2022年8月31日水曜日

北前船寄港地の女の純愛、わが阿波にもあった

 中世末期に出来た小歌集「閑吟集」にこのような歌がある。

「身は鳴門船かや 阿波で漕がるる」

大意 :私の身は潮にながされる鳴門舟のよう、愛しいあなたにも逢(阿波)えないで、焦が(漕が)れていることよ 逢わと阿波。焦がれると漕がれる、と掛けている掛詞、鳴門と阿波は縁語

 (焦がれている)身は男女どちらに置き換えても良いだろうが私のイメージとしては女性しか思い浮かばない。小歌だから男女どちらとも歌うであろうが、男性が口ずさんだ場合は、長らく逢っていないあいつ(相手の女性)は、今頃オレの事を思ってさぞ焦がれているだろうなぁ、とちょっとしたうぬぼれ(もてていると思いたいのは男のサガだ!)それと少しばかりの憐憫がこもっている場合もある、女性が口ずさんだ場合は、文字通り来ぬ男を焦がれているか、軽い気持ちで、あの人しばらく来ないわねぇ、どうしているのかしら、と軽い気持ちのつぶやきのような歌である場合もあるだろう。どちらにしても歌の主体の「身」は女性と言うことになる。

 恋の歌の範疇に入る。中世の小歌はどのような節で唄われたのか、伴奏楽器はあったのか、よくわからないところはある。江戸時代の小唄・端唄などは三味線などの伴奏でうたわれ、またその節もわかっている。しかし三味線はまだ中世末には伝わっていない。また節回しなども江戸期の小唄・端唄と似ていると推測はされるが確実ではない。中世に平曲というのがあり琵琶で伴奏されたが、この時代の小歌は旋律楽器の伴奏より、簡単な打楽器類、竹のささら、小鼓、あるいはもっと手軽に閉じた扇を打ち付けてポンポンと拍子を取るだけだった可能性のほうが大きい。

 中世の小歌で歌われるくらい鳴門は海運が盛んだった。そこには船乗り、海運業者を相手に商売する遊び女がいた。中世の兵庫の神崎、江口は河口と瀬戸内海海運の結節地点であったがここの遊女は有名であった。鳴門もそれには及ばないにしても遊女は多くいたに違いない。江戸期になると鳴門、岡崎から撫養川筋にかけては海運関係の問屋、蔵、船宿などが建ち並んでいた。具体的に知るには郷土史である「鳴門市史」(上中下巻がある)を見ると当時のそれらの地域の繁栄が記述されている。

 ところがお堅い本であるからか(わが県内の市町村史はみんなその傾向がある)、色街、遊女街、なんぞのことは全然記述がない。瀬戸内海運の要衝地、北前船の寄港地で輸出入の量も金額も大きかった撫養の港は多くの船頭、水夫で賑わった。前のブログでも言ったように彼らは一度寄港したら何日も海の上で過ごす、そして海上の仕事は休まる間もなく、また男ばかりの仕事である。そんな舟の男たちが寄港し、骨休めをするとき、その場としての遊女街がここ撫養になかろうはずはないが、なぜか地方史に記述はない。

 阿波の女は格別情熱的であると言われている。阿波の遊女だけがおとなしいとは考えられない。寄港した舟の男たちと、さぞや狂乱、狂態をつくし、前のブログで紹介したような「腰巻き地蔵」のような深情けの遊女の伝説でも残っていないかとおもうが、これが今のところ(私がよ~探さなんだだけかもしれないが)見つからない。むしろ他国の伝説として撫養の港の女の恋の痴態の様が残っている。以下は、江戸中期、加賀国の南部(大聖寺・瀬越村)に伝わる阿波女の話である。

