2022年8月31日水曜日
北前船寄港地の女の純愛、わが阿波にもあった
2022年8月30日火曜日
マドロス演歌、案外こういうところにそのルーツが
マドロス映画のヒーローはあこがれだった
マドロスものの歌が流行った時代は、またマドロスものの映画も大流行だった。マドロスものの歌がヒットしたのでその主題で作られた映画もあったが、歌とはまったく関係なく作られたマドロスものの映画もたくさんあった。
下にそれらの中からポスター三枚挙げておきます。映画館でこれを見た年代は私と同年代か上の人たちでしょう。左から主演は赤木圭一郎(昭和35年)、真ん中は石原裕次郎(昭和42年)、小林旭(昭和34年)。映画の全盛時代は昭和32~35年、のべ十億人以上が映画館へ足を運びましたが、マドロスものはその映画全盛時代と重なっています。(任侠ものが流行るのはむしろ衰退期に入ってから)
2022年8月28日日曜日
ようやく涼しくなったが台風も来てる
ようやく涼しくなった。今日は朝だけでなく日中もそう暑さを感じなかった。昼過ぎ、風に吹かれて歩くと心地よい涼しさを感じる。このまま秋になるといいが、秋の初めはまた台風の季節である。天気予報をみると早速今日の午後3時頃、熱帯低気圧が南海上で台風11号に変わった。進路予想を見ると
「こりゃまた、どうじゃ、ウチの方へ一直線ではないか」
他の地方には申し訳ないがなんとか逸れてほしい、どうしてもくるならせめて強い勢力にならずにいてほしい。今週はあれた天気になるかもしれない。
追伸
29日の予報を見ると直撃ではなく真西に進むようだ。安心した。
2022年8月25日木曜日
マドロスもの
日本所有の外国航路船、大洋を渡る貨物船、タンカーなどのヒラ船員の給与は開発途上国の若者であっても思っているほど安くはない。日本国内のマックなどのファーストフードで働くより給料は断然いい。しかしいくら給料が良くっても日本の若者は外国へ渡る船などの船員にはまず応募しない。四六時中狭い船の中、仕事はきつく、危険、そして港を出発して外国へ向かえば数ヶ月いや数年も帰ってこられないこともある。精力ムンムンの男が何ヶ月も女性を見ることすら出来ない暮らしに耐えるのはきつかろうと思う、南極越冬隊ご推薦の空気で膨らましたダッチワイフの模擬陰部で精力発散なんど今の若い子に出来そうにない。
だが私の子ンまい時、そして20代くらいまでは、外国航路の船員に対してある憧れがあり、そこに海の男のロマンも見ていた。それは幻想だったかもしれないが、そういうものをかき立てられたのも事実である。その頃はもちろんヒラの船員、厨房員でさえみんな日本人だった。3Kのキツイ仕事は今と変わりなく(いや装備が良くなった今よりこの頃はもっとキツかったはずだ)。そうであるのになんで外国航路の船員にロマンや憧れをもてたのだろうか。
当時の船員さん自身はどう思っていたかは置く、我ら外部の人間がどのようにイメージしていたかを考えてみる。最もそれに影響を与えたのは、この頃すでに歌のジャンルとして確立していた歌謡曲の『マドロスもの』である。マドロスとは調べると語源はオランダ語であり水夫。船乗り。船員。という意味がある。歌謡曲の「マドロスもの」はその題の示すマドロス(船員)が主体ではない、そのマドロスに恋をした港の女性が主人公である場合が多い。
寄港地でマドロスが過ごせる時間は短い、久しぶりの女性との逢瀬も短い、出港イコール別れが運命づけられている。そのマドロスとの切なく、はかない恋を歌っているのである。最初のマドロスものはいつ頃誰によって歌われたのだろうか。私のよく知る古い歌としては淡谷のり子の『別れのブルース』がある。この歌はなんと戦前、昭和12年の曲である。
♪~窓を開ければ港が見える~メリケン波止場の灯が見える~・・腕に錨の入れ墨彫ってやくざに強いマドロスの~♪~二度と逢えない心と心~踊るブルースの切なさよ~♪
(ヨウツベの「別れのブルース」ここクリック)
この歌でマドロスの視覚的イメージが決定づけられる。力持ちでけんかに強く、男らしいマッチョ、だが女性には優しい、そしてなぜか白黒の橫縞のシャツを着ている、下のレコードの音盤写真のように
そして私が小学校の時、大流行してマドロスものの曲としてジャンルが確定し、これ以後の流行も決定づけたのが美空ひばりの『港町十三番地』である。
♪~長い旅路の公開終えて、船が港に泊まる夜~・・みんな忘れるマドロス酒場、ああ港町十三番地・・♪~船が着く日に咲かせた花を船が出る日に散らす風~♪
(ヨウツベの「港町十三番地」ここクリック)
マドロスとの出会い、そして別れを暗示する歌であるが、ひばりさんはわりとサラっと歌っているので悲恋感はない、横浜の港町、そしてマドロスを詩的に美しく歌い上げている。
