このシーン、大河のどんなとこなのさ、さぁ早く私に説明してちょうだい。

👨 ビデ夫人、じゃぁ説明しますからよく聞いてくださいよ、まずこのシーンの主題名「頼朝旗挙」とありますね、頼朝の旗挙げ、すなわち伊豆の流人であった頼朝が京の平氏政権に反逆するため武装ほう起したことです。1180年のことです。そのシーンですよ。

👩 あら、そう、でもこの三人のうち、一人、坊ンさんがいるじゃないの、戦闘開始のシーンでこの坊さん、場違いなんじゃない、後白河法皇ってあるけど。

👨 いや、これは菊人形場面の作成上、大河のキャラを無理やり1シーンに詰め込んだのであって、頼朝、義時は伊豆の挙兵で直接協力しましたが、後白河法皇は京都にいましたからね。

👩 そう、なるほどね、でもこの坊さん、同じシーンに納まっていると言うことは源氏の味方なんでしょう?どうなの?

👨 う~ん、味方か敵かで分けるのは微妙ですね。そもそも後白河法皇は「一天の君」と言われる帝王ですから、彼が支持する源氏あるいは平氏が正統政権となり、それに反対するのが敵となります。そうすると1180年の時点では京都の後白河法皇を擁する平氏に反逆してますから、この時は頼朝は建前は後白河法皇の敵となります。ですけど後白河法皇はなかなかの策士、日和見主義者という人もいますが、時と状況によっていろいろと支持する相手を変えています。まぁ、それだけ歴史好きから見ると面白い時代ですが。

👩  あぁやめて!よくわからなないわ、分かる話をしましょう。大河のキャストは後白河法皇は西田敏行。頼朝は大泉洋、義時は小栗旬でしょう。毎年の大河の菊人形の顔つき、年によって似ていることもあるしそうでないときもあるわね、以前の清盛だったかしらあの人形の顔は主役の松山ケンイチによく似てたわ、それに比べ義時は小栗旬に似ていないし、後白河法皇なんか西田敏行とぜんぜんにていない、これだれよ、って感じね。でも頼朝は横顔がちょっとだけ大泉洋に似てなぃ?三枚目で馬鹿ズラの感じが良く出てるわ。

👨 もぅ、ビデさんの批評は遠慮なしですね、

 さぁ、次を見ますよ、えぇっと、このシーンは「北条の姉弟」となってます。義時は北条の総領、政子はその姉で頼朝の正妻ですよ。


👩 政子ね、この人はよく知ってますよ。女人ながら鎌倉幕府の隠れた将軍、尼将軍とか謂われたんじゃない。日本史上、女性が政治の第一人者になるのは希なのにたいしたもんだわ、私も女性として尊敬するわ。

👨 そうでしょうね、ビデ夫人と相性が合いそうですね。彼女は頼朝の正妻で二代と三代将軍の実母だから幕府の力を握ったのも分かるのですが、京都方から鎌倉が朝敵として追討令を出されたとき、彼女が鎌倉御家人の前で行った演説は幕府存続のため万丈の気をはいたものとして有名ですよ。だから頼朝正室そして将軍実母としてのお飾りの権威だけでなく、政治的な実力もあったと思われています。

👩 私もね、実はね(と急に声を落として)、祇園の舞妓からねぇ、某国の大統領に見初められてね正妻に迎えられたのよ、そして某国の大統領夫人になったのよ、だから私も鎌倉幕府の政子さんのように、彼女の苦労、分かるわ、でも悲しいことにクーデターが起こってね、私は追放なの、あぁ、政子さんのように気丈だと良かったんだけど、私はかよわかったの、クーデターの時は美人薄命で断頭台の露と消える覚悟までしたのよ、すんでのことで・・

👨 (ぁ、いかん、また妄想がぶり返した!さぁさぁ、ビデ夫人!次のシーンにいきますよ。

 次の場面、どこの、そしてどうゆうものかわかりますか。よく見てくださいよ。説明文も読んでくださいね。


👩 まぁ美しい(しばらくウットリ見つめ、おもむろに説明文を読む)、場所は花の吉野ね、咲きそろう桜、そして義経は日本の三大美男武将の一人ね、そして恋人の白拍子静御前も美女ね、舞姿も美しいわ、私が舞妓の時の踊りを思い出すわ(まただ!)、説明を見なくてもわかるわ、きっと悲しい別れね、説明にはこのあと謀反人義経の女として捕まり鎌倉に送られたとあるわ、なんという悲劇でしょう(ビデ夫人、ハンケチを取り出し泣く真似をする、このような場合、一連の所作が終わるまで放置しておくのが一番

👨 (十分時間を取った後)ビデ夫人、ちょっとボクが解説していいですか?確かに美しい花の吉野の花盛り、そして天下の美男美女、この上ない美しいシーンですが、史実をいえばこれはないですよ。吉野山に潜伏し静御前と別れたのは事実としても、花の季節じゃないですよ。旧暦の11月、冬ですよ、それは後に静御前が詠んだ和歌「吉野山、峰の白雪踏み分けて、入りにし人の 後ぞ恋しき」という歌からも花の季節じゃないと分かりますよね。また鎌倉に謀反人義経の女として送られますが、舞を所望されただけで許されます。このとき身ごもった義経の嬰児は殺されるという話もありますが、史実としてはわかりません。ともかくゆるされ、母と一緒に余生をおくります。その鎌倉に連れてこられたときの舞の歌が「しずやしず、しずのおだまき・・・

