砂糖は今、小麦粉、米、と同じくらいか、もしかするとそれより安い大衆消費食品である。今の若い人などはずっと昔から、小麦粉、米などと同じくらいの価格で、時代ととに推移してきたと思っているかもしれない。しかし私くらいの高齢者となると砂糖は昔ほど高かったことを知っている。太平洋戦争の食品全般の高騰の期間を除くとしても、時代を遡るとともに他と比較した価格は高かった。昔ほど砂糖は貴重な食品だったのである。
江戸期などは砂糖は少量の量り売りで、そして扱う店は「薬店」だったことを見ても高価なものであったことがわかる。もっと昔、そもそも砂糖は白くなかった。サトウキビを原料として作られるのは濃い色のついた「黒砂糖」の類である。しかし長崎を通じてのオランダ貿易で相当な「白砂糖」が入ってきて、江戸や京・大坂の町にもその砂糖が出回るようになった。この白砂糖の供給が京都や江戸の優れた和菓子を生むことになった。
この頃になって日常ではないにしても庶民にも、白砂糖やそれからつくられる和菓子、カステイラなどを口にする機会が訪れた(もちろん年に数回あるかないかのハレの日や行事などではあったろうが)その白砂糖が昔、庶民のどういうときに用いられたか今は知る人とて少ない。しかし私がウンと小さい子供の頃はここ四国地方の辺鄙な田舎には残っていた。百聞は一見に如かずで、その用いられた場面を見て見ましょう。
上図の上写真は白砂糖の紙の袋、この頃になると問屋を通して、国産の砂糖などが広く小売りされるようになり、このような木版印刷された紙の袋に入れて販売されている。もちろん高価で銭で売られるようなものでなく、銀何匁で売られた。そして下図の写真は産褥後(お産)まだ十分体力が回復せず横たわる妊婦である(映画・武士の家計簿の位置1シーンより)。その産婦がなめているのが砂糖の袋に入っていた「白砂糖」である。この時代、砂糖は究極の甘味料でもあったが、また病後、産褥後の回復期に体に滋養を与える妙薬として用いられたのである。今は多くの食品に砂糖が多用されていて砂糖の効用が見過ごされがちだが、砂糖は摂取するとすぐにエネルギーに転換する疲労回復にはもってこいの食品なのである。ましてや粗食で砂糖などめったに食べなかった江戸時代は、その砂糖の効果には顕著なものがあった。私が子ンまい時はまだ四国の片田舎ではその風習が残っていて白砂糖や水飴を妊婦に送っていた。
江戸期にこのような風習が生まれたことは間違いない。先ほども言ったように砂糖が庶民にまで手が届くようになるのはこの時代からである。長崎貿易で大きな比重を占めた輸入品は白砂糖でありこの時代の需要の大きさを反映してのものであった。しかし18世紀も末頃になると需要の高まりから、日本でもサトウキビから黒砂糖類ばかりでなく、白砂糖も生産されるようになっていく。わが徳島においても白砂糖の製法が確立していく端緒は18世紀末頃のことであった。一昨日、サトウキビ畑を見に行ったがそのサトウキビ畑の横の公園に、その阿波における白砂糖の製造の創始者として知られている「丸山徳弥」の記念碑が建っている。
さて、庶民にまで広がってきた砂糖の需要はオランダからの白砂糖のみか国産の白砂糖を生むことになり、ますます砂糖の需要・供給量は増えていった。近世世界史をこの白砂糖から見ると面白いことがわかってくる。白砂糖が広く庶民階級にまで出回り、多く用いられるようになったのは西洋のそれも17世紀を過ぎたあたりからである。西洋の海外進出、植民地経営とそれに基づく奴隷による大農園経営によってサトウキビを主に西インド諸島で作り大量に輸入できるようになったからである。同じく海外貿易によって茶やコーヒーの嗜好が庶民にまで広がったことも砂糖需要の増大に拍車をかけた。