 まずお話の前に少し前置きの説明をお許しください。他国の人の阿波女に対する評価は結構高い。四国島内でも「讃岐男に阿波女」は良き組み合わせであると言い伝えられてきた。美人であるのか、いや家政の始末がいいのか、いろいろな美点は考えられる。時代はぐっと下がって大正時代に徳島に暮らしたモラエスさんも阿波女を褒めている。美しく、しとやかだが内面には情熱を秘めている、そしてモラエスさんが最も気に入ったのは阿波女の繊細な立ち居振る舞い、これについては世界を見て回ってもまず敵う女性はいないとのことである。ちなみに阿波の男性についてもモラエスはんはいっているが、これが遠慮がない、世界でも下々に入る醜さ、不格好だと言っている(プンプン)。女性と男性の評価が天と地だ。まぁモラエスはんほどではないが(国内の)他国の人の評価もおおむね女>男であるようだ。そんな阿波女が江戸後期、撫養の港で引き起こした大恋愛(?)騒動の顛末

 撫養の港に娘がいた(加賀の方の話では娘だが、ワイはちょっと疑問、娘の可能性もあるが遊女の可能性のほうが大きいような気がする) そこへ大坂から撫養を経由して瀬戸内海、下関~日本海側~蝦夷地へ向かう北前船が入った。撫養は単なる潮待ち、風待ちの港ではなく重要な輸出港でもある。阿波特産の(特に撫養産の)製塩、阿波三盆(白砂糖)、藍(青色染料)はずいぶんと儲かる商品であった。そのため滞在が長引くこともあった。その北前船の水手(水夫)に(便宜上ワイが名前をつけた)鱒之介という若者がいた。北国・加賀出身であるためか色白でなかなかの男前であった。そこにおアイという娘(これも便宜上)がいた。現代風の純愛ものなら問屋場の娘(もちろん未通女・処女)と思いたいが、江戸時代、寄港した水手が問屋場の娘どころか町娘にちょっかいを出すのはかなり無理があるので、ワイは遊女ではなかったかと思う。
 さてこの女、先のイケメン水夫にぞっこん惚れ込んでしまった。もうこうなると一時でも離れたくない。北斎漫画の絡みつくタコではないが吸い付いて離してくれない。しかし北前船の出航は迫る。男は、本心はどうか知らない、もしかすると一時的にその場を納め、なんとか円満に出航したいと思ったのかもしれない。夫婦約束をして次のようにいった「しんぼうせぇや、蝦夷地に行って秋になると上方へ帰ってくるから、そのときまで待っていれば、一緒につれてかえっちゃる、な、まっててくれよ」
 しかし女の体の疼きは頭まで回ったのだろうか、なんと、出航する舟の船底の荷の間にこっそり隠れた。北前船は知らずに出航、やがて洋上にでる、男が船内の仕事で船底に来たとき、「鱒之介さまぁ~」と抱きつく、男はびっくり仰天、「え、え、え、アイちゃん」二の句がつげない。何日かは隠れていた。しかしそれからどうするあてもない。困り果てた男は涙ながらに船長や同僚に訴えた。アイちゃんとは夫婦になる約束ですが、アイちゃんが思いあまってこっそりと舟に忍び込み、隠れてついてきました。この上はどうか夫婦として添い遂げますので加賀の寄港地(鱒之介のふるさと近く)まで同船させてください。
 これ、古代や中世の説話なら、女など乗せると海の神様がお怒りじゃ、生け贄として可哀そうじゃが海に沈めよう、となるが、江戸時代ともなるとそんな迷信はない。船長も同僚も仕方あるまいと加賀の寄港地まで二人を乗せ、その後、無事結婚したそうである。この阿波から来た嫁さま、言葉遣いや、料理の味付けが一風変わっていて、地元では「アワさま」とよばれていたそうである。

 江戸後期、北前船寄港地であった撫養の港(岡崎から撫養川を遡る)の地図と鳥瞰図
 撫養川沿いに船問屋、蔵、船宿などが建ち並んでいて船の荷の出し入れを捌き、また乗組員も上陸し、骨休めをした。