淡谷のり子の切々としたマドロスものの歌、美空ひばりが軽い口調で歌い上げた横浜のマドロスさんの歌、ところが私が中学生のとき、まるで浪曲のように強く心に響くマドロスの歌が登場する。初めて聞いたとき、節回しに浪曲のような「うなり節」が入っているのではと思ったほどである。都はるみさんの一連のマドロス演歌である。もっともパンチがあると思われる曲が『馬鹿っちょ出船』
♪~赤いランプを灯した船が、汽笛鳴らして、さよなら告げる、二度と逢えないマドロスさんに、未練、未練ばかりを心に残す、馬鹿っちょ出船~♪
(ヨウツベの「馬鹿っちょ出船」ここクリック)
都はるみさんは今でも私は大好きで、特に初期の歌はマドロスもの(あんこ椿はなどもそう)が多く、上述のようにパンチが効いて、歌うと元気が出るから、今でも銭湯なんかで鼻歌として歌っている。そういえば最近、はるみちゃん、全然見ない、完全引退したのかな、まだこの世からリタイァしたとは聞こえていないが。
さて私が中学から高校にかけて演歌はムード演歌というのが登場する。それに被さって「ご当地演歌」も大はやり、昭和42年発売の「小樽の人よ」なんかは両方兼ね備えていて好きだったなぁ。これなどは小樽という港町ではあるがマドロスものとは少し違う。このときまでのマドロスものは、ポパイのようにマッチョ、縞のシャツ、パイプを加え力強い海の男、そしてそのたくましい腕にぶら下がる女性・・そして出船ととも別れ、というイメージだったが、ムード演歌の流行はそのようなマスクリンな男だけが対象でなく、もっとおしゃれな(ある意味柔弱な)海の男一般を対象にする歌が出現する。マドロスものの一部である切ない別れを込めた港の歌が流行する。
私が高校最後の年に発売されて流行したのが、待ちわびる男を追ってどうやら列島の各地を転々とする女性の心情を歌った森進一の「港町ブルース」、この時代はやったご当地演歌の一種ともいえるが、欲張りなことに列島の主な港町をことごとく網羅している。そして待つ、あるいは追いかける男にはマドロスのイメージがある。
♪~別れりゃ三月~待ちわびる、女心のやるせなさ、明日はいらない、今夜がほしい、港、高知、高松、小松島(と私は歌う)~♪
(ヨウツベの「港町ブルース」ここクリック)
この歌も私は大好きで、今でも馬鹿っちょ出船とともに歌っている。全国放浪好きの私だから、もう足腰たたん今になると、一曲で全国港町網羅のこの曲を、せめて歌だけでも放浪しちゃろと、歌うのである。
そして今、船乗りは日本の若い衆には3Kで嫌われ、外洋の船の船員は異国の人で占められるようになった。マドロスにロマンを感じた時代は遙か昔に過ぎ去ったのだなぁ、との感を強くする。
2022年8月23日火曜日
晩夏の候
午後に乗った列車の車窓からみるとすでに稲刈りの終わった褐色の刈田が広がる。斜めから射す夕づく日も秋を思わせるやわらかさがある。しかし列車を降りるとむっとした暑さ、初秋というには暑すぎる、街中の隅っこにも涼しさはない。まだまだ夏が頑張っている。
コロナ陽性記
古希を過ぎて体が衰えてきている。そしてアッチャコッチャ体の具合が悪いときが多い。あるときは頭痛ないし頭が重い、腰の痛み、四肢の疼痛、歯痛、胃のもたれ、などなど、そして時々、体全体がしんどいときがある。70才を過ぎてそんな状態が続くのでそれが普通と思いだした。
だからあとからいつ頃から病気でしんどくなったのか聞かれてもわからない。今回コロナ陽性になったが発熱はほとんどなかった(家の体温計で測ったときはいつも平熱)。ただ8月11日の祝日の朝、起きたときに喉の違和感があった。そして少し咳が出始めた。いつもの夏風邪かな、とおもったが、今コロナが急蔓延しているので少し気になる。売薬の龍角散を飲んで様子を見ることにする。体調は、先も言ったとおり、古希を過ぎていつもシンドイのでその日だけ特にしんどいということはない。
13日には、何か四肢のだるさというか鈍痛があるような感覚がある。しかしこれも先に言ったように高齢になって時々おこるから、特定の病気の自覚はない。咳は頻繁ではないが少しあり、喉も荒れているような感じがする。夕方、なにげなく入ったデパートの入り口の検温モニターを見ると私の顔の上に37.9℃の表示がある。驚いて家に帰って検温計でもう一度どころか何度も計ったが36℃の平熱、しかし、もし微熱があればコロナ感染の疑いがある。
翌日も病院休診日なので保健所のコロナ課に相談のため電話するが10回電話しても「混み合っていますので後ほどおかけください」との電子音が流れるだけ。
結局、ボニが終わってから内科の普通予約で診察を受ける。個室で待たされ、問診票を書いて、しばらくして鼻から検体を取る。40分ほどすると、陽性と告げられ、症状の対処の薬(咳止めと去痰剤)をもらい発熱外来の出口からでる。病院からは保健所から家に連絡があるのでその指示に従ってくださいとのこと。
保健所からの電話で症状の出始めの日時、そして現在の症状の様子を聞かれた。そのときまでには喉の不調と若干の咳だけしか無かったので軽症と判断され、自宅療養期間は8月21日までと告げられた。その後、地区の保健所から3回と県から1回、現在の症状の問い合わせがあったが、体調は70才を過ぎてからの普通の日とかわらず、とくに胸が苦しいとかセコイとかはなかった。そして今日は8月23日、一応私のコロナ感染の始末の区切りはついた。
