駅前のアミコビル二階のエントランスホールに畳くらいの広さのハート形のピンクのボードがある。「なんぞいなぁ?」などといいつつ、近寄ってつくづく見て、ようやと、「あ、そうかバレイタインデェにちなむ何かだ!」なんぞとわかるのはワイのような半ボケジジイだ。
わっかい子ぉなんぞはみんな知っていて、もらえるやらわからん男しも、誰にあぎょうかと考えるおなごしも、その日が近づくのをわくわくしながら待っているようだ。
ここのショッピングブゥスでもバレイタインデェのプレジェントのチョクレェトを売り出している。先日の節分の寿司以上の売り上げが期待され、お店もそれに力を入れている。その宣伝活動している一環として、このようなハート形のピンクボゥドに、バレイタインデェの願いを書き入れるようにしているのだ。
左のように何も書いていないハート形の短冊が前方の机の上にたくさん置いてあり、それに願いを書いてボードに張り付けるのだ。昔しゃぁこんな風習なんぞなかった。そもそもバレイタインデェもワイが20代の頃はやりだしたものだ。ハートの短冊に願いを書いて張り付けるのは、七夕の短冊あるいは神社の絵馬にヒントを得たのだろうか。 しばらくそこから引いて少しの間みていると、書き入れて貼っている子ぉらが何人もいるが、見た限りでは高校生ばかりだ。女の子ばかりでな男子高校生もグループでやって来てワイワイなんやら冗談いいながら書いている。
前に集う若い衆がいなくなった。みんなの願いどんなこと書いてあるんかぃなぁ、と興味がわいてきて読ませてもらった。
多いのはやはり率直に恋を願う言葉である。「〇〇さん、好きです」「〇〇さん私の方に向いてください」、これらは相手がわかっている子であるが、若い子ぉのなかには特定の「思う人」ができていない子もいるようで、恋愛そのもの、あるいはまだ見ぬ相手を願うものも多い。「好きな人ができますよ~~に」「恋をしたぃなぁ~」「愛につつまれた人生を送りたい」など
中には、なんじゃろ、どういう意味じゃろ、と首を傾げ、想像力をたくましくするのもある。ハート型の短冊を何枚も使い、大き目のひらがな文字で「や」「じゅ」「う」「せ」「ん」「ぱ」「い」と書いてある。ふつうに解釈すれば「野獣先輩」となる。こりゃぁどういう意味じゃろ、映画で「美女と野獣」つぅのがあったが、書いた子はこの美女のヒロインのつもりで自己同一視しているのか、そして先輩が野獣?とすると、この子ぉはどんな恋愛シュチュィエーションを願っているのだろう。きっと願う相手は筋骨隆々、そして若いのにヒゲぼうぼう、胸毛もあるに違いない。そしてたくましい腕で「愛(ぅ)いやつよのぉ~」とか言いながら、ぐっと引き寄せ、キツゥく抱擁、間髪を入れずブチュとあつい口づけ、「いやぁぁ~~~ん、先輩の股間がコリコリして、痛ぁぁい!」ってか。色ボケジジイの想像をかきたてる。
せっかくのバレイタインデェの願いなのに他の願いを書いているのもある。別に悪ぃことではないが、それが「金、金が欲しい」「大金が転がりこみますよ~に」などと、鳴門ボートレェス場の入り口ボードじゃあるまいし、高校生のうちから金銭欲剥き出しなのはちょっとなぁ。「しぁわせになりたぁ~い」なんぞは、恋も愛も金も健康もすべて含んでいいと思う。他者の幸せを願うおもいは好感が持てる。「〇〇さんの病気がはやくよくなるよ~に」など、本来の聖バレイタインデェはそんな主旨じゃなかったのかな。
高校生らしいのもある。「イケメンじょうなん彼氏がほしい」、じょうなん、すなわち城南高校、ワイの時代から偏差値の高い有名進学校だ、昔は全県の(優秀さ)憧れの高校だったが、今の高校教育界でもそれは残っているのだろう、そしてその優秀な城南高校生の中でもイケメンとわ、まぁアイドルとの恋愛を願うようなものだろうか。
生物学的にみると動物のメスは本能的に、交尾行動には、あいてのオスが優秀なのを選ぶという傾向があるから、ヒトのメスが頭も見目形もいいオスを願うのは理にかなっている。じゃが万物の霊長である人間はそのような生殖行動だけでは恋愛は説明できない、もしそうならばブ男やオヘチャは後家(♀~♂の独り者)ばかりになるが世の中はそうなっていない。第一「イケメンじょうなん彼氏がほしい」の願いの高校生が女子という前提で話しているが、これもしかすると男子高校生ということも考えられるからなぁ。
こんなのもあった。熟語二つ「明白な天命」、これをみて、あぁこれも高校生じゃな、とワイは気づいた。一瞬、主に恋愛の願いを書く短冊にこの言葉は、よっぽどシニカルな考えの持ち主、さらに言えば、いろいろやってもしょせんは宿命があり、結局その方向に定まるというような達観した人生観の持ち主じゃないだろうか、とも思うが、高校生からスッとこの言葉が出てくることは不思議でも何でもない。英語の単語帳よろしく世界史の用語辞典を、大学入試のために暗記しているならば、この「明白な天命」(マニフェスト・デスティニー)は必須用語となっている。アメリカ西部開拓時代のキィワァドであり大意は「合衆国が北米大陸の西へ西へと領土を拡大していくことを、神の定めとする思想です」、オベンキョで新しく覚えた新鮮な言葉を、どっかで使ぉてみとぉなるのも青い時代の高校生の特徴なんですよ。
その明白であるが、願い主の多くが高校生と推定される中にあって、あ、これはワイとおなじジジイやわという明白なのがあった。「孫が元気に育ちますように」、ええ爺ちゃんになっとるわ。
それに励まされて、ふとワイもなんぞ願いをかいてこまそ、とおもったが、神社の絵馬、寺の願掛けならいざ知らず、「どぉ~~~ぞ、寝たきりになりませんように、オムツせんでいけますよ~に、長く苦しまず、ポックリあの世へいけますよ~に」と書くのは、この場にふさわしくないのでやめた。さっきの孫の幸せを願うジイちゃんに比べてなんと「哀しき願い」であることよ。
ということで最後にヨウツベの歌で「哀しき願い」を貼り付けました。もう今から60年も昔にリリスされた歌です。高校生のころラヂヲから聞こえてくるこの歌をきき、気に入って聞くだけでなく、自分も歌いました。今聞きながら、17.8歳のころ、恋か愛かわからないが、好感を持てる人がいたのを思い出す。しかし当時の高校生と比べてもワイは悲しいほど消極的で、手をつなぐことさえ成就する可能性は0パーセントだった。歌の文句のように、あきらめ、そして内向して沈潜する、サビの ♪~だぁれのせいでもありゃしない、みんなオイラがわるいのさ~が今でも哀しく響く。
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