👩 (怒!)ちょいと!ヒロシ!あんたが歴史に詳しいのはよくわかったわよ。私のような美女と(どこが!)いっしょにこんな美しい別れのシーン見て、私が美しいわ、と感動しているのに事実だかなんだかしらないけどそんな無味乾燥な能書きならべてどうするの。だからアンタは今まで彼女一人出来ないんじゃない。こういうときはね、能書きなぞタラタラ言うんじゃないの、私と一緒に、フリでもいいから感動して、この白拍子静御前、まるでビデさんのように綺麗ですね、とかいうの、まぁ、ヒロシに比べたら私は少し年増だから(少しどころか半世紀以上あるわ!)、言いにくかったらせめて「この静御前、ビデさんの若いときに似てるなぁ、楚々とした美しさなんか今でも変わりませんよ」とかいうの。女はそういうのに弱いの。まったく、ヒロシは、ムードのあるとこでお経を唱えるようなもんよ、わかったわね。

👨 (トホホ)はい、肝に銘じます。これで大河ドラマの3シーンは見終わりましたが、次にもう一つ「ゆるキャラ」菊人形があるから見てみましょう。

 さあこれです。


👨 わが吉野川市のゆるキャラのカップルです。「ヨッピーとピッピー」とあります。恥ずかしながらボク、吉野川の住人ですけどご当地のこんなゆるキャラは知りませんでした。ビデさんは知ってましたか。

👩 私はとうにご存じよ。

👨 それにしてもこのネーミングのいわれはどこからきたのかな、ボクはそっちに興味があります。奈良の「セント君」は2010年の、奈良平城京の遷都1300年祭から来てるし、「クマもん」のクマは熊本のだし、いったいなんだろ?

👩 まったく、アンタは!小利口なくせにこういうのは知らないのね。よぉ~に聞ぃときや、今を去ること200年ほど前、このあたり一体は低湿地だったの、だからね作物の実りも悪く、貧しい家が多かったわけ。

👨 (歴史好きのヒロシ君、俄然、興味が沸き起こり真剣にビデさんの話に耳を傾ける)おお、面白そうな話になりそうですね、ふむふむ。

👩 あまりの惨めさを忘れるため、亭主は嫁をひっぱたいてなけなしの金を引っ張り出し、酒を飲んで酔っ払ったわけ、

👨 ふんふん、それで

👩 残された嫁や子は食うや食わずで体力も衰えきっていた、また住んでるところは低湿地だったため赤痢まではやり弱った体を襲ったわけ。亭主は一日中酒を手にし酔っ払い、嫁子は赤痢や流行性の胃腸病で腹を下し息も絶え絶え。

👨 うわぁ、悲惨ですね、それからどうなりました?

👩 どうなりましたって?それでおしまい。

👨 ちょとビデ夫人!それがなんでゆるキャラのネーミングになるんですか、わけ分かりません。

👩 だから亭主は酒に酔っ払い「ヨッピー」君で、嫁子は下痢腹、ビチ糞で「ピッピー」ちゃん。

👨 え!(目が点)、それホントですか。

👩 馬鹿ねぇ、嘘に決まっているでしょ。でもそう覚えればアナタ、この名前もう覚えたでしょ。

👨 確かに、酒にヨッピー、とお腹がピッピー、しっかり覚えました。でも本当はどうなんです、それが分かりませんが、

👩 ふん!こんなド田舎のゆるキャラなんてどうせ大した理由なんかないわさ、そうとでも覚えておきなさい。

👨 もう、ビデ夫人は無茶なこと言いますね。

👩 これでもう鑑賞は終わりね、私なんだか疲れたわ、少し足元がヨッピーだから、ヒロシ、アナタ、優しくアタイをおぶって帰って頂戴。

2022年10月23日日曜日

アスタムランドのイヴェントを見てきた

  昼から友人と一緒にアスタムランドで「食べ物フェア」やファンファーレバンド演奏、大道芸の見世物があるということで見に行った。駐車場はほぼ満杯、いつになく大勢の人出で、親子連れが多く、賑わっていた。

 野外演奏はもう終わっていた。最後にグループが記念撮影していた。


 テントでのブースやキッチンカーでの販売店が数え切れないくらい多かった。行列が出来ている店も多く、このケバブの店や和三盆のカスティラの店の列は長かった。我々はあるブースで子椎茸の天ぷらを買い食いした。


 木工品の即時販売フェアもあった。杉材で上質の木工品だが安かった。木製折りたたみ椅子が1500円だった。


 こちらは大道芸の会場

2022年10月22日土曜日

矢上の大楠を見に行った。

 


 先日、文化の森博物館特別展示「阿波の旅人」を見に行った。そこで江戸期におけるわが阿波の国の名所案内ガイドとでもいえる当時の本が展示してあった。「阿波名所図会」である。文化8年出版だから今から210年びゃぁも昔である。当時は飛行機どころか汽車もバスもタキシもない時代、今でこそ阿波の名所に観光に来る人は外国人も含め大半が県外人であるが、当時は阿波藩内の人、近までは讃岐、また四国巡礼者などが多かったと思われる。