しかし4回もワクチンをしても感染したのである。いったいワクチンって効果あるのだろうかと疑問を感じる。いや、ワクチンを打っていたおかげで軽症ですんだんや、といわれたら、そうかなぁ、と半信半疑納得せざるを得ないがどうも釈然としない。またコロナは一般の風邪と一緒で、一回罹っても何度も罹ると聞くと、完全に一区切りついたとはいえない。
2022年8月22日月曜日
歴史に見る武器のゲームチェンジャー
ウクライナ戦争が始まってから注目を浴びだした専門家がいる。軍事評論家である。本業は大学院の先生であったり、防衛戦略研究所(防衛省にあるらしい)の研究員であったりする。実際戦われている「戦闘」の勝敗、そして時には人的被害(戦死者・負傷者)も予測するからかなりシビァーな仕事である。
われら日本人はおおむね(もちろん反対の人もいようが少数派である)ウクライナ贔屓が多い。発端は(いろいろな経緯があったにせよ)一方的なロシア軍のウクライナ領土の侵攻だったため、どうしても(心情的には)ウクライナに加担したくなる。そうはいっても戦争は常識的に言って弱いほうが負ける。強い弱いというのは国力や戦闘意思の強さもあろうが、やはり軍隊の数、そして装備している兵器の質量が強力か弱小かによる。
ウクライナ戦争が始まってもう半年にもなるがまだ勝敗は決していない。マスコミ報道を見る限り、どちらも優位に戦争を展開してはいないようにみえる。西側の報道などはロシア劣勢を伝えているが、真偽はわからない。当分続きそうであるところを見ると圧倒的優劣の差はついていないようだ。
さて、最初に登場した「軍事専門家」がよく口にするキーワードに「ゲームチェンジャー」というのがある。互角に戦っている、あるいは膠着状態に陥った両軍の戦闘に「ある新しい兵器」が加わることにより、勝負が決しないゲーム(戦闘)を劇的に有利に持っていくことができるようになる。その「ある新しい兵器」をゲームチェンジャーとよんだりしている(戦術・戦略の革新もあろうがここでは兵器のみに焦点を当てる)。ウクライナ戦争の例では西側からウクライナに供与された「ハイマース」(高機動ロケット砲)がそれにあたるのではといわれている。これの導入によりロシアの苦戦が続き、押されていけば確かにゲームチェンジャーになるだろうが、今のところそうなっているかわからない。
最新のテクノロジの塊のような兵器については情報不足でわからないが、歴史上登場した近代兵器については歴史を勉強していれば少しは知識がある。その中でいわゆるゲームチェンジャーになった兵器をいくつかあげることが出来る。19世紀末ころ登場した機関銃、そして20世紀初めの航空機などがそうであろうか。もっと古くは小銃がある、初期のそれは火縄式発射装置であったがこれを歩兵に装備し組織的に使ったときまさにゲームチェンジャーとなった。日本史の教科書には必ず出ている織田率いる小銃歩兵軍団と武田騎馬軍団との対決、長篠合戦である。これにより武田騎馬軍団は壊滅的打撃を受けたと言われている。
日本史で火縄小銃はゲームチェンジャーになりえたが、それでは大砲はどうだろう、火縄小銃ほどはゲームチェンジャーにはなっていない。というのも日本ではこの時代大砲はほとんど活用されていないため数が少なく、勝敗を決する武器にはなっていない。理由を考えると、平坦地が少なく地形の複雑な日本では左に見るような砲架は移動が難しい。機動力を増すためには牛に引かすより馬に牽かせなければならないが、日本ではそのような運搬方法はなく、人力かせいぜい牛に牽かせるくらいであった(それでは機動力がでない)。大砲は日本では機動力・運搬に問題があるのと、苦労して戦略拠点に運んでも、それを生かせず、小銃のほうが日本人には断然使い勝手が良かった。当時の大砲の砲弾の大きさは重さ(ポンド、あるいは何貫)で表される。鋳鉄製か鉛、石などでスイカのようにまん丸で内部まで同質の金属で炸薬など入っていないから爆発はしない。そのため威力は限定されるが、密集隊形の歩兵に打ち込んで兵らをなぎ倒しつつ隊形を混乱させたり、また砦、城などの城壁を壊すのには力を発揮した。しかし日本ではそのような使われ方はほとんど無かった。ただ、戦国最後の騒乱といわれる大坂冬の陣で家康軍が何門かの大砲を大坂城に発射し、御殿を壊し、淀君を震え上がらせたのが知られている。だが戦闘のゲームチェンジャーとはなっていない。
大砲は日本より大陸諸国の明や清では一般的でよく使われた。もちろんまん丸の金属の玉だから爆発はしないが当時の大陸の戦闘や攻城戦では使われた。そのため日本対明国の戦い(文禄慶長の役)では優れた小銃を多数持つ日本の歩兵、しかし日本兵は大砲は持たない、相手の明国は質量とも劣る小銃装備しかない、しかし大砲は多数ある、ということでかなりいびつな戦いを両軍がやった。結果として膠着状態になるが、異国の地だけに当時の兵站輸送を考えると日本が不利となった。