 北前船寄港地でもあった撫養にはこのように神社(岡崎・妙見神社)の鳥居に天保時代の蝦夷・松前の商人・藤野喜兵衛の名が刻まれている。蝦夷地との密接な関わり合いがわかる。


2022年8月30日火曜日

マドロス演歌、案外こういうところにそのルーツが

マドロス映画のヒーローはあこがれだった

  マドロスものの歌が流行った時代は、またマドロスものの映画も大流行だった。マドロスものの歌がヒットしたのでその主題で作られた映画もあったが、歌とはまったく関係なく作られたマドロスものの映画もたくさんあった。

 下にそれらの中からポスター三枚挙げておきます。映画館でこれを見た年代は私と同年代か上の人たちでしょう。左から主演は赤木圭一郎(昭和35年)、真ん中は石原裕次郎(昭和42年)、小林旭(昭和34年)。映画の全盛時代は昭和32~35年、のべ十億人以上が映画館へ足を運びましたが、マドロスものはその映画全盛時代と重なっています。(任侠ものが流行るのはむしろ衰退期に入ってから)


  上記のポスターはいずれも日活映画のものだ。マドロスものは大きなジャンルでアクションの範疇に入る(イケメンだが力のない弱い文学青年のようなマドロスがいてもいいと思うがそういうのは見たことない) この時代の日活アクション(マドロスものも含め)はいわゆる「無国籍映画」と呼ばれていた。舞台の港町も国内と言うより悪がはびこる無法な中南米の都市のようで、またヒーローとなる流れ者(マドロスも同じ)もどこから来たのかはっきりしない、がマドロスとしての過去の仕事は東南アジア航路であったような暗示がある(それらの国から密輸だの密入国だのが絡んでくる

 昭和30年代前半の日本は農村人口がまだまだ多く、また社会にもいまだ封建的な遺風制度が残っていた時代である。しかし戦後改革の自由主義的な雰囲気はそのような社会に対する若者の反発を生む。とはいえ自分自身でアクションを起こす確とした手立や方法があるわけでもない。多くの青年は鬱々とした気持ちをどこかで抱えていた。そういう時代に、何ものにも束縛されぬ自由人で、力強く悪に立ち向かい、なおかつ男性的魅力にあふれ、女性にもてる無国籍アクションのヒーロー映画は若者に受けのである。

ゴジラ映画との対比

 ゴジラは昭和29年に作られ大ヒットする。この映画には暗喩があり、それが人々に受けいれられたから大ヒットにつながったのだといわれている。この「暗喩」は以前からたびたび指摘されていた。映画のあらすじは、南海に眠っていたゴジラが原水爆実験によって目覚め、そして北上し日本本土に向かう、そして本土に上陸し、大都市を破壊するというものである。当時(昭和29年)、アメリカが南洋(旧日本領のミクロネシアやマーシャル諸島)で盛んに原水爆実験をしていたという最新の時事問題を映画の発端に取り上げていることもあるが、それよりこのゴジラによる日本の都市の破壊は、封切り当時から遡ることまだ10年にもならない前、南海の基地から飛び立ち日本本土を爆撃した都市を壊滅させたB29の大編隊と重なるものがあった。空襲の生々しい記憶は鮮明に残っていてその映像を見た人は日本の都市を焼け野原にしたB29の大空襲をまず思い浮かべたのである。

 そして次の暗喩はなかなかデリケートなもので、これには深読みしすぎだという人もいたが、その暗喩を聞いた人でなるほど、と胸にストンと落ちた人も多かった。それはゴジラが南海から一路、ひたすら本土に向かったのは太平洋戦争のとき南方戦線で無念にも戦死した英霊の象徴であったというものである。英霊が南海から日本本土を目指すのはわかるにしてもそれがなぜ復興した都市を荒廃させるのか、疑問だという人もいたが、英霊が鬼となって帰ってきたとも解釈できる。なおこれもよく言われることだが、東京のよく知られていた主だった建物はゴジラによって破壊されるが、なぜか東京の中心の皇居には向かわない、むしろ避けている。これなども英霊説がでる所以だろうか。