日本でも薩摩や南西諸島では遅くとも17世紀頃までには砂糖生産はされていたが、白砂糖の国産は18世紀(のそれも後期)頃と言われ、その先陣を切ったのはこの阿波、あるいは讃岐であるとしてその元祖争っている。もちろん郷土を愛する私としては、この阿波のほうが若干早いと信じたい。それはともかく、白砂糖の国内生産確立は、17世紀以降の西洋の白砂糖生産流通・販売ほどではないにしても、流通の(国内限定ではあっても)広域化、販売網の整備、そして何より白砂糖生産所は手工業的ではあるが「工場制」を取り入れた産業となっている。
歴史の不思議として、非西洋であるにもかかわらず明治維新以後、日本が近代的産業を確立し、近代システムの国家に移行しえたのはなぜか、というのがある。いろいろ説明はされているが、この「白砂糖」一つを取り上げても、その江戸期(後期)の生産、流通、販売網などをみると、明治以後、近代的な産業システムを受け入れる素地がこのときすでに出来ていたと私は思っている。
江戸期の日本では原料のサトウキビも日本国内(南西地方の・四国九州)でまかなえ、生産供給、需要もすべて国内で完結している。そのため白砂糖産業に経済的な近代化(資本主義システム)の芽生えがあったとしてもその絶対的な「富」の量は小さい。そのため自前ではサトウキビ産業ばかりでなく他の「工場制手工業」(例えば醸造業、絹糸、木綿の製糸、織物業)の芽生えを近代的な資本主義システムに育てることはできなかった。
この観点から西洋における「白砂糖」産業(生産、そして貿易の形態、流通、販売システム)をみると、もう江戸期の日本など全く比較にならぬほど莫大な「富」を生み出していた。寒冷な北西ヨーロッパではサトウキビは出来ない。カリブ海あたりあるいは中南米での植民地でその単一作物の大規模栽培を行い、隣接する砂糖工場で粗糖や糖蜜を作る(一部は白砂糖に精製する)、農場主や工場主は西洋人が主である。この結果、西洋には大量のそして安価な砂糖が流れ込み、植民地が生んだ富は植民地に落とされることなく西洋に流れていった。大量で安価な砂糖は庶民に広く広まり、調味料や菓子作りだけでなく、同じく広まった茶やコーヒーに入れて飲まれた。
このアメリカ大陸から西洋に向けての砂糖の流れは、砂糖のみにとどまらず、壮大な貿易システムを作り上げた。高校世界史でもおなじみの「三角貿易」である。下のような図でそれを説明される。
アメリカでのサトウキビ栽培などの大規模農業は労働力の不足を生む、それをアフリカからの奴隷の購入しその黒人をアメリカへ運ぶことによって解決された。奴隷の購入には西洋からアフリカへ各種製品が輸出されそれに充てられる。そしてアメリカから西洋へは砂糖(他、たばこ、後には綿花が多くなる)が運ばれる。三角貿易は「富」が西洋に集中されるシステムである。
西洋には莫大な資本(余剰な金といっていいだろう)が蓄積され、おまけにアフリカ向けの工業製品の生産も刺激され工業製品の生産は活発化し、さらにその工業製品の原料も(綿花など)アメリカから安く入ってくる。特にイギリスが西洋諸国の中ではもっともそれが大きかった。
この三角貿易によってイギリスには莫大な資本が蓄積され、そして国内の工業製品の生産拡大のインセンティブが増大し、さらにその原料は海外の植民地から安価に多量に入る、これがイギリスに世界初の「産業革命」がうまれた理由であるとされている。砂糖はその三角貿易のなかでの主力商品だったのである。砂糖によって産業革命が用意される原因の一つとなったのは、近代化を善と考えると良いことかもしれないが、それが総計1000万人をこすアフリカ人をアメリカに運び黒人奴隷を生んだことを考えると、砂糖の歴史にはこのような大きな暗黒面を有している。
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