大砲がゲームチェンジャーになるのは19世紀に入って大砲の弾が爆発する榴弾となり、その大砲が蒸気船と結びついたときである、当時としては最高の戦争のゲームチェンジャーになった。
百聞は意見にしかず、で次の絵を見てみよう。世界史の教科書には必ずといっていいほど入っている挿し絵である。
これは1840年アヘン戦争のときのイギリス軍と中国・清朝との水上の戦いである。勝敗は明らか、密集してモタつく清軍のジャンク、そりゃそうだろう風力や人力にたよる船では思うに動けず、戦で混乱するほどモタつき敵の餌食となる。対するイギリスは右のスマートな蒸気船(まだ外輪船ではあるが)、蒸気エンジンの力によって自在に動くことが出来、水上の戦略的優位な場所に瞬時に移動できる。
そしてこの時代になるとイギリス軍は大砲の弾(球弾ではあっても)の中に炸薬を詰め、信管を装着し、爆発するようになっている。これで威力のある(着弾すれば爆発する)大砲の弾を発射するのである。上図のように見事、イギリスの砲弾は命中し、なんと、一撃でジャンク船が大爆発し撃沈されようとしているところである(実は弾の爆裂で船内の火薬の誘爆が起こったのであるが)。
蒸気船そして爆裂する大砲の組み合わせ、この威力を示すのが上の挿絵である。これはまさにゲームチェンジャーになった。この象徴するところの意味は、これ以後アジアに海からやって来るヨーロッパ諸国に、アジア諸国は軍事では太刀打ちできなくなり、結果、アジアは植民地あるいは半植民地になるか、それともヨーロッパのこのような軍事技術を取り入れ、なんとか対抗できる国にするか、しか選択がなくなったということである。しかし対抗するのは難しく(なぜなら単に軍事技術のみの改良でそれは出来るものではない、その国の社会制度、文化、経済の変革も伴うものだからである)19世紀が終わるまでになんとか対抗できたのはほぼ日本だけであった。
18世紀末まで頃の大砲は以下の動画に見るようにタダの鉄の塊、爆発しないので威力は限られる。
そして18世紀末ごろ下に見るように信管が発明され砲弾(球弾でも)爆裂するようになり、威力が増した。
2022年8月19日金曜日
阿波の山に残る念仏踊り
この歳になって郷土史や郷土の民俗学が興味が出てきた。若いときは歴史一般、つまり日本史の誰もが認める歴史上の人物、事件などの興味が中心であった。多くの人もそうだろう。そのためごく身近な郷土の歴史や民俗学について若いときはほとんど勉強しなかった。
しかし何十年も日本史などを勉強しているとそのうち一般的な歴史ではなく、というのも何十年もやっていると多くの人が興味のあるものなどだいたい知ってしまってそのうち飽きてくる。そのためもあり、あまり人々の興味の向かない枝分かれした微細な部分の歴史に勉強が向かっていくようになる。
歴史にはいろんな分野があるので、これを深く勉強するようにすれば何年たとうがこのような歴史の興味は衰えず続いていくことになる、私の歴史の興味の推移はブログを見るとよくわかる。ちょうど十年前の2012年頃には四国出身の宗教家(といえば空海を思い出すだろうが、もっと新しく鎌倉時代の一遍上人)に興味を持ちいろいろと勉強していた。この時代の民間に活躍した宗教家は庶民大衆を救うことをまず第一に考えた結果か、なぜかキリスト教のような一神教にちかいと思われる教え、「阿弥陀仏(のみ)を信ずれば」あるいは「阿弥陀仏の名号を一心に唱えれば」救われると民衆に説いた。一遍さんもそうである。普通は中世初期の市井の宗教家というとなかなかいい資料がないのであるが、一遍さんについての勉強には良質な資料があって、それには図書館に備わっていた。「一遍上人絵伝」と「一遍上人語録」である。「一遍上人絵伝」は絵巻物になっていて、見るだけで日本の中世がいかなる風景で、それを背景に歴史が展開していたかわかる、まさに百聞は一見にしかずの資料である。
中世パノラマ一遍聖絵、としてそのごくごく一部を切り取って私が作った動画がありますので見てください(2012年に作ったが、非公開から公開に編集し直したので2021年になっています)
この中で京都七条の道場(現代人がみたら道場と言うより「お堂」の一種と見える)で一遍が踊り念仏を大勢でやっているシーンがある。
鎌倉時代からあったこのような「踊り念仏」が現代の盆踊り(阿波踊りもその一つ)のルーツになっているのではないか、少なくとも大きな影響を後世の盆踊りに影響を与えたのではないかと考える専門家は多い。
去年の10月頃、私は貞光町の山の方の「お堂」を歩きブログを作った、浦山堂である(ここクリック)、貞光町の山のほう(端山)にはこのようなお堂がたくさんある。私のブログでその中の二つ紹介した(先のブログとその前のブログ)。それ以外にも町内に数十のお堂がある。その一つで木屋堂という「お堂」について、先日みた郷土資料には今も(その資料が作られた昭和63年頃)「念仏踊り」が残っていることが書かれていた。
以下(「阿波のお堂」より引用)
~~踊りは木屋地区(貞光町・端山)で一年の間に新仏がある年だけ、旧暦の7月13日夜に行われたが昭和51年からは新暦の8月13日夜行われている。~~まず、新仏の位牌を本尊の前に祀り、一堂は正座して、鉦を打ちながら地蔵菩薩らの真言を唱え、次に、堂内でかね、太鼓を鳴らす人、踊る人も一緒に輪を作り、念仏を唱えながら、左回り?右ではないのか(時計の針の回る方向)に、後ろずさりで鉦、太鼓を打ちながら、だんだん速く回っていき、勢いづくとお堂の床を踏みならし、前の人の帯を握ったり、手をつないだりしなければ輪が崩れそうになる、なんとも異様な熱気のある雰囲気になる~~
これは中世の一遍さんの踊り念仏と同じではないのか、踊りの動きがだんだん速くなり、ついには神がかり的な熱狂・狂乱の集団陶酔になるのが一遍さんが唱道した念仏踊りである、この木屋堂の踊り念仏はそれをつよく強く思わしめるものがある。
この貞光町端山は実は私が20代の時に住んでいたところでもあり、近くには「猿飼堂」というお堂もあった。またこの木屋堂は私の祖母の里近くで子供の時、泊まりに行ったこともある。今になって後悔することは、なぜこの昔、私が若かった頃(50~60年以上も昔になるが)そのような地方の行事にもっと身を入れて見ていなかったのだろう、それは無理なら、私が30代の頃にはまだ生きていた祖母や祖母方のお年寄りにこのお堂の行事の話を聞いていればよかった、ということである。
というのもこの盆踊りのルーツ、そして中世の一遍さんが始めた踊り念仏からの系譜をひく木屋の踊り念仏は平成に入ると、過疎化の影響で、踊りはなくなり、お堂で少人数で集まって座ったまま、念仏の称名のみで合間に鉦太鼓をならしながら唱えられるそうである。もはや踊り念仏とはいえない。せめてこの地域の踊り念仏の昔の動画でも残っていないかとネットやヨウツベで探してもなかった。
盆踊りのルーツとも言われ、また一遍さんから数えると800年にも渡って伝えられてきた踊り念仏が途絶えたかもしれないのである。間をおいて復活させるとしても動画もない、それを経験した古老も死に絶えてしまったら、踊り、独特の念仏の抑揚、そこにしかないオリジナルの宗教音楽などは復活は難しい。故檜瑛司さんが動画や録音を残してくれているが、郷土の隅々までそれが残っている訳ではなく、途切れるのは残念である。
若い人でも歴史好きは多い、しかし私もかってそうであったようにごく身近な郷土史にはほとんど注意興味を向けなかった。もし若い人たちがもっと身近な郷土史を大切にしてくれていたらこのような断絶は少なくなるのではないだろうか。
若い衆よ!身近な郷土の歴史に興味を持ってほしい。
2022年8月15日月曜日
徳島の盆踊り・モラエスさんの随想より
現代においては盆の墓参り、そして仏壇を(生霊棚を作る事は少なくなり、そのような形式で)飾り、檀那寺から僧侶を招き棚経をあげてもらう、という行事と8月12日からの阿波踊りとの関連は見いだされなくなっていて、特に若い人などはそれらは全く別物と思っているようだ。戦後になってこの踊りを観光の目玉として「阿波踊り」で広報されるようになって(最近は阿波ダンスという言葉も聞いた)からますますその精霊をお迎えする盆との関連が途切れてしまった。
しかしモラエスさんが生きていた頃(大正年間、百数年前)は死者の祀りである数日とその後につづく盆踊りは一体のものと認識されていて生者と精霊のための盆踊りという認識を持っていた。
モラエスさんの随想録より(日付は全て旧暦である)
「何日か前に、墓地の墓をきれいに清めます・・7月12日、墓参があって、花を取りかえるなどがおこなわれます。これは死者の霊がとおくから、知られざる無限から夜間にやって来て、家族ものとを訪ねる前に、自分の墓の上を漂うので墓をこのようにして霊を迎えなければならないからです・・13日は、死者の霊は、夜まで家で私たちとなごやかにすごしました。夜になると死者を墓まで送ってゆき、墓地でかがり火をたいて、地上から永遠の平和の家への長い道を照らします。」
墓で送り火をたくなど現代とは少し違うところもあるが12~13日にその行事が集中しているのがわかる。そして続く14、15,16日が盆踊りとなる。
「伝染性のヒステリックな興奮が人々を支配します。みんな盆踊りのことしか口にしません。それしか考えません。誰もが昼も夜も街頭に出ますが、祭りがより活気にあふれるのは主として夜です・・人々が主だった通りを埋めます、時々騒々しい一群の人がどこかしらの路地からあらわれて大声で怒鳴り押し合いへし合いしながら進んでいきます・・中でもひときわ目立つのは「げいしゃ」で伝統的な用途の幅広の帽子(鳥追いの編み笠)に半ば顔を隠した、豪華な絹の上衣姿の実に優美な「げいしゃ」もいます。けれども踊るのは「げいしゃ」だけではありません。町の人口の半分が老いぼれ爺さんも老いぼれ婆さんも、幼い子供もおどり、誰もが打ち興じ、死者を讃えるのです。」
死者を讃えるのです、というモラエスの言葉に、当時の人々はみんな精霊のための盆踊りであるという認識を持っていたのがわかります。
下に何枚か大正時代の盆踊りの写真を挙げておきます。
富田町あたりの芸者衆の盆踊り姿です(今と違い打ちものは鼓だった) 現代まで続く女踊りの衣装・被り物の姿のこれが源流だったんですね。鳥追い編み笠を被っていたのは素人衆でなく芸者衆です。
こちらは男性のおどり、みんなそろいの縞の浴衣だが、みたところなんか今とちがう、そうか!この時代、尻端折りはしていないんだ。ゾロリの裾だ。
友禅を着た少女、歌舞伎の所作事をするときのような豪華な衣装、お囃子の女性陣は饅頭笠を被って顔がほとんどみえない。
2022年8月14日日曜日
ウチの近くの十王堂(閻魔大王をお祀りしている)
先のブログでは名東地蔵院の「十三仏堂」の閻魔さんを紹介したが、説明したようにお堂の中は十三の仏さんがズラズラ並んでいる。そのなかに閻魔王もいるが他の仏さんと大きさも顔の形も皆同じ。閻魔さんが特別な存在の仏様ではない。
閻魔さんに特化して閻魔王だけが祀られている閻魔堂は、いろいろ調べたが県内にはないこともわかった(私が調べきれなかっただけかもしれないのでもしご存じの方は教えてください)、その過程でわかったのは閻魔さんに関するお堂はまず「閻魔堂」(これは徳島にはない)、そして先のブログの「十三仏堂」、それと「十王堂」というお堂もあり、そこにも閻魔さんが祀られていることがわかった。
十三仏堂と十王堂は本地垂迹説によれば共通の仏さんでそれぞれ(13体と10体だが)対応一致している。ただし十三仏堂は三体だけ十王堂にはない仏さんがいる。その二つの堂の違いは何か?小難しい仏教の理屈より百聞は一見にしかずで二つの堂内の違いを見比べてみるとよくわかる。十三仏堂はそれぞれ仏像の大きさに違いはないが、十王堂では閻魔さまが中心で像が大きく、他の九体は脇持仏の扱いで像も小さい。
平賀源内作の「根南志具佐」でも閻魔以外の十王(閻魔を除くと九王)が出てくるが、ここでは地獄の主君(支配者)は閻魔王で、他の十王は閻魔庁の審判に当たっては陪審の役、地獄の制度を幕府に例えると(実際に根南志具佐では地獄の階層制を幕府や藩に例えている)。閻魔は将軍、十王は御三家か老中という事になる。
十三仏堂ではみんな等しい仏だったが、十王堂では閻魔が中心でそのため像も大きく立派で他は脇持仏の扱いとなっている。だから十王堂に対する礼拝はほとんど閻魔王にたいする信仰と変わりがないのではないかと思っている。
十三仏堂の雰囲気にあまり地獄を思わせるものはないが(そもそもが十三仏はそれぞれの年忌供養に当たる仏なので)、十王堂は閻魔王が中心であり、また他の十王は地獄で亡者の審判の補佐に当たるのが役目である。礼拝で十王堂を訪れ、閻魔王中心の十王たちに向かい合っていると、ここは地獄のお裁きの場か?、という雰囲気が漂っている。いかにもここは地獄の審判庁であるとのイメージが膨らむお堂である。
その十王堂を検索すると県内で三ヶ所がヒットした。海陽町、貞光町、そしてなんと鴨島町のウチの近くである。ググルのストリートビューを利用して調べるが、お堂が確認できたのは貞光町の端四国八十八ヶ所・九番十王堂だけであった。あと二つの海陽町とわが鴨島の「十王堂」が検索でヒットしたのはそれぞれの町内にある小字(こあざ)名、すなわち「地名」としてであった。
しかし地名で十王堂という名が残っているということは、今は無くなったかもしれないが過去にはここに宗教施設としての「十王堂」があったことが強く推定される。その名残として小字名に残ったものだろう。(他県ではこのような神仏のいずれとも判然としないお堂は明治の廃仏毀釈の時にぶち壊され消え去ったものが多いから徳島でもそういうことが考えられる)
海陽町十王堂は遠くてちょっといけないが、鴨島町内原(小字)十王堂は幸い我がウチから近い、その地名の場所にいって古老(ワイも十分古老だがこんな地名があったのは知らなんだわ)に聞けば昔、どのあたりのそのお堂が建っていたかわかるかもしれないし、もしかしたら昔あったその信仰の実態も聞けるかもしれないと、暑い中、出向いた。
下の地図に示してあるのがが鴨島町内原十王堂の地名
十三仏堂よりず~っと閻魔信仰が強い十王堂が我が町にあったんや。暇だけはたっぷりあるこのジジイである、やがてお世話にならなあかん閻魔はんやから、このお堂もジジイの町内巡礼場所に加えとこや。
2022年8月13日土曜日
地蔵院の十三仏堂