 このゴジラ映画の対比でいうなら、このマドロスものもゴジラに対するのと同等くらいの妥当性でもって戦争の暗喩を感じることができる。マドロスものの流行った昭和30年の前半、海外へ派兵され復員した人でもまだ三十代後半かせいぜい四十代前半である。海外からの復員経験をもつ日本男子は当時多かった。南方からの復員はだいぶん前にすでに終わっていたが、北方満州にいた兵隊はロシアに抑留され復員はうんと遅れ、復員が終わったのは昭和30年代になっていた。海外から復員できなかった生死不明、あるいは戦死の公報が届いても、遺骨さえない家族は、夫や息子がまだ生きて南海の島に生きているのではないかと望みをもっている人もいたのである。この帰国を果たせなかった復員兵、そしてあきらめきれずに待つ家族、その恋人がそのマドロスものの暗喩になっていると考えるのはうがちすぎだろうか。

水手(水夫)と港の女の恋

 明日は出て行く水夫(マドロス、江戸期は水手・カコと呼ばれる)と港の女との恋愛の愁嘆場は、いかにもマドロスもの映画の最後の見せ場となりそうだが、このような港のはかなく短い恋は、明治以降外国航路が開かれて以降の話かと思うがさにあらず、その伝統は江戸期から続いているのである。

 江戸時代も後半以降になると我々が想像している以上に物流が大きく盛んになる。現在の物流は大半がトラックによるものが多いが、この時代、大量の物流を担ったのは廻船であった。標準的な積載量は千石・250トン、それ以上の大きな船も就航していた。大動脈は西回り廻船、そして大坂~江戸を結ぶ廻船、それから東回り廻船、その中でも西回り廻船の物流量は群を抜いていた。特に西回り廻船の中でも買い積みの船(船賃でもうける船でなく、船主の才覚で各港で各種の商品を仕入れ、また寄航港でそれを売りさばき、商売をして利ざやをとる)は「北前船」とも「弁才船」とも呼ばれ、江戸中期以降西回り航路の主流となる。

 その北前船の航路は、始点が大坂~瀬戸内海の各港~下関~そして日本海に入り~日本海側の各港~最終地は蝦夷地(北海道)の松前、函館、江差、の港、北海道の海産物は上方では需要も大きく、また高く売れるため、帰りは北海道の産物が船荷の主流となる。大坂を春の彼岸頃出発し、各港に寄港して商売しながら、5,6月に蝦夷地で海産物を仕入れ、帰路につく、そして台風前に瀬戸内海へ入り、晩秋か初冬のころに大坂に帰り着くのが一般的なスケジュールであった。一回の航海で千両は儲かると言われ、新造の千石船をもう一隻作れた。

 百姓の次男以下の仕事としては北前船の水夫は実入りのいい仕事であった。しかしいったん船に乗ると半年や一年実家に帰れないのは当たり前、実家に嫁や子がいようがいまいが実質、独身である。ただ、買い積みの船で各港で商売をしながら北上するため、日本海側の港に寄港地は多く、寄港すれば金回りもいい水夫だけに、いわゆる酒や女の楽しみがあり、港にはそのような北前船の水夫目当ての、享楽を提供する店がどの港にもあり、繁盛していた。

 江戸後期になると廻船は安全性や安定性は以前と比べるとずいぶん良くなったとはいえ、木造の帆船である、気圧計もない、無線で天気予報が聞けるでなし、海が荒れたときの船の上での作業は命がけである。そのような海での荒々しい男ばかりの仕事を何日も続けたあと、港に入ったときの女や酒に溺れるのは自然な気がする。毎年日本海側を往復していると、各港に馴染みの女が出来る場合もあるだろう。このような水夫と港の女郎は売った買ったの仲だけではない親密な情が生まれても来るだろう。

