昭和20年代に田舎の貧乏な家庭に生まれた子どもはまず例外なく甘いものに飢えていた。幼い子どもで甘いものが嫌いな子はいない。子どもは成長盛りで常に活発に動くエネルギーを欲しているものであるから、食べるとすぐエネルギーに転換する糖分を好むのは本能的なものであろう。
しかし昭和20~30年代前半くらいまでは今のように手軽に甘いものが手に入るわけではなかった。砂糖は高価であっためである。家庭に菓子類はなかった。お客さん用に用意されていた「お茶うけの菓子」はウチでは白い金平糖と煎った空豆の二種類が茶缶に入れてあったが、客用なので普段はしまわれていて子どものおやつに食べられるものではなかった。
結局、ねだって五円玉のお小遣いをもらい買いに走った近所の「駄菓子屋」で甘いものの飢えを癒やしていた。しかし、まぁ、今から考えるとこの駄菓子屋の菓子はひどく粗悪なものだった。駄菓子屋の甘みにふんだんに用いるのにはやはり砂糖は高価すぎたのである。粗製の砂糖などを使っていればいい方で、工業用に穀物類から作られたブドウ糖、果糖の塊を原料として利用したり、またサッカリン(人工甘味料、石炭などから合成される)なども良く使われていた。駄菓子屋の安物の氷菓子などはほぼ色つきのサッカリン水を凍らせたものであった。
子どもでもサッカリンなどの甘みは分かった。後味が妙に悪く唾や口の中が薄甘ったるい感じがのこった。そしてデンプンを原料に工場で作られるブドウ糖や果糖は、甘みといっても砂糖などとは違い、口中に独特の刺激があった。虫歯があればジュワァとしみ込み痛みを引き起こすような感じがあった。いまだと保健所から即禁止されるような甘みと称する物質が駄菓子屋では大手を振って使われていたのである。
甘みに飢えていたその子ども時分、お客さん用の茶缶の金平糖などは盗んで食べればその減り具合から見つかるので、こっそりと掬ってなめたのが料理用に壺に入れてあったザラメの砂糖であった。ガバッと掬い舐めたかったがやはり減り具合が気になり少量を時々すくいとり舐めた。子どものころ読んだドイツの童話に(たぶんチルチル、ミチルのお話)お菓子の家が出てくる、そして二人はそれにとりつき食べ始める、甘いものに飢えていた私は何度もそれを思い描き、あぁ、そんな光景が現実になればどれだけいいだろう、天国のようなところやなぁ、と羨ましく思ったものである。
そうそう、五円玉を握りしめ、おばちゃん頂戴、と嬉々としてとして買った甘いお菓子に「チョコレート」と称するお菓子があった。駄菓子屋の五円のチョコレートが本物のチョコレートのはずはなく、先ほどの工場で作られたブドウ糖・果糖の塊にわずかなカカオパウダーを溶かし、茶色に着色した塊をチョコレートとして駄菓子屋の店頭で売っていた。なんかひりつくような甘さの茶色の塊をチョコレートと思っていた。
駄菓子屋のチョコレートの味に十分ならされ、これがチョコレートだと思っていたある学年の(多分小学校3,4年の頃)秋のバス遠足の時、裕福な家の子が、茶色の包装紙に包まれた板状の銀紙をパリパリとむき、なかから現れた茶色の板状塊を幾つかに割って、私を含めた何人かの友達に分けてくれたことがあった。食べると駄菓子屋で食べていたチョコレートとは雲泥の差の、まろやかでほろ苦く、なんともいえないすばらしい甘さが口中に広がった。それが本物のチョコレートであった。遠足の時は育ててくれた祖父母も張り込んで、持って行くお菓子は駄菓子屋の五円菓子でなく、キャラメルやビスケットなどの少し高いものを持たせてくれたが、このときまでチョコレートなどは買ってくれたことがなく食べたこともなかった。高度経済成長の成果がわが田舎にもその余沢を及ぼし始めたとき、貧しい我が家でもたまにはチョコレートやケーキを口にする機会が持てるようになった。私が小学校6年から中学にかけての時期であった。
そんな甘みに飢えた子ども時代であったが、歳ぃいった今、チョコやケーキ、羊羹などの強烈な甘みの菓子より、ソバボーロや、郷土菓子である麦輪や白輪、大学芋、ふかし饅頭のような軽い甘みのものを好むようになった。しかし甘いもの好きは変わらないようである。ちなみに甘いものの嗜好を他の味覚に振り向けるはたらきのある飲酒も喫煙も私はしない。
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