江戸には三大閻魔堂があって閻魔様単体の神仏として尊崇を受けている。江戸期には蔵前の閻魔堂が有名で「根南志具佐」にも出てきている。ここ徳島でも「閻魔堂」があるかどうか、先日からいろいろ(ネットや郷土の寺社関係の本)で探っているが、ヒットしない。どうも我が県には一堂もないようだ。香川には三つの閻魔堂がある。昔の阿波人は江戸っ子ほど閻魔様に親しみを感じていなかったのかもしれない。
徳島には単体で閻魔様をご神体とする閻魔堂はないが、幾人かの神仏と合同してお祭りしたお堂の中の一体としてなら閻魔様はお祀りされている。それが「十三仏堂」である。このような形での閻魔様のご神像なら県内にいくつかある。参詣者の多いのは薬王寺の十三仏堂であるが、近くでは名東町の地蔵院の十三仏堂がよく知られている。先日・8月1日にその十三仏堂で閻魔様にお参りしてきた。
地蔵院は水辺(名東池)のそばにある。幽明相分かつ境には三途の川が流れていてその向こうに閻魔庁がある、ここの閻魔様もやはり水辺の向こうにいらっしゃる。(見えるのが地蔵院山門)
十三仏堂の中には十三体の神仏がいらっしゃる。
その中の御一体が閻魔王である。
閻魔様らしく怖いお顔をしていらっしゃる。しかし右に閻魔王とあるが、よく見ると左には地蔵菩薩とある。これはどういうことか。これは閻魔王でもあるが同時に地蔵菩薩でもある事を表している。実は閻魔様ってお地蔵さんでもあるわけだ。しかしお地蔵さんは慈悲に富むお優しいお顔をしていらっしゃるのに、もっとも怖いお顔の神仏である閻魔様と同じとは驚きである。これは仏教にはよくあることで本地垂迹説で説明されるが、ここでは詳しいことはいわない。例として憤怒系の不動明王は慈悲顔の大日如来でもあることをあげておく。
亡者の悪を裁き、業苦を負わせる地獄のいわば支配者でもある閻魔王と、地獄にでも出向き亡者を救おうとなさる地蔵様が同じであるといわれてもちょっと納得しがたいが中世以来そのように思われ信仰されている。あまりにも恐ろしい閻魔さまなら、まさに「触らぬ神に祟りなし」で閻魔像などを造って尊崇することもはばかれようが、これが実は地蔵様と同じである、といわれれば、そうなのか、閻魔はんは地蔵さんやったんか、それならそう怖くはないな、と閻魔信仰も広がるだろう。
十三仏信仰は亡き人の追善供養に関係している。初七日からはじまり三十三回忌のそれぞれ十三ある忌日・年忌に対応する仏様である。閻魔王こと地蔵菩薩はその中の御一体である。
十三仏堂は13体の神仏がまつられていて閻魔さまも他の12の仏さんも皆平等に崇拝されているが、閻魔様が主体になって祀られてお寺あるいはお堂はないのか?もっと探ってみた。そのことについては次のブログで取り上げます。意外な発見があったよ!
2022年8月12日金曜日
本を読む、平賀源内作の「根南志具佐」
またぞろ仏教関係(特に地獄の信仰)の本を読んでいる。お盆だからというのではなく(少しはあるが)一番影響を受けたのが平賀源内作の「根南志具佐」(根無し草)を読んだからである。平賀源内と言えばダヴィンチのような万能の才を発揮した人と歴史でも紹介される。確かに冶金、鉱山技術、医学、科学技術のような理系の活躍ばかりでなく、西洋画、戯作(小説)、博物誌、地誌などの芸術、文系方面でも活躍している。
「根南志具佐」は戯作のひとつである。これに影響を受けて仏教関係の本を読んでいるといったが、決して抹香臭い宗教の話ではない。江戸における大衆小説類いと言えるかもしれない。ある芝居俳優の水死事件をヒントにした物語仕立てである。しかし筋の展開は現代の小説とは全く違う。話があっちこっちへ飛んで今の小説になじみある人は読みにくい。その上内容はパロディー精神満載、全体に渡ってシャレのめしている(それがわからないと面白みはなくなる)。原文で読むと掛詞や縁語がうるさいが当時の政治批判、世相の様子などが史書ではまず得られないような記述があって江戸の当時の人の生き様を知りたい人にとっては貴重な資料ともなる。
さて、私のブログを前回と前々回と読むと、その主題は「地獄」と「河童」なっている。平賀源内作の「根南志具佐」の主舞台は地獄、そして主要なキャラは「地獄の閻魔大王」と河童である。つまり「根南志具佐」を読んで触発されて二つのブログの主題となった訳である。
江戸戯作の特色と言うべきか、物語の発端はなんぼう架空の話でもあり得ないような馬鹿な話から始まる。
江戸に(実在の歌舞伎の女形だが)瀬川菊之丞という絶世の美少年がいる(もちろん当時の女形として贔屓に対し男女に関わらず性的サーヴィスもする)、その色香に迷った坊主が地獄に落とされ、閻魔庁の審判を受けるため閻魔大王の前に引き出される。ご存じのように閻魔様は地獄の閻魔庁に引き出された亡者の罪を見定め、前のブログで紹介したような八大地獄のどの責め苦を負わせるか決める。閻魔様の考えは(まるで人間のような性行をもつが)男女の恋のみ認め、男同士の愛などは自然の摂理に背きもってのほかと考えるいわゆるノンケ(ホモの気がないという意味)、重い罪科が予想される。坊主が引き出されたとき、坊主の腰に何やら大事にくくりつけている風呂敷包みがある、なにかと獄卒がみればこれが坊主が地獄の底までもと、恋い慕う瀬川菊之丞の似せ絵、閻魔は激怒するが、閻魔庁の陪審たち十王や獄卒は興味津々、菊之丞の美形は地獄まで噂が聞こえてきている、見たくてたまらないから、閻魔にそれを見てから罪を定めても、とか理屈をつける。閻魔は見たいなら見てもよいが、ワシは見んぞ、目をつぶっている。みた陪審の十王や獄卒は全員、驚嘆の声を上げる。そのざわめきがあまりに大きかったので、閻魔もこらえきれず、薄目を開けて見てしまう、すると、なんと、一目で菊之丞に恋してしまうのである(似せ絵だが)