 日本海側にはこのような北前船の寄港地がたくさんあり、現在の大型貨物船などが入港できる港とは地理的位置が違うものが多い。その北前船寄港地には必ずと言っていいほど船宿、女郎屋(この二つを兼ねているのも多い)があり、顧客は北前船の乗り組員である。この時代の船は当然帆船である。低気圧がよく通る日本海を航行するのであるから、対馬暖流を利用しつつ沿岸を進み、小刻みに多くの港に寄港する(もちろん商売もあるが)のは海難を最小化するのにも有効である。さらに安全性を高めるため、各地の寄港地はまた、風待ち、日より待ち、をして風や波が治まるのを待つ港である。日本海が荒れた時は何日も、それこそ10日近くも港で待機する時もある。

 若い水夫と女郎とはいえ歳も変わらない元は近くの漁村や農家の娘が、主に経済的理由から家のために女郎奉公に出た女である。長く逗留すれば、職業も忘れ、もうこの人でなければ、と純愛に発展する場合も多かったと思われる。吉原などの都市の遊郭の女郎なら女の手管に男が一方的に熱を上げることもあろうが、ここ北海の小さな港町の女郎たちはそれら都市の遊女と違い、むしろ女性のほうが若い北前船の水手に熱を上げる場合が比率としては多かったと思われる。遊女の深情け、と呼ぶより私は港町の一介の女性の純愛と呼びたい気がする。

 風待ちで何日も居続けるカッコイイ、イケメンの水夫に遊女(出航待ちのため何日も滞在するときは同一の女郎が相方となった)が一途な恋情を抱くのは自然である。一緒に好きな男と過ごす日々は天国にいるようだっただろう。しかし、いくら好きでも、相手は船待ちのため滞在する水夫である。別れは間近である、別れはずいぶんと切ないものになる。「きっと、またきてね」とはいっても近所のおっさんではないのである。いつ来るか、わからぬまま、永遠の別れになるかもしれない。二人の愁嘆場が、と思われようが、先にも言ったように、北前船の乗組員のほうがむしろ港の一夜の女、とシビァーに割り切っている場合が多い・・・と言うわけで、港の女の悲恋物語の一丁出来上がりである。

 こういうと、男に身を売る女郎に何の純愛か、と笑われるかもしれないが、これは江戸時代の庶民生活史を勉強するとわかることだが、カタギの男女が結びついて夫婦になる場合でも恋愛によるものなどほとんどなかった、親が決めた相手と結婚する場合が多く、恋愛の上結びついた夫婦などはむしろ軽蔑された。第一、おぼこな男女が愛だの恋だの語り、二人の恋愛を作り出すというような習慣はほぼないと言われる。むしろ遊女とそこに通う男との恋情のほうがずっと純粋な恋愛に近い。大概は金のためにいやな男に身を任せるのであるが、中には真剣な恋もあったのである、「遊女のまこと」は存在したのであり、むしろ市井よりこのような場でこそそのような恋愛は花開いたと言っていいのが江戸時代の恋愛事情であった。

 幾星霜流れ時代は昭和、港の女心を取り入れたマドロス演歌は、北前船の時代の水手と女郎のはかない恋を歌ったものではないのかとの錯覚さえ感じる。
~思い直して別れることが~出来るものなら涙はいらぬ、船のバカバカ、薄情しぶき~
  (馬鹿っちょ出船)
~別れりゃ三月、待ちわびる~女心のやるせなさ、明日はいらない今夜がほしい~
  (港町ブルース)

腰巻き地蔵

 これはもう40年ほども前、私が日本全国放浪の旅をしていたとき、ある北前船寄港地で、そのような情を交わした水夫と港の女郎のある歴史的遺物を見た。そのエピソードを紹介しようと思う。