 この阿波名所図会はその名のようにガイド解説とともに大きくその名所の風景の木版画が入っているのが特徴で、実際に行かなくてもこの本を読むだけでも満足感を得る。文化年間の本であるので和綴じの本で今では貴重本だが当時から人気のこの本、現代に復刻本が出ているので大体県内のどの図書館でも閲覧できる。数年前に私はこの復刻版を閲覧した。江戸期文化年間、阿波名所として紹介されている観光地はほとんどが今もローカルな観光地として存続している。「鳴門真景」「桜間池」「五百羅漢」「大滝山時明院」「祖谷の蔓橋」など、(他にもあるが省略)、70年以上生きてきた私であるから、この阿波名称図会に載っている名所はほとんどいったが、特別展のポスターに載っている(左上ポスターがそれ)「矢上の大楠」はまだ行ったことがなかった。

 昨日、秋晴れのすがすがしい朝を迎えたので「今日、行ってこまそ」と思い、佐古駅においてある自転車で、ちょっと遠出だが「四国三郎橋」を渡っていく計画だった。しかし事前にググルの地図で調べるとかなり遠い、以前、自転車で佐古から「夢タウン」まで行ったことがあるがその距離どころじゃない。で、やはりググルのマップをもとに変更したのが高徳線「阿波川端駅」から徒歩で行くコース、歩いて2km強だから涼しい秋でもあるし、ゆっくり歩けば負担も軽い。

 この駅から歩いて「矢上の大楠」まで出発


 原野はセイタカアワダチソウの黄色花が風に揺れている。これは帰化植物なので江戸期の旅人は秋でもこんな光景は見なかった。


 ゆっくり歩いて40分びゃぁで大楠のある「春日神社」についた。大きな神社を予想していたが意外とチンマリした神社だった。祭神は「春日の神さん」。だがなぜか鳥居が真っ赤、お稲荷さんか、弁天はんかとまちがう。春日の神さんも鳥居は赤なのかなぁ


 まず説明版を見てみよう


なんと樹齢が1200~1400年!もっとも古い推定だと飛鳥時代に誕生したことになる。江戸期の文化年間でも千年以上の樹齢があった。

 これがその大楠


 根方に洞穴のようになったところがある。これは江戸期の図会でも確認できる。よく見るとわかるがこの根方が大楠の最も古い部分で、幹というより巨大な塊となっている、そしてそこから放射状に新しい幹が伸びているが幹の色つやから若木とわかる。


日本昔話で瘤取り爺さんが、鬼の目から隠れるため木の根方のウロ(木の洞窟)に隠れるというのがあるがこんな木の様子だったんだろなぁ


 阿波名所図会と並べてみると200年以上たっているが根方の部分はそう変わっていないのがわかる


動画

2022年10月21日金曜日

鑑賞の秋だ! 催し物二つ見たよ 

どっちもタダだよ 

徳島城野外彫刻展

 写実的な彫刻や少々デフォルメされたものは知覚しやすいが、中にはシュールすぎて全く知覚できないのもある。下の作品などは写実的でわかりやすい。マントを頭から深く被っているし全体が黒いので不気味感はあるが。近寄って下から顔を覗きこむと・・・😖


文化の森博物館特別企画 阿波の旅人

 江戸期の庶民の各種の旅、物見遊山から聖地巡礼までいろいろある、展示しているのは通行手形や納経帳、旅の風景の木版画、旅の手引き本など。


行商も旅人に入っているのかな、下は阿波の南方(ミナミカタ)から各地に出向いて海産物を行商した「いただきさん」

2022年10月20日木曜日

昨日のニュース雑感

  数日前、ドリフターズのメンバーの仲本工事さんが車にはねられ重傷と聞いた。ニュースの記事を見ると年齢が81才とある、もうそんな歳かとおもったが、私が20代の頃から「八時だよ全員集合」で腹の底から笑わせてくれたのを思うと、その私が70才を過ぎるのだから、当然であろう。彼はお笑いを醸し出すキャラとしてはメンバーの中では主流ではなかったが、コントのなかではよく器械体操のような動きなど、運動神経の機敏さを表現するような役が多かった。そんな彼でも80才をこえると反射神経も鈍るのかなぁ、横断中にはねられた。なんとか回復してほしいと、その後のニュースを注意していたが、やがて重体と聞こえてきて昨日訃報を耳にした。

 ドリフのメンバーは6人いたがこれで今、現存するのは加藤茶と高木ブーの二人になった。二年前、志村けんがコロナでなくなったニュースはその死因もありかなり衝撃をうけた。私がドリフでは一番気に入っていたのが彼だった。今でも、気分がふさぐときはYouTubeで彼のキャラの一つである「ひとみ婆さん」のコントを見て大笑いしている。歳ぃいくと面白いことや笑うことがどんどん少なくなっているが、今でもこのコントを見ると、昔、「八時半だよ全員集合」を見ていた20代の時のように、心のそこから大笑いできる。

 ロシャの国のことわざだったと思うが「人は死んで、みな順番に墓に入る」と言うのがあるが、みんな時の流れとともに消えていくんだなぁ。

合掌

 次の話題は厳密にいうとニュースではないが、まぁよく似たものとして取り上げる。昨夜、何気にテレビを見ていると目に飛びこんだのが私が毎日使っている「鴨島駅」である。そこに「火野正平」さんがいる。驚いた!番組名を見ると「こころ旅」とある、これは読者の手紙を元にその手紙にある場所を訪ねる番組である。

 正平さんが手紙を読んでいるのを聞くと、主は70歳ちょい手前の女性、そして訪ねてほし場所は「県立川島高校」、半世紀以上前、ある親しい友人と楽しく会話しながら川島駅から坂を上って通学したこと、そしてその友は30代半ばで病で亡くなったことが記されていて、その半世紀以上前の女子高生の時友と共にあるいたその「坂」をぜひ正平さんに訪ねていってほしいとのことであった。これを聞いて二度びっくり、なぜなら、私がやはり半世紀以上前、同じ坂を毎日通ったのがこの川島高校だったからである。(このブログの右上のプロフィール欄にワイの高校時代の写真を貼ってあるが、この写真はその高校のクラスの集合写真の一部である

 出発地はだから、わたしのおなじみの鴨島駅。下は鴨島駅ベンチに腰掛ける正平さん。正平さんも歳ぃいったな、なんかこの写真を見ると、まるでワイが鏡に向かっているようやわ。


 今朝、汽車に乗るとき鴨島駅の同じ場所を確認した。そう、この下図の場所が、今でも高校生が汽車の時間待ちをしているベンチで、正平さんはすわっていた。


 駅前から南の向かっての通りの一つにボロボロになったアーケード街がある、正平さんはそこを自転車でゆく。大昔、手紙の主やワイが半世紀以上前の高校生の時は、この通りも「銀座通り」と呼ばれ、いろいろな店がひしめき、買い物客でにぎわっていた、しかし今はずっと南の国道ぶちに賑わいの中心は移ってしまい、現在ではほとんどの店が閉まっていてシャッタ―街と化している。


 「いやぁ~、こんな撮影があったとは地元じゃが、知らなんだ、知っていたら何があってもそれを放っておいて見に行ったのに、残念。それにしても何時撮影に来たのだろう。この後、なぜか吉野川土手沿いを(上の写真から向かっているのとは方向が違う)走った時、その撮影時の手がかりがあった。曼殊沙華が真っ盛りなのである。今年は盛りが少し遅かったので9月下旬ころと思われる。下は曼殊沙華の咲く吉野川堤防上の道をゆく正平さん。(今日、鴨島駅の駅員さんに聞くとやはり9月下旬に撮影に来たそうだ


 そして例の「坂」を、正平さんも川島高校生のように徒歩で上った。「あぁ、ワイもこの坂を上ったはるか昔の高校の時が思い出されるわ」


そして川島高校校門前につく、実はワイが高校の時(手紙の主もだが)は正門はこの場所とは違っていた。校舎ももちろん(現校舎もかなり古くなっているが)ワイの時とは違う、まだ木造だった。そして最後に、校舎(後方の鉄筋コンクリト)が見える坂の途中で立ち止まり、改めて読者の手紙を読む正平さん。



2022年10月18日火曜日

砂糖菓子 砂糖の話その5 サトウ菓子は工芸品?

 砂糖について最近いろいろとブログに書いてるせいか急に綿アメが食べたくなった。子ンまい時はよく食べたあのふわっとした白い雲のようなお菓子、砂糖独特の甘い香り(カラメルの匂いでもないし、ましてバニラ匂いでもない)、その雲のような軽い質量感の綿アメを口に入れモグッとすると、急に解け(まさに雪が解けるように)わずかな砂糖のザラッとした塊が口中に残る。それでもとっても甘く、その口中の独特の舌触りがなんとも言えず懐かしい思い出となってよみがえってくる。

 さて買うと言っても、昔の夜店のように、テキヤはんが綿菓子製造機械のペダルを片足で蹈鞴(タタラ)のように踏み、その動力で回転する同心円状の円筒形の中に吐き出される蜘蛛の糸のような砂糖の糸を、割り箸でクルクル絡め取り、目の前で作ってくれた綿アメなどは、望むべくもない。あらかじめ出来た綿アメをビニル袋に入れてまるで薬局で買う衛生綿のように売っている商品しかない。左のような商品である。値段は99円。アミコの一階にあった。味、口中に入れた感触などは確かに綿アメだが、昔のようにテキヤはんが製造機械の前で足踏みし、作ってくれた綿アメのほうがずっとおいしかった気がする。

 この綿アメ、フーテンの寅はんのような人が縁日の露店で売っているためか上品なサトウ菓子の部類には入らない。砂糖のカラメロ焼とともにゲサクな食べ物と思われている。しかし目の前で、(寅さん)が円筒形の中に吐き出される糸を割り箸で絡め、瞬く間にちぎれ雲の塊のような綿アメに仕上げるのはなにか職人芸を見るような感じがしていた。ワイにもやらせてほしかった(多分やってもうまく出来なかったに違いないが)。

 そうそう、やはり露天の職人芸のサトウ菓子といえば、砂糖細工があった。これも職人芸と言いながら、行商かつ露天の形態からかやはりゲサクな菓子類に思われていた(今だと評価は違うだろうが)。ワイがその職人芸を見つつ買ったのは、縁日の露店ではなかった、ワイが小学校の3~4年の頃までは、小学校の校門からでてすぐのところに、時たま行商の露天が見世を広げていた。子どもの強い興味を引くものを売るのである(かなりのまがいものが多かった)、手品に使える中身が消える小箱だの、ほくろまで取れる万能膏薬、服をすかして骨まで見えると称するX線透視鏡筒だの、である。いまから考えるとまさに子どもだましの商品である。

 そんななかにあって「アメ細工」は綿あめ製造以上に、それを目前で作ってくれる楽しみがあった。そもそもは「しんこ細工」として江戸期にまで遡る伝統を持つものであった(江戸期の素材の「しんこ」は餅に砂糖を加え可塑性を増したもので、アメ状のサトウ細工とは違っていたが)、価格はそれでも10円かせいぜい20円くらいまで、買う子供のリクエストにこたえてその場で、大体は動物が多いが、細工をしてくれた。その時細工に使うのは「日本バサミ」のみ、まず棒の先に粘土のような白いサトウ飴の塊をつけ、それを指と、日本バサミで動物に仕上げるのである。ワイは自分の干支ということもありウサギをリクエストしたが、クイッと瓢箪状にのばした小さな塊のほうが頭部、大きいほうが胴体になった。そこからハサミをチョキンと使い、二つの小片を塊からひねり出し指で成型するとウサギの耳、そして胴体はやはりハサミで四つの切り込みを入れ指を使った成形でそれが四足になった。細工はかなりこまかく、猫をリクエストした場合なんどは、猫が口にネズミをくわえたさままで作っていた。ネコがくわえた小さなネズミらしきものから長いしっぽが飴細工の特性でシュッと細くながく伸びていたのを思い出す。

 もうこのような伝統芸は滅びてしまったのだろう。たとい、残っていたにしても東京か京都に数人いるかいないかだろう、こんな田舎ではそんな職人はとっくに絶滅しただろう。昔しは安っぽい子供だましの行商と思われていただろうが、今考えるとこれはもう「サトウの工芸品」とでもいっていいんじゃないだろうか。


 考えると白砂糖は細工をして工芸品とするには適した食材だ。水を少量、加減して加え熱するとさしてベトつかない粘土のような素材となる。それで塑像を作るように細工するのである。また結晶状のサトウでも熱を加えて押すと自由な形を作ることが可能であるから、型枠をつくれば思うままの形となる。また「角砂糖」をレンガのように積んだり組み合わせたりして建築物や城のようなものを作ったりもできる。ワイが中学の時、白黒テレビの洋画ドラマで「ルーシーショー」が人気で見ていたが、その中でルーシーが角砂糖で「ホワイトハウス」をつくり、見事に出来上がり、いきさつは忘れたが、それを持ってホワイトハウスに入り、時の大統領・ケネディーに見てもらうというのがあったのを思い出した。

 このような大掛かりな「サトウ細工」は17世紀ころ西洋に白砂糖がどっと輸入され始めたときから西洋各国でつくられ、余興、あるいは祝い事などで供せられた。大掛かりなものは庭園や林、人まで配置された城や宮殿などがサトウで作られた。18~19世紀になると貴族に供せられるばかりでなく、庶民もちょっとしたサトウ細工をかって楽しむようになる。日本でもこのころになると国内で白砂糖の一種である「和三盆糖」が作られ、型抜きのサトウ細工や名人芸的なサトウ細工ものが作られるようになった。このような細かい芸術的な工芸品は、今に至るまで日本は決して西洋に引けはとっていないのである。特に「食」に見た目を極めて大切にするのが日本人である。和菓子なども多様な色や形に成形し、季節感や繊細な美を表現した菓子を作っている。上の西洋の城も日本人の作品である。

 江戸期に日本と交流のあった国は三国、阿蘭陀、清朝中国、李氏朝鮮である。この中でも李氏朝鮮とは公使格の交流があり、また鎖国時期の江戸時代、海外の日本人の海外公館としては唯一、朝鮮・釜山に「倭館」があった。そのため朝鮮の記録には日本の食のことも詳しく述べられている。それらを読むと日本の食を海外の人はどう見ていたか知ることができる。

 それによると、やはりというか、大陸や半島の人は今でもそう思っていることが述べられている。曰く

 『彩りや見た目は美しいが、味は変わっている』、『薄味すぎる』、『器は極めて綺麗で洗練されている。皿数(種類)は多いが、盛ってある量が少しで、それもチョコチョコ小出しにしてくるので、全く、満腹しない』などなど。

 しかし、例外なくベタ褒め、絶賛しているのは、日本の菓子類である。これは大人気で贈答品として送られた場合などは奪い合いになっている。思うに、大陸や半島の菓子より、日本は多量の白砂糖を使うため、彼らが絶賛する菓子の味になったと思われる。もちろんこれは江戸期の話で現代ではむしろ大陸や半島の菓子類のほうがサトウを多用しているようである。

 現代の日本の菓子も世界的には評価が高い。江戸期は菓子のおいしさは白砂糖の使用量に寄るところが大きかったが、今もそれは当てはまるのであろうか、もしそうだとすると日本はかなりの砂糖消費国でなければならない、実際はどうかを調べると意外や意外なんと先進国の中どころか、開発途上国と比べても一人あたりの砂糖消費量は少ない。現代では菓子のおいしさは砂糖の量のみによって決まるものではないと言うことか。


