さて買うと言っても、昔の夜店のように、テキヤはんが綿菓子製造機械のペダルを片足で蹈鞴(タタラ)のように踏み、その動力で回転する同心円状の円筒形の中に吐き出される蜘蛛の糸のような砂糖の糸を、割り箸でクルクル絡め取り、目の前で作ってくれた綿アメなどは、望むべくもない。あらかじめ出来た綿アメをビニル袋に入れてまるで薬局で買う衛生綿のように売っている商品しかない。左のような商品である。値段は99円。アミコの一階にあった。味、口中に入れた感触などは確かに綿アメだが、昔のようにテキヤはんが製造機械の前で足踏みし、作ってくれた綿アメのほうがずっとおいしかった気がする。
この綿アメ、フーテンの寅はんのような人が縁日の露店で売っているためか上品なサトウ菓子の部類には入らない。砂糖のカラメロ焼とともにゲサクな食べ物と思われている。しかし目の前で、(寅さん)が円筒形の中に吐き出される糸を割り箸で絡め、瞬く間にちぎれ雲の塊のような綿アメに仕上げるのはなにか職人芸を見るような感じがしていた。ワイにもやらせてほしかった(多分やってもうまく出来なかったに違いないが)。
そうそう、やはり露天の職人芸のサトウ菓子といえば、砂糖細工があった。これも職人芸と言いながら、行商かつ露天の形態からかやはりゲサクな菓子類に思われていた(今だと評価は違うだろうが)。ワイがその職人芸を見つつ買ったのは、縁日の露店ではなかった、ワイが小学校の3~4年の頃までは、小学校の校門からでてすぐのところに、時たま行商の露天が見世を広げていた。子どもの強い興味を引くものを売るのである(かなりのまがいものが多かった)、手品に使える中身が消える小箱だの、ほくろまで取れる万能膏薬、服をすかして骨まで見えると称するX線透視鏡筒だの、である。いまから考えるとまさに子どもだましの商品である。
そんななかにあって「アメ細工」は綿あめ製造以上に、それを目前で作ってくれる楽しみがあった。そもそもは「しんこ細工」として江戸期にまで遡る伝統を持つものであった(江戸期の素材の「しんこ」は餅に砂糖を加え可塑性を増したもので、アメ状のサトウ細工とは違っていたが)、価格はそれでも10円かせいぜい20円くらいまで、買う子供のリクエストにこたえてその場で、大体は動物が多いが、細工をしてくれた。その時細工に使うのは「日本バサミ」のみ、まず棒の先に粘土のような白いサトウ飴の塊をつけ、それを指と、日本バサミで動物に仕上げるのである。ワイは自分の干支ということもありウサギをリクエストしたが、クイッと瓢箪状にのばした小さな塊のほうが頭部、大きいほうが胴体になった。そこからハサミをチョキンと使い、二つの小片を塊からひねり出し指で成型するとウサギの耳、そして胴体はやはりハサミで四つの切り込みを入れ指を使った成形でそれが四足になった。細工はかなりこまかく、猫をリクエストした場合なんどは、猫が口にネズミをくわえたさままで作っていた。ネコがくわえた小さなネズミらしきものから長いしっぽが飴細工の特性でシュッと細くながく伸びていたのを思い出す。
もうこのような伝統芸は滅びてしまったのだろう。たとい、残っていたにしても東京か京都に数人いるかいないかだろう、こんな田舎ではそんな職人はとっくに絶滅しただろう。昔しは安っぽい子供だましの行商と思われていただろうが、今考えるとこれはもう「サトウの工芸品」とでもいっていいんじゃないだろうか。
考えると白砂糖は細工をして工芸品とするには適した食材だ。水を少量、加減して加え熱するとさしてベトつかない粘土のような素材となる。それで塑像を作るように細工するのである。また結晶状のサトウでも熱を加えて押すと自由な形を作ることが可能であるから、型枠をつくれば思うままの形となる。また「角砂糖」をレンガのように積んだり組み合わせたりして建築物や城のようなものを作ったりもできる。ワイが中学の時、白黒テレビの洋画ドラマで「ルーシーショー」が人気で見ていたが、その中でルーシーが角砂糖で「ホワイトハウス」をつくり、見事に出来上がり、いきさつは忘れたが、それを持ってホワイトハウスに入り、時の大統領・ケネディーに見てもらうというのがあったのを思い出した。
このような大掛かりな「サトウ細工」は17世紀ころ西洋に白砂糖がどっと輸入され始めたときから西洋各国でつくられ、余興、あるいは祝い事などで供せられた。大掛かりなものは庭園や林、人まで配置された城や宮殿などがサトウで作られた。18~19世紀になると貴族に供せられるばかりでなく、庶民もちょっとしたサトウ細工をかって楽しむようになる。日本でもこのころになると国内で白砂糖の一種である「和三盆糖」が作られ、型抜きのサトウ細工や名人芸的なサトウ細工ものが作られるようになった。このような細かい芸術的な工芸品は、今に至るまで日本は決して西洋に引けはとっていないのである。特に「食」に見た目を極めて大切にするのが日本人である。和菓子なども多様な色や形に成形し、季節感や繊細な美を表現した菓子を作っている。上の西洋の城も日本人の作品である。
江戸期に日本と交流のあった国は三国、阿蘭陀、清朝中国、李氏朝鮮である。この中でも李氏朝鮮とは公使格の交流があり、また鎖国時期の江戸時代、海外の日本人の海外公館としては唯一、朝鮮・釜山に「倭館」があった。そのため朝鮮の記録には日本の食のことも詳しく述べられている。それらを読むと日本の食を海外の人はどう見ていたか知ることができる。
それによると、やはりというか、大陸や半島の人は今でもそう思っていることが述べられている。曰く
『彩りや見た目は美しいが、味は変わっている』、『薄味すぎる』、『器は極めて綺麗で洗練されている。皿数(種類)は多いが、盛ってある量が少しで、それもチョコチョコ小出しにしてくるので、全く、満腹しない』などなど。
しかし、例外なくベタ褒め、絶賛しているのは、日本の菓子類である。これは大人気で贈答品として送られた場合などは奪い合いになっている。思うに、大陸や半島の菓子より、日本は多量の白砂糖を使うため、彼らが絶賛する菓子の味になったと思われる。もちろんこれは江戸期の話で現代ではむしろ大陸や半島の菓子類のほうがサトウを多用しているようである。
現代の日本の菓子も世界的には評価が高い。江戸期は菓子のおいしさは白砂糖の使用量に寄るところが大きかったが、今もそれは当てはまるのであろうか、もしそうだとすると日本はかなりの砂糖消費国でなければならない、実際はどうかを調べると意外や意外なんと先進国の中どころか、開発途上国と比べても一人あたりの砂糖消費量は少ない。現代では菓子のおいしさは砂糖の量のみによって決まるものではないと言うことか。
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