さぁ、それからが大変!閻魔はのぼせ上がり、閻魔庁から、ふらふらと娑婆へ行こうとする、そして「ぜったい、菊之丞さまと一夜の枕をともにするぅ~」なんどと恐ろしい顔からは似合わない殊勝なことを言い出し、閻魔庁の仕事を放り出して出て行こうとする。職務放棄もさることながら、娑婆の人が一目見たら恐怖で気を失いかねないものすごい姿の閻魔が江戸市中に現れては大惨事となる。十王はじめ獄卒は必死で止めるが、聞きそうにない。
すると大勢の地獄の陪審、獄卒の中から知恵者があらわれ、「ほなら、こうせんでか、閻魔はんが娑婆へ行く代わりに、菊之丞を地獄へ連れてこんでか、ほしたら閻魔はんが行かんですむでぇ」、それで閻魔はようよう納得するが、今度は「はよ、せぇや!すぐにでも枕を並べてウッフンしたい」と矢のような催促で陪審、獄卒どもを急かす。(あの、男好きの坊主はどうなったか?閻魔も菊之丞なら迷うのももっとも、と罪状はうんと軽くなり、地獄所払いの刑、つまりシャバへ送り返すこととなった)
じゃぁ、具体的に誰をやってどのように連れてくるか、次にはその緊急評議となる、これが結構むつかしい!なんせ、地獄と娑婆(この世)との境は「幽明相隔つ」と言われるように厳しき隔たりがある。秋田町からデリヘルのおねぇチャンを自分の家に引っ張ってくるようには行かない。こちら(地獄)に引き込むということは死人となって来ることに他ならない。そこでいそいで地獄からスパイを娑婆へ使わし、死ねそうな機会を探ると、暑中でもあり、菊之丞が大川で船遊びをするという情報が入り、それなら水に引き込み「溺死」でこちらに引っ張り込む、とまでは衆議が一致したが、それを誰にやらせるかで大もめにもめてしまう。荒々しいサメ、鱶、海坊主なんどにやらしては水に引き込みさらうときに美しい顔を傷つけ台無しにしてしまうかもしれない、さて、だれにやらせたら・・・
で、最終的に選ばれ使命を受けたのが河童、ところが河童がえらばれた時点で、これはもうタダではすまない面白い展開が予想されている、とうぜん平賀源内もそのため河童というキャラを用意したのであろうが。
前々回の河童のブログを見ればわかるように河童は男の子のお尻(もっと言うと肛門、穴)が大好き、一応の説明は肛門の奥にある一種の肝である尻子玉が大好物ということにはなっているが、源内さんの作った河童キャラはもう一筋に男色大好、これに菊之丞をさらいに行かせるのは、猫に鰹節の、狼に羊の番をさせるようなもの、河童と菊之丞が出会うとどのような化学作用が起きるのか?つけくわえると菊之丞ももちろん男色大好き、この「菊」という文字に「肛門の穴」という暗喩が込められているのは江戸の読者はとっくにご存じ、肛門はよく見ると(そんなんよ~みとうないわ!)菊の花の形をしているので「菊座」ともいうから。
案の定、二人は(一方は河童だが)大川の船の上でシッポリとぬれてしまう(意味はおわかりですね)
と、ここまでで全体の三分の一くらいかな、私が説明するとなんかこの本、淫乱猥褻な内容と誤解されるかもしれませんが、江戸期の戯作は淫乱猥褻などと言うのはもう通り過ぎていて、パロディー、シャレの域に入っています、性だろうが聖だろうが何んもかんも、味噌も糞も一緒にこき混ぜての馬鹿馬鹿しいお笑いをもたらす読みのもなのです。江戸期の人は今の人よりずっと信心深かく、地獄関連の信仰も盛んでした。たとえば閻魔堂、十三仏、十王への礼拝、また地蔵信仰も地獄があるという前提での信仰でした。このように敬虔な信仰がある一方、それを裏切るように地獄や閻魔大王をダジャレで笑っていたのでした。江戸でこの本は大ベストセラーになることでもそのことがわかります。
それで結局、閻魔さんは、切なる願いの菊之丞との契りが果たせたか、ここからは私のブログでの拙い説明より、実際に原文(訳文も出ている)に当たって読まれる方がいいと思います。続編ではなんと閻魔さんが地獄から駆け落ちまでしてしまうのですが、あまりにも面白すぎるお笑いの話をちゃんと伝えるとなると、とてもではないが私の文章力などでは及びませんので。
2022年8月11日木曜日
地獄の寺をみる
八大地獄のリアルな展示が見られる寺がムギ駅から1km弱のところにある。拝観時間は正午から午後3時まで。真夏のもっともキツイ時間帯だががんばってあるく。
下は公的な寺のホームページから引用させていただきました。