 国別砂糖消費量(一人当たり)がわかったところで、そいじゃぁ、ワイの住んどる徳島県は都道府県の中では、どれくらいの(砂糖消費量の)順位になるのか、ちょっと気になる。というのもわが県では人口当たりの糖尿病患者が都道府県の中でダントツ一位だからだ。さぞや多かろうと思うが、しかしこれも意外!なんと22位である。しかし最近、別の調査が発表された。それはコーヒー一杯にどれくらいの砂糖を入れるか、都道府県別の調査である。それによると徳島は全国一入れる砂糖の量が多いのである。いっぱいのコーヒーに入れる砂糖は6.3g、スティックの砂糖二本以上である。全国平均が3.99gなので平均の1.6倍我が県人はコーヒーに砂糖を入れていることになる。

 そういや、ワイの子ンまいとき、多分インスタントだが、訪問した家でコーヒーを出されたことがあった。苦ごぉて飲めたものではないが、教えられたとおり、砂糖ドバドバいれ、ミルクもたっぷり入れると、とてもおいしくなった。コーヒーを飲む作法なんどもしらんから、受け皿についていた小さじで掬って、匙とカップをなんども往復させて啜って飲んだわ。多分こんなコーヒーの飲み方をした田舎者が我が県にはよ~け住んどるから、コーヒーに入れる砂糖も全国一になるのじゃないかな。また徳島県の一地方ではお赤飯に砂糖をかけて食べるのはよく知られている。ちなみに、ライスカレーにさらにウスターソースをかけ、グチャグチャ混ぜて食べる率も全国一は徳島県でないんかしらん。

2022年10月17日月曜日

春日神社秋祭り

  大滝山の春日神社は今日が本祭りである。しかし昨日のブログで紹介したように今年も秋の例大祭は中止のところが多い。春日さんは昨日は宵宮であったが昨日のブログの写真を見てもらったら分かるように夕方の境内は寂しいもので人気がなく、ニャンゴが一匹、私の写真のためにポーズを取ってくれただけであった。

 春日はんも今年は中止かな、と思っていたが昼過ぎ、徳島駅では、神輿こそなかったが御幣や神主さん、それに氏子代表(春日神社の法被を着ている)が、駅に入るところをみた。氏子まわりの神事は行っているようだ。おそらく産土神として、この駅周辺の繁華街の主立った店をまわって祝詞で祝福を挙げるのだろう。その一つとして私はちょうど徳島駅での神事にであったのである。

 しばらく見ていると駅のコンコースの端に白木の祭壇を置き、神主さんが前に立った。JRの制服を着た年配の人が何人か後ろに立ち頭を垂れた。おそらく駅長か助役だろう。そして祝詞がはじまった。



 田舎の小さな神社では祭でまわっても実入りは少ないが、春日はんは徳島の繁華街にある。全てではなかろうが、かなりの有力の店や会社が氏子に名を連ねているのではないか。祭りの祝儀も多く集まるとおもう。戸別まわりの神事はこのように行っている。

2022年10月16日日曜日

秋好日

  近くの小学校で秋の運動会が開かれていた。保護者以外の一般人も外野からなら観覧しても良いとのことであった。


 徳島では「マチアソビ」というコスチューム大会が開かれていて新町川筋界隈は県内外の若い人で賑わっていた。


 運動会もイベントもコロナ以前の元の姿を取り戻しつつあるが、なぜか秋祭りは中止の神社が多い。下助任の八幡神社は例年は14日が宵宮、15日が本祭りであるが、今年もコロナで中止と張り紙がしてあった。


 こちらは大滝山の春日神社、寂しい神社の境内、猫が一匹、カメラを構えるとこっちへ向いてくれた。

2022年10月13日木曜日

砂糖の話 その4 子ども時分甘いものといえば駄菓子屋だったが・・・

  昭和20年代に田舎の貧乏な家庭に生まれた子どもはまず例外なく甘いものに飢えていた。幼い子どもで甘いものが嫌いな子はいない。子どもは成長盛りで常に活発に動くエネルギーを欲しているものであるから、食べるとすぐエネルギーに転換する糖分を好むのは本能的なものであろう。

 しかし昭和20~30年代前半くらいまでは今のように手軽に甘いものが手に入るわけではなかった。砂糖は高価であっためである。家庭に菓子類はなかった。お客さん用に用意されていた「お茶うけの菓子」はウチでは白い金平糖と煎った空豆の二種類が茶缶に入れてあったが、客用なので普段はしまわれていて子どものおやつに食べられるものではなかった。

 結局、ねだって五円玉のお小遣いをもらい買いに走った近所の「駄菓子屋」で甘いものの飢えを癒やしていた。しかし、まぁ、今から考えるとこの駄菓子屋の菓子はひどく粗悪なものだった。駄菓子屋の甘みにふんだんに用いるのにはやはり砂糖は高価すぎたのである。粗製の砂糖などを使っていればいい方で、工業用に穀物類から作られたブドウ糖、果糖の塊を原料として利用したり、またサッカリン(人工甘味料、石炭などから合成される)なども良く使われていた。駄菓子屋の安物の氷菓子などはほぼ色つきのサッカリン水を凍らせたものであった。

 子どもでもサッカリンなどの甘みは分かった。後味が妙に悪く唾や口の中が薄甘ったるい感じがのこった。そしてデンプンを原料に工場で作られるブドウ糖や果糖は、甘みといっても砂糖などとは違い、口中に独特の刺激があった。虫歯があればジュワァとしみ込み痛みを引き起こすような感じがあった。いまだと保健所から即禁止されるような甘みと称する物質が駄菓子屋では大手を振って使われていたのである。

 甘みに飢えていたその子ども時分、お客さん用の茶缶の金平糖などは盗んで食べればその減り具合から見つかるので、こっそりと掬ってなめたのが料理用に壺に入れてあったザラメの砂糖であった。ガバッと掬い舐めたかったがやはり減り具合が気になり少量を時々すくいとり舐めた。子どものころ読んだドイツの童話に(たぶんチルチル、ミチルのお話)お菓子の家が出てくる、そして二人はそれにとりつき食べ始める、甘いものに飢えていた私は何度もそれを思い描き、あぁ、そんな光景が現実になればどれだけいいだろう、天国のようなところやなぁ、と羨ましく思ったものである。

 そうそう、五円玉を握りしめ、おばちゃん頂戴、と嬉々としてとして買った甘いお菓子に「チョコレート」と称するお菓子があった。駄菓子屋の五円のチョコレートが本物のチョコレートのはずはなく、先ほどの工場で作られたブドウ糖・果糖の塊にわずかなカカオパウダーを溶かし、茶色に着色した塊をチョコレートとして駄菓子屋の店頭で売っていた。なんかひりつくような甘さの茶色の塊をチョコレートと思っていた。

 駄菓子屋のチョコレートの味に十分ならされ、これがチョコレートだと思っていたある学年の(多分小学校3,4年の頃)秋のバス遠足の時、裕福な家の子が、茶色の包装紙に包まれた板状の銀紙をパリパリとむき、なかから現れた茶色の板状塊を幾つかに割って、私を含めた何人かの友達に分けてくれたことがあった。食べると駄菓子屋で食べていたチョコレートとは雲泥の差の、まろやかでほろ苦く、なんともいえないすばらしい甘さが口中に広がった。それが本物のチョコレートであった。遠足の時は育ててくれた祖父母も張り込んで、持って行くお菓子は駄菓子屋の五円菓子でなく、キャラメルやビスケットなどの少し高いものを持たせてくれたが、このときまでチョコレートなどは買ってくれたことがなく食べたこともなかった。

 高度経済成長の成果がわが田舎にもその余沢を及ぼし始めたとき、貧しい我が家でもたまにはチョコレートやケーキを口にする機会が持てるようになった。私が小学校6年から中学にかけての時期であった。

 そんな甘みに飢えた子ども時代であったが、歳ぃいった今、チョコやケーキ、羊羹などの強烈な甘みの菓子より、ソバボーロや、郷土菓子である麦輪や白輪、大学芋、ふかし饅頭のような軽い甘みのものを好むようになった。しかし甘いもの好きは変わらないようである。ちなみに甘いものの嗜好を他の味覚に振り向けるはたらきのある飲酒も喫煙も私はしない。

砂糖の話 その3 世界史に影響をあたえた砂糖

  砂糖は今、小麦粉、米、と同じくらいか、もしかするとそれより安い大衆消費食品である。今の若い人などはずっと昔から、小麦粉、米などと同じくらいの価格で、時代ととに推移してきたと思っているかもしれない。しかし私くらいの高齢者となると砂糖は昔ほど高かったことを知っている。太平洋戦争の食品全般の高騰の期間を除くとしても、時代を遡るとともに他と比較した価格は高かった。昔ほど砂糖は貴重な食品だったのである。

 江戸期などは砂糖は少量の量り売りで、そして扱う店は「薬店」だったことを見ても高価なものであったことがわかる。もっと昔、そもそも砂糖は白くなかった。サトウキビを原料として作られるのは濃い色のついた「黒砂糖」の類である。しかし長崎を通じてのオランダ貿易で相当な「白砂糖」が入ってきて、江戸や京・大坂の町にもその砂糖が出回るようになった。この白砂糖の供給が京都や江戸の優れた和菓子を生むことになった。

 この頃になって日常ではないにしても庶民にも、白砂糖やそれからつくられる和菓子、カステイラなどを口にする機会が訪れた(もちろん年に数回あるかないかのハレの日や行事などではあったろうが)その白砂糖が昔、庶民のどういうときに用いられたか今は知る人とて少ない。しかし私がウンと小さい子供の頃はここ四国地方の辺鄙な田舎には残っていた。百聞は一見に如かずで、その用いられた場面を見て見ましょう。



 上図の上写真は白砂糖の紙の袋、この頃になると問屋を通して、国産の砂糖などが広く小売りされるようになり、このような木版印刷された紙の袋に入れて販売されている。もちろん高価で銭で売られるようなものでなく、銀何匁で売られた。そして下図の写真は産褥後(お産)まだ十分体力が回復せず横たわる妊婦である(映画・武士の家計簿の位置1シーンより)。その産婦がなめているのが砂糖の袋に入っていた「白砂糖」である。この時代、砂糖は究極の甘味料でもあったが、また病後、産褥後の回復期に体に滋養を与える妙薬として用いられたのである。今は多くの食品に砂糖が多用されていて砂糖の効用が見過ごされがちだが、砂糖は摂取するとすぐにエネルギーに転換する疲労回復にはもってこいの食品なのである。ましてや粗食で砂糖などめったに食べなかった江戸時代は、その砂糖の効果には顕著なものがあった。私が子ンまい時はまだ四国の片田舎ではその風習が残っていて白砂糖や水飴を妊婦に送っていた。

 江戸期にこのような風習が生まれたことは間違いない。先ほども言ったように砂糖が庶民にまで手が届くようになるのはこの時代からである。長崎貿易で大きな比重を占めた輸入品は白砂糖でありこの時代の需要の大きさを反映してのものであった。しかし18世紀も末頃になると需要の高まりから、日本でもサトウキビから黒砂糖類ばかりでなく、白砂糖も生産されるようになっていく。わが徳島においても白砂糖の製法が確立していく端緒は18世紀末頃のことであった。一昨日、サトウキビ畑を見に行ったがそのサトウキビ畑の横の公園に、その阿波における白砂糖の製造の創始者として知られている「丸山徳弥」の記念碑が建っている。

 さて、庶民にまで広がってきた砂糖の需要はオランダからの白砂糖のみか国産の白砂糖を生むことになり、ますます砂糖の需要・供給量は増えていった。近世世界史をこの白砂糖から見ると面白いことがわかってくる。白砂糖が広く庶民階級にまで出回り、多く用いられるようになったのは西洋のそれも17世紀を過ぎたあたりからである。西洋の海外進出、植民地経営とそれに基づく奴隷による大農園経営によってサトウキビを主に西インド諸島で作り大量に輸入できるようになったからである。同じく海外貿易によって茶やコーヒーの嗜好が庶民にまで広がったことも砂糖需要の増大に拍車をかけた。

 日本でも薩摩や南西諸島では遅くとも17世紀頃までには砂糖生産はされていたが、白砂糖の国産は18世紀(のそれも後期)頃と言われ、その先陣を切ったのはこの阿波、あるいは讃岐であるとしてその元祖争っている。もちろん郷土を愛する私としては、この阿波のほうが若干早いと信じたい。それはともかく、白砂糖の国内生産確立は、17世紀以降の西洋の白砂糖生産流通・販売ほどではないにしても、流通の(国内限定ではあっても)広域化、販売網の整備、そして何より白砂糖生産所は手工業的ではあるが「工場制」を取り入れた産業となっている。

 歴史の不思議として、非西洋であるにもかかわらず明治維新以後、日本が近代的産業を確立し、近代システムの国家に移行しえたのはなぜか、というのがある。いろいろ説明はされているが、この「白砂糖」一つを取り上げても、その江戸期(後期)の生産、流通、販売網などをみると、明治以後、近代的な産業システムを受け入れる素地がこのときすでに出来ていたと私は思っている。

 江戸期の日本では原料のサトウキビも日本国内(南西地方の・四国九州)でまかなえ、生産供給、需要もすべて国内で完結している。そのため白砂糖産業に経済的な近代化(資本主義システム)の芽生えがあったとしてもその絶対的な「富」の量は小さい。そのため自前ではサトウキビ産業ばかりでなく他の「工場制手工業」(例えば醸造業、絹糸、木綿の製糸、織物業)の芽生えを近代的な資本主義システムに育てることはできなかった。

 この観点から西洋における「白砂糖」産業(生産、そして貿易の形態、流通、販売システム)をみると、もう江戸期の日本など全く比較にならぬほど莫大な「富」を生み出していた。寒冷な北西ヨーロッパではサトウキビは出来ない。カリブ海あたりあるいは中南米での植民地でその単一作物の大規模栽培を行い、隣接する砂糖工場で粗糖や糖蜜を作る(一部は白砂糖に精製する)、農場主や工場主は西洋人が主である。この結果、西洋には大量のそして安価な砂糖が流れ込み、植民地が生んだ富は植民地に落とされることなく西洋に流れていった。大量で安価な砂糖は庶民に広く広まり、調味料や菓子作りだけでなく、同じく広まった茶やコーヒーに入れて飲まれた。

 このアメリカ大陸から西洋に向けての砂糖の流れは、砂糖のみにとどまらず、壮大な貿易システムを作り上げた。高校世界史でもおなじみの「三角貿易」である。下のような図でそれを説明される。


 アメリカでのサトウキビ栽培などの大規模農業は労働力の不足を生む、それをアフリカからの奴隷の購入しその黒人をアメリカへ運ぶことによって解決された。奴隷の購入には西洋からアフリカへ各種製品が輸出されそれに充てられる。そしてアメリカから西洋へは砂糖(他、たばこ、後には綿花が多くなる)が運ばれる。三角貿易は「富」が西洋に集中されるシステムである。

 西洋には莫大な資本(余剰な金といっていいだろう)が蓄積され、おまけにアフリカ向けの工業製品の生産も刺激され工業製品の生産は活発化し、さらにその工業製品の原料も(綿花など)アメリカから安く入ってくる。特にイギリスが西洋諸国の中ではもっともそれが大きかった。

 この三角貿易によってイギリスには莫大な資本が蓄積され、そして国内の工業製品の生産拡大のインセンティブが増大し、さらにその原料は海外の植民地から安価に多量に入る、これがイギリスに世界初の「産業革命」がうまれた理由であるとされている。砂糖はその三角貿易のなかでの主力商品だったのである。砂糖によって産業革命が用意される原因の一つとなったのは、近代化を善と考えると良いことかもしれないが、それが総計1000万人をこすアフリカ人をアメリカに運び黒人奴隷を生んだことを考えると、砂糖の歴史にはこのような大きな暗黒面を有している。