数日前、ドリフターズのメンバーの仲本工事さんが車にはねられ重傷と聞いた。ニュースの記事を見ると年齢が81才とある、もうそんな歳かとおもったが、私が20代の頃から「八時だよ全員集合」で腹の底から笑わせてくれたのを思うと、その私が70才を過ぎるのだから、当然であろう。彼はお笑いを醸し出すキャラとしてはメンバーの中では主流ではなかったが、コントのなかではよく器械体操のような動きなど、運動神経の機敏さを表現するような役が多かった。そんな彼でも80才をこえると反射神経も鈍るのかなぁ、横断中にはねられた。なんとか回復してほしいと、その後のニュースを注意していたが、やがて重体と聞こえてきて昨日訃報を耳にした。
ドリフのメンバーは6人いたがこれで今、現存するのは加藤茶と高木ブーの二人になった。二年前、志村けんがコロナでなくなったニュースはその死因もありかなり衝撃をうけた。私がドリフでは一番気に入っていたのが彼だった。今でも、気分がふさぐときはYouTubeで彼のキャラの一つである「ひとみ婆さん」のコントを見て大笑いしている。歳ぃいくと面白いことや笑うことがどんどん少なくなっているが、今でもこのコントを見ると、昔、「八時半だよ全員集合」を見ていた20代の時のように、心のそこから大笑いできる。ロシャの国のことわざだったと思うが「人は死んで、みな順番に墓に入る」と言うのがあるが、みんな時の流れとともに消えていくんだなぁ。
合掌
次の話題は厳密にいうとニュースではないが、まぁよく似たものとして取り上げる。昨夜、何気にテレビを見ていると目に飛びこんだのが私が毎日使っている「鴨島駅」である。そこに「火野正平」さんがいる。驚いた!番組名を見ると「こころ旅」とある、これは読者の手紙を元にその手紙にある場所を訪ねる番組である。
正平さんが手紙を読んでいるのを聞くと、主は70歳ちょい手前の女性、そして訪ねてほし場所は「県立川島高校」、半世紀以上前、ある親しい友人と楽しく会話しながら川島駅から坂を上って通学したこと、そしてその友は30代半ばで病で亡くなったことが記されていて、その半世紀以上前の女子高生の時友と共にあるいたその「坂」をぜひ正平さんに訪ねていってほしいとのことであった。これを聞いて二度びっくり、なぜなら、私がやはり半世紀以上前、同じ坂を毎日通ったのがこの川島高校だったからである。(このブログの右上のプロフィール欄にワイの高校時代の写真を貼ってあるが、この写真はその高校のクラスの集合写真の一部である)
出発地はだから、わたしのおなじみの鴨島駅。下は鴨島駅ベンチに腰掛ける正平さん。正平さんも歳ぃいったな、なんかこの写真を見ると、まるでワイが鏡に向かっているようやわ。
今朝、汽車に乗るとき鴨島駅の同じ場所を確認した。そう、この下図の場所が、今でも高校生が汽車の時間待ちをしているベンチで、正平さんはすわっていた。
駅前から南の向かっての通りの一つにボロボロになったアーケード街がある、正平さんはそこを自転車でゆく。大昔、手紙の主やワイが半世紀以上前の高校生の時は、この通りも「銀座通り」と呼ばれ、いろいろな店がひしめき、買い物客でにぎわっていた、しかし今はずっと南の国道ぶちに賑わいの中心は移ってしまい、現在ではほとんどの店が閉まっていてシャッタ―街と化している。
「いやぁ~、こんな撮影があったとは地元じゃが、知らなんだ、知っていたら何があってもそれを放っておいて見に行ったのに、残念。それにしても何時撮影に来たのだろう。この後、なぜか吉野川土手沿いを(上の写真から向かっているのとは方向が違う)走った時、その撮影時の手がかりがあった。曼殊沙華が真っ盛りなのである。今年は盛りが少し遅かったので9月下旬ころと思われる。下は曼殊沙華の咲く吉野川堤防上の道をゆく正平さん。(今日、鴨島駅の駅員さんに聞くとやはり9月下旬に撮影に来たそうだ)
そして例の「坂」を、正平さんも川島高校生のように徒歩で上った。「あぁ、ワイもこの坂を上ったはるか昔の高校の時が思い出されるわ」
そして川島高校校門前につく、実はワイが高校の時(手紙の主もだが)は正門はこの場所とは違っていた。校舎ももちろん(現校舎もかなり古くなっているが)ワイの時とは違う、まだ木造だった。そして最後に、校舎(後方の鉄筋コンクリト)が見える坂の途中で立ち止まり、改めて読者の手紙を読む正平さん。
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