 車で日本海側に突き出た能登半島を旅していたときである。あらかじめ見所を考えていたがそれはどの旅行ガイドブックにもあるような名所旧跡であった。その中から私の趣味に合わせていくつか選んだ。一般的な観光地の輪島、歴史好きには外せない時国家(壇ノ浦で破れここへ流された平時忠の旧跡とその子孫の家、そして松本清張の「零の焦点」の舞台となった能登金剛である。

 その能登金剛へ向かっていたときである。ガイド付き道路地図を見ているとその能登金剛の少し手前に「福浦」という小さな漁村がある。その地図のガイドキャプションに、ここは江戸時代北前船の寄港地として大変賑わったとある。地図を見ても小さな漁港で集落も小さそうである。しかし地形を見ると小さいながら二つの湾を持っている。現代の大型船は無理だろうが、江戸期の千石船(250トン)だと出船入り船に使い勝手が良く、二つの入り江は風待ちにもいい港であることが推測される。下がその福浦港の地図である。

能登半島の福浦

福浦港地図

福浦港鳥瞰図

 半島の西岸を北上する本線バイパスから折れ福浦漁港に下りてみた。何の変わりもない小さな漁村である。当時はデジカメもない時代である。漁村をぶらぶら歩いただけだった。写真などに記録してなかったので記憶が確かではないが、江戸期にここは北前船寄港地として栄えたと刻んだ記念碑を見たと思う。また上記鳥瞰の地図に示されている「金比羅神社」(海の神様)にもそのような北前船が行き交った当時の繁盛ぶりを示す表示を見た記憶がある。

 後で調べると、今はこのような貧弱な漁村だが北前船の寄港地として栄えたときはここに船宿が20軒も建ち並び、当然遊女屋もあり、遊女が常時70人以上いたそうである。その当時もそのような説明を読んだであろうと思っている。というのも、今でも記憶に鮮明に残っているが、その遊女たちが願をかけた「腰巻き地蔵」が港から外れた郊外にあるということを知り、わざわざその地蔵を見に行ったからである。上図の地図の左下隅に腰巻き地蔵が示されている。

 腰巻き地蔵とは変わった名前である。帽子やよだれかけを着けた地蔵はよく見るが、腰巻きをつけたお地蔵様は珍しい。そしてその腰巻きの出所を知ってびっくりした。なんとその腰巻き(赤)は遊女の腰につけた使い古したものだったのである。それを願をかける遊女がお地蔵さんに着けるのである。何でそんなことをしたのか?それは恋しい男(水手)と少しでも長く一緒に居たいがためである。使い古しの女の腰巻き(男のふんどしと同じ)をお地蔵さんに着ければ、お地蔵さんはお怒りになるだろう。そうすると海が荒れるに違いない、海が荒れるとその間は船は出航できず自分のところに恋しい男がとどまってくれる、それを願ったのである。

 これは女の一方的な願いに違いない。なぜなら水手たち海の男は、迷信深く、海が荒れるようなことや、船の平穏な航行に支障があるような行為(迷信も含め)を非常に嫌うのである。しかし一途な女はおそらく男には内緒で、夜道をひとり郊外にあるこの地蔵まで願掛けに行き、腰巻きを地蔵に巻いたのである。恋しい男に会うためならば火付けをし、火あぶりの刑になった八百屋お七の例もある、地蔵に不浄の腰巻きを巻いて密かに祈願することなど何でもなかったのである。やはり腰巻き地蔵の例を見ても、女の方の情が深かったのである。
 下はググルのストリートビューで見る、今に残る「腰巻き地蔵」

2022年8月28日日曜日

ようやく涼しくなったが台風も来てる

  ようやく涼しくなった。今日は朝だけでなく日中もそう暑さを感じなかった。昼過ぎ、風に吹かれて歩くと心地よい涼しさを感じる。このまま秋になるといいが、秋の初めはまた台風の季節である。天気予報をみると早速今日の午後3時頃、熱帯低気圧が南海上で台風11号に変わった。進路予想を見ると


