お猿さんから枝分かれして人類らしきものが(どこからが人類か定義によって変わってくるが一応、常時二足歩行した種からということにする)誕生したときは身にまとうものなぞつけていなかった。さぞや冬は寒かったろうと思うが、おそらく、今のホモサピエンスのように体毛がほとんどなくヌメッとしたような皮膚ではなく、お猿さんの名残で、毛ぇがボウボウ生えていたのだろう。雪の中で暮らすニホンザルはモフモフで後ろから見ると毛糸玉のように見える。初期人類も毛ぇで体温を保ったのだろう。
雪の中で暮らすニホンザルのようにモフモフのお毛々ならあえて衣服はいらないだろう。しかし初期人類から現世人類に進化する過程で、毛ぇはどんどん薄くなりほとんど皮膚はむき出しになった。さぁ、そこでだ!その体毛を失ったのをカヴァするのが「身にまとうモノ」(最初は毛皮やなめし皮のようなものだったろう)である。しかし体毛が薄くなったので身にまとうものが必要なのはわかるが、その体毛が薄くなるという進化はいったいどのようにして方向づけられ進化した?身にまとうものをつけだしたので、あえて全身の毛が必要なくなり退化したとも考えられる。これは鶏か卵どちらが先かの議論に似ている。まぁともかく体毛がなくなるように進化したのは確かだ。間ぁの悪いことに人類を育んだこの時期は北半球の気温がかなり低下した氷河期を含んでいる。これで人類が身にまとう毛皮やなめし皮あるいは樹皮などを生み出し利用しなかったら寒さのためトンどの昔に滅びていただろう。ケモノの中には体毛をほとんどなくしても寒さの中生きていくことができる種もいる。南氷洋のクジラなんどがそうである。これは体毛の代わりにブ厚い皮膚や皮下脂肪が保温している。しかし人類がそのような保温対策的進化をするとするなら、二足歩行は無理だろうし、手指の繊細さ器用さは望むべくもなく知的人類は誕生しえないだろう。
さぁ、前置きはこれくらいにして、スッポンポンの裸になって、銭湯に入り、布服について考えをめぐらしてみよう。
最近は大都会でも銭湯が少なくなってきている。それ以上に徳島県は銭湯が少ない。徳島県内のほとんどの市町村内で、いまや銭湯経営しているところは軒並みゼロである。その中で最も人口の多い徳島市に7軒が残っている。私が行くのはその中の一つ。創業は戦後すぐなので約80年を数えるが、10年ほど前に新しく建て替えた。脱衣場も洗い場も狭く20人も入れば満員になる。脱衣場のロッカーは24、洗い場のカランは12しかない。湯客は私のようなジジイが大半でかつ常連さんでもあるので、みなさん、ワイワイくち(口)ゃろう言ぅてなじんでいる。そんなアットホムな銭湯である。そうだ、十年びゃぁまえにこの銭湯が新築になって再開業する前にこの銭湯の様子をブログにアップしていた。それに張り付けた動画を見てくれればよくわかる。下がそのブログの動画(2015年11月28日)
布切れ一枚身に着けず脱衣場から中に入るのだが、前書きでも述べたように人にはお猿さんの名残の体毛がある。濃い人もいれば薄い人もいる。濃い人でいえばもう十数年前にこの銭湯で、背中から胸からどこもかしこも黒々した毛がびっしり生えた人を見たことがある。大げさに言えば熊かと見間違うとでもいおうか。こんな多毛なら、多少薄着でも寒さに強いのじゃないかと思いたくなるが、それはあまり関係ないようだ。というのも確かにアイヌさんは多毛質の人が多いが、世界で最も寒い地方に暮らしている(モンゴロイド系)エベンキ族さんなんかは肌はつるりとしていて、体毛が極めて少ない。これなどをみると体毛については人類は寒さとは連関していないといっていいだろう。
ともかく真っ裸じゃ、いくら多毛質の人でも真夏はともかく日本じゃ暮らせない。今晩なぞ(外気の中では)真っ裸で一分たりとも我慢できない。しかし、銭湯の湯船兼洗い場の何と快適なことよ。私はサウナはすかんので入らない。微温湯の湯船ばかりである。そして多くの時間を過ごすのは、蒸気が舞う洗い場である。洗い場の邪魔にならない空間で、壁に体をもたせかけて足をのばすとそのまま十分くらいボォ~としていることがある。そうしていても寒いどころかすこぶる快適で過ごしよいのである。
これは衣服を考えるうえでなかなか示唆に富む状況である。このような(銭湯内の空気)状態ならいくらでも真っ裸で過ごせそうである。計ったことはないが気温はおそらく体温と同じくらい、そして湿度は、冬場になって洗い場は薄く霧が漂うような状態であるから湿度は100%だろう。ただし、長時間いて体がほてってくると、脱衣場にでて、軽く扇風機の風に当たるとこれまた気持ちいい。脱衣場の気温は冬場で20℃台だろう。湿度もグッと下がった方が気持ちがいい。
真っ裸であっても人を取り巻く空気が上記の範囲内を行ったり来たりできるなら快適であるということは、『人が発明した衣服というのは究極、衣服と肌との間にそのような空気状況を作り出すものであるということができる。』人は常に体温や汗(水分)を発散しているので、衣服を工夫して通気性や保温性を変えれば、素肌のまわりを、真っ裸で過ごせる銭湯の洗い場や脱衣場状態に似た空気にすることができる。
アルキメデスはんは風呂に入ってた時、アルキメデスの原理(浮力原理)を発見したっていわれとるが、私は風呂に入って衣服の原理を発見した!ってか?アホぉげとる。ほんなたいしたもんかいなぁ、猫でもきづくわ!
さてぇ、まだまだ私の銭湯内での考察は続きますよぉ。銭湯内、ジイやんが大半といったが若い人も何割かはいる。その若い人をみて最近気づいたことがある。先ほど体毛の話がでたが、若い(特におしゃれそうな若い衆)男性は頭髪を除いて全身、毛がなくスベスベ、ツルツルなのである。これは体質からそうなったのではない。剃っているからなのである。というのも腋毛も股間のチ〇ポの周りの毛ぇがないのである。一人二人しか見ないときはたまたまそういった体質なのだろうくらいに気にしなかったが、若いおしゃれそうな男性の多くがそんな状態なら剃っているとしか考えられない。
「こりゃ、なんぞいな、どしてほなんなるん?」、頭髪の形や口ひげならば、オシャレないしファッションかな、と思うが、腋毛や股間のお毛々はそうそう人前にさらすところとちゃぁうし。と考えると、こりゃ、いわゆる「セクスアッピィル」に違いないと思うのである。この「セクスアッピィル」は衣服を考えるうえでも重要なキィワァドとなる。もしセクスの相手が股間も含めスベスベ肌がええちゅうなら、股間毛ぞりはセクスアッピィルになる。多数派の男はセクスの相手として女性を求めるから、これは最近の若い女性は男性にもスルスルスベスベの肌を求める傾向があるということだろうと推測する。ワイら世代のジイやんは、毛ぇがボウボウの方がマッチョなオスの性をアッピィルできると思っている人が多いがとんだ思い違いだ。最近の女性に毛むくじゃらは嫌われるようだ。
しかし実のところ若い男性がなんでチ〇ポの周りの毛ぇを全部剃っているのか、直接聞いてみたわけではないのでわからない(ちょっと聞きにくいというか、そんなこと裸の風呂場できいたらセクハラになる) あくまでも推測である。
男性の風呂場でのセクスアッピィルに関してはもう一つ重要なことがある。それは必ずしもそのアッピィルは異性(女性)向けに発せられているとは限らないのだ、といっても別にその人がホモというわけではない。若い人はいざ知らずワイらジジイ世代は、チ〇ポが大きいことがセクスが強い、したがってセクスアッピィルも強力だという根拠のない話を信じている人が多い。それゆえデカチ〇ポをみると、男性同士で「ありゃりゃ、まぁデカいこと!こりゃワイの負けじゃわ」、と心理的な敗北を感じ、これも心理的だが性に関しスゴスゴ撤退感となる、これは理性、理屈云々でなく脳の原始的な基幹部分でそのようなメカニズムが働くと考えられる。交尾ができる一匹のメスには多くのオスが群がるが、「力」の強いオスが交尾に性交する。それは他のオスを物理的な力でねじ伏せるのではなく、その特定のオスのある「威圧」が他のオスを(直接的な力を行使せず)圧伏させるのである。万物の霊長である我ら人間がそんなしょむないことで威圧やされるものか、というのは先にも言ったように脳の表面上の理性的論理的な部分の考えで、脳の原始的な基幹部分の痛覚は著しく刺激するのである。
その「ある威圧」は何もチ〇ポのデカさや形ばかりではない。風呂場の真っ裸の中で「ビビる」肉体的アッピイルは他にもある。まぁ顔の「怖さ」も多少あるが、一番大きいのはクリカラ紋々のお兄さんがたではないだろうか。入れ墨である。入浴規則には禁避事項として存在するが私のいく銭湯は緩い、もっとも刺青の人のほとんどは面積も小さく、腕それも片腕だけ、刺青というよりタトゥーといった方が正確かもしれない。その色も黒や濃い藍色のような単純なものが多い。たまぁに、色鮮やかで背中一面ばかりが四肢まで広がるみごとな絵巻のような刺青があり、威圧より先にその美的芸術性に感動するのもあるが。
生まれついてのチ〇ポの大きさ形、筋力などはいかんともしがたい。しかしこれで威圧されるなら弱小なものは困る。そっちの方でなく頭の良さで勝負したいと思う人がいるかもしれない。東京大学なんどを卒業していたら、もしかすると人を内心ビビらすかもしれないが、銭湯に大学の卒業証書を持ってきて見せびらかす人もいまいから、真っ裸になれば威圧にはならない。しかし「刺青」のような後天的に肉体に施せるものなら「ある威圧」になる、だからそれに習おうとする人が出てくるのは自然である。
「ある威圧」、アッピイルと言い換えてもいいが、それをやろうとするに、この後天的に肉体に施せる、ということは重要になる。真っ裸でいかにも弱小げぇな体ならアッピイルは無理でも、体に絵、文様を描く(刺青もその一つ)、あるいは身にまとう、被る、などすることによって、自分をよりきらびやかに、大きく、強げぇに見せることができる。たとえば頭にクジャクなどの羽毛飾りをつける。キラキラした羽をもつ鳥の羽毛で全身を飾る。死んだライオンや虎の毛皮を身にまとう、など。このようにあるものを飾る、身にまとう、というヒトの行為は「衣服の誕生」への一つのアプローチとなるのではないだろうか。
とまぁ、湯船のなかでひった屁ぇみたいなはなしでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