古希を過ぎたワイらの世代でも子ども時代(当然昭和30年代)のクリスマスの思い出がある。小学校時代、商店街では多くの店がクリスマスの飾り付けをしていた、赤や金、銀のモール、玉、そして雪に見立てた綿などを、切った生木につけてクリスマスツリーを作り店頭に置き、また商店街の拡声器からは「ジングルベル」の曲が流れ、クリスマスの雰囲気を盛り上げ、ワイら子どももなんとなく浮ついた気分になりうれしかったものである。
あまりいいおやつなどなかった子ども時代、クリスマスのうれしさの大半は、ケーキが食べられるということであった。今のようにケーキなど食べるのがありふれた時代とは違い、ワイらの子どもの時はケーキなんど食べられるのはまずクリスマスを除いてなかった。祖父母に育てられ貧しかった我が家でも、クリスマスのときは孫のために張り込んだのか、ケーキを用意してくれた。丸形のいっちょう小ンまいケーキではあったが、それでもローソクの数本は立てるようになっていた。生クリームなんどではなく、安物の無塩マーガリンを甘く味付けした(マーガリン)クリームではあったが、それでもその彩られ形成されたクリーム、そして中のスポンジケーキの味わいは一年に一度きりの、この上ない甘美な味わいであった。
明治生まれの祖父は、クリスマスが近づくと、「ジングルベーなど、耶蘇教の祭りじゃ、なんで、喜んでせにゃならんのじゃ」と(祖父はなぜかクリスマスのことを、ジングルべーといっていた)ブツブツいっていた。それでもカワイイ孫のためか、ウチの庭にあった大きめの盆栽の木を用意してくれ、綿や、ワイが学校で工作の時間作ったクリスマス飾りをつけて(不格好だが)クリスマスツリーを作った。
なんでクリスマスは24日のイブと25日の2日間あるのか
その小学校の頃、こども心に不思議に思ったことがある。低学年の頃は暦などの見方も分からなかったが、3年生くらいになると「日めくり」などを破くとき(今は見かけないが昔は毎日一枚ずつはがす「日めくり」があった)書いてあるその日の行事などを読むようになった。そこでクリスマスには、どうも二日間あるのだ言うことがわかった。24日は「クリスマスイブ」とあり、また25日も「クリスマス」となっている。これはなぜだろうとおもった。日本の祭りでも宵宮があり、前夜祭的なものかとおもうこともあったが、しかしどうみても25日のクリスマスより24日のイブの日が大がかりである。むしろ次の25日などは、売れ残ったケーキの安売り、大急ぎで片付けられるクリスマス飾りなど、いわゆる「六日のアヤメ、十日の菊」状態(いわゆる後の祭りで、無駄なことの例えである)である。これは疑問のまま分からずに大人になった。その疑問が氷解したのは「比較宗教学」関係のユダヤ教の暦に関する説明を読んだからである。
我々は太古の時代から日を今日、明日、二日後、三日後と区切っていた。夜が来て、寝て翌朝目が覚めると次の日が来る、というのが原始人に限らず現代人でももつ日の感覚である。しかし、人間の知能も進んでくると、厳密に考え出した。今日の終わりの時点はいつで明日はいつから始まるのか。寝ている間は無感覚であるから、翌日明るくなれば次の日でいいじゃん!と考えるのがこれまた普通の感覚である。それならみんなが寝静まる深夜に日の替わりの瞬間を持ってきた方がよかぁ~ないか、っつうんで深夜12時が日の変わり目となるのが一般的だ。これはローマ以来、西洋も、古代中国以来の東洋も替わらない。東洋では深夜12時の、子の刻の始まりが一日の最初となる。
しかし古代ユダヤ人は違った。瞬時の日の変わり目が、寝ていて無感覚の深夜の間におこるのが、どうも気色悪いのか(ワイだと逆に、寝とる間の方がいいが)。一日の終わりを地平線に太陽が沈む時にした。すると太陽が沈むと翌日になる。結局一日の始まりは日没時で、それから、夕食時~夜~深夜~朝~昼~そして夕方の日没が一日の終わりとなる。そうなると、つまりこうだ。キリストの生誕の日は、日没から次の日没までとなる。そうすると今日の夜のいわゆる「イブ」と翌日の昼間は「同じ日」と言うことになる。だからユダヤの日付では今日の夜のイブと翌日の昼間は同じ日ということである。現代の日の変わり目からゆうと今日のイブと明日の昼は別の日だが、キリストはんのいたユダヤの日の感覚では同日なのである。なぁ~るほど納得!
そもそもイエスはんってホンマにクリスマスに生まれたんかぇ?
クリスマスは冬至のだいたい二日後、北半球では夕暮れが早く夜長く、寒さの増す季節である。まぁ、2000年も昔だから、誤差として数日は認めてもいいが、イエスはんは冬至の数日後あたりにホンマに生まれたんか?という疑問がある。古代でも王侯貴族なら生まれた年月も記録に残る場合が多いが、なんぼぅ後に「大教祖さま」になるにしたって、生まれたときはビンボ人の大工の小せがれである。母や父が頭に記憶に残しているが、確たる記録なんどはちょっと怪しい。おっかさんのマリヤはんから弟子に口づてに伝えたことも考えられるが、冬至頃の誕生というのはある「文献」の上からでも疑問が呈せられている。
その文献とは他ならぬ「聖書(新約)」の「ルカによる福音書」である。その2章8節には次のようにある。この節はキリストが生まれた時の様子を記したものである。
「その地方では羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき・・云々」
とある。生誕の地ベツレヘムは緯度で言えばワイの住んどる四国と替わらない。冬至頃は草木も枯れるし、かなり寒くなる。現代でも古代でもこの時期、野っ原で羊を放牧し、羊飼いが野宿することはないそうである。この時期は羊は屋根のある所、一歩譲って露天としても密集した囲いの中、で飼われており、当然、羊飼いも小屋や家の中にいて、野宿するなどあり得ない。そうするとまず11月中旬から~翌年の春まではこのような情景はないと言うことになり、12月24日の生誕は怪しくなる。聖書の記述を信じるなら、この時期以外の季節の誕生が考えられる。
それではなぜ、この12月24日にキリストの生誕を持ってきたのか?誤った伝承でそうなった、だけとは言えぬある「事情」があるんやないかとワイは思っている。それはこの日が「冬至の直後」ということである。冬至の2日後、冬至に極大を示した南中時の棒の日影はこのクリスマス頃、ようやく目に見えて短くなることが確認できるのである。太陽が高さを回復し、日中もようやく長くなる兆しを見せるのがこの日なのである。いわゆる「一陽来復」である。北半球の高緯度に住む人々ほどこの日の「一陽来復」を待ち望んだ。そしてこれらは「弱っていた太陽が勢力を増す」うれしい日として古代人は祝った。冬至直後にあるこのような古代人の祝祭は多くの民族が形を変えてもつものである。
キリスト教はドずンべらこい布教の手段を使うときがある、キリスト教は各地にある教宣前の土着宗教を頭から強圧的に抑えるのではなく、土着の聖地とされる土地にキリスト教の教会を建て、以前からの土着信仰の聖地をキリスト教の祈りの場所にすり替えたりしたのである。そうすることにより祈りの場所としての抵抗感をなくすことができる。それと同じように、古代からあった「太陽回復の祭り」の日をキリスト生誕のクリスマスにすることにより、古代の「一陽来復」のめでたい祭りをキリスト教の祭りにすり替えたんじゃないかと思っているが・・・ワイのコンジュ悪る、な推理かもしれん。
え?ギリシア正教ってクリスマスが1月7日やってぇ?
今日のホットなニュースであるが、ウクライナではクリスマスをロシアと同じ1月7日に祝っていたが、ご存じの通り、ロシアとは現在戦争中、国民感情のロシア嫌い、西側が好き、という事もあってか、ウクライナは旧来の1月7日クリスマスを世界基準の12月25日(前にも言ったが前日イブも含む)に合わすそうだ。
でもロシアの準国教である「ギリシア正教」では1月7日がクリスマスやったんやな、これは知らなんだわ。これは現代日本での「元日」を新暦で祝うのと旧暦で祝うのとにちょっと似ている。日本の場合は二つの暦、つまり「太陽暦」と「旧暦」(厳密には太陰太陽暦)の違いで二つの異なる元日となるのである。
同じように世界標準の暦は「グレゴリオ暦」であるが、ギリシア正教の宗教儀式の暦は現在でも「ユリウス暦」をとっているのである。そのため旧正月のように同日同月でも暦が違うとずれを生じるのである。そもそもはユリウス暦(太陽暦)が唯一で西洋もロシアも16世紀まではそれを使って一致していた。ところが太陽の公転周期の日数には端数がある。ユリウス暦は単純に0.25日長いとして、四年に一度の閏日を入れた。ところが厳密には0.25日長いのではなくわずかではあるがそれより0.0078日短かったのである。太陽暦は日付と春分点が一致しなければならない(3月21日)ところがわずかなずれでも何百年、千年とたつとそのずれが10日間弱にもなった。こいつはいかん!となって、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。またわずかだが0.0078日の差も以後の補正をするため、うるう年は100年に一度、ちょうど100で割れる年は「うるう日」を作らない。ただし、2000年など、400で割れる年は、「うるう日」とすることを決めることで補正するようにしたのである。
ところがギリシア正教では(ロシアの社会は革命後グレゴリウス暦を採用したが)いまだにユリウス暦を守り、ますますグレゴリウス暦との日の乖離が進み、その結果、ユリウス暦では、12月25日は1月7日となるのである。なるほどよ~わかったわ。
イエスはんはどの暦で生活したん?
当然ながら現在のグレゴリウス暦でもないし、また当時の支配者であったローマ帝国のユリウス暦でもない。イエスはんが活躍した時代にはキリスト教の最大の祭りクリスマスもない、というかキリスト教が誕生するのはイエスはんが磔刑になったあとである。当時のイエスはんはユダヤ教徒である(異端とされたがユダヤ教の範囲内のことである)。そのイエスはんの生きた時代のユダヤ教の暦は、なんと日本の旧暦とよく似た「太陰太陽暦」つまり新月を月の初めとし、各「月」が季節と大きく乖離しないよう、時々「閏月」を入れる(そのため一年が13ヶ月になることがある)。このユダヤ暦は現在でもイスラエルでは用いられている。