 「こりゃまた、どうじゃ、ウチの方へ一直線ではないか」

 他の地方には申し訳ないがなんとか逸れてほしい、どうしてもくるならせめて強い勢力にならずにいてほしい。今週はあれた天気になるかもしれない。

追伸

 29日の予報を見ると直撃ではなく真西に進むようだ。安心した。


2022年8月25日木曜日

マドロスもの


  大洋を航海する古典的な船員といえばどのようなイメージを持つだろうか?ここで古典的といったのは、現代の船員(ヒラの船員)は今どのような構成の人々が多いかというと、日本の船会社は人件費を考慮し、いわゆる開発途上国の人々を雇っている、日本の船ではありながら、士官・航海士以外の船員はヒリピン、タイ、インドネシャ、バングラなどがほとんで日本人船員はほとんどいない。いや士官、航海士どころか船長まで全て外国人という場合もある。外国航路や大洋を渡る船が日本人船員で占められていたのはもう二昔、いや四、五昔(つまり半世紀昔)も前の話である。それでここでは古典的な船員と行ったわけである。

 日本所有の外国航路船、大洋を渡る貨物船、タンカーなどのヒラ船員の給与は開発途上国の若者であっても思っているほど安くはない。日本国内のマックなどのファーストフードで働くより給料は断然いい。しかしいくら給料が良くっても日本の若者は外国へ渡る船などの船員にはまず応募しない。四六時中狭い船の中、仕事はきつく、危険、そして港を出発して外国へ向かえば数ヶ月いや数年も帰ってこられないこともある。精力ムンムンの男が何ヶ月も女性を見ることすら出来ない暮らしに耐えるのはきつかろうと思う、南極越冬隊ご推薦の空気で膨らましたダッチワイフの模擬陰部で精力発散なんど今の若い子に出来そうにない。

 だが私の子ンまい時、そして20代くらいまでは、外国航路の船員に対してある憧れがあり、そこに海の男のロマンも見ていた。それは幻想だったかもしれないが、そういうものをかき立てられたのも事実である。その頃はもちろんヒラの船員、厨房員でさえみんな日本人だった。3Kのキツイ仕事は今と変わりなく(いや装備が良くなった今よりこの頃はもっとキツかったはずだ)。そうであるのになんで外国航路の船員にロマンや憧れをもてたのだろうか。

 当時の船員さん自身はどう思っていたかは置く、我ら外部の人間がどのようにイメージしていたかを考えてみる。最もそれに影響を与えたのは、この頃すでに歌のジャンルとして確立していた歌謡曲の『マドロスもの』である。マドロスとは調べると語源はオランダ語であり水夫。船乗り。船員。という意味がある。歌謡曲の「マドロスもの」はその題の示すマドロス(船員)が主体ではない、そのマドロスに恋をした港の女性が主人公である場合が多い。

 寄港地でマドロスが過ごせる時間は短い、久しぶりの女性との逢瀬も短い、出港イコール別れが運命づけられている。そのマドロスとの切なく、はかない恋を歌っているのである。最初のマドロスものはいつ頃誰によって歌われたのだろうか。私のよく知る古い歌としては淡谷のり子の『別れのブルース』がある。この歌はなんと戦前、昭和12年の曲である。

~窓を開ければ港が見える~メリケン波止場の灯が見える~・・腕に錨の入れ墨彫ってやくざに強いマドロスの~♪~二度と逢えない心と心~踊るブルースの切なさよ~♪

 (ヨウツベの「別れのブルース」ここクリック

 この歌でマドロスの視覚的イメージが決定づけられる。力持ちでけんかに強く、男らしいマッチョ、だが女性には優しい、そしてなぜか白黒の橫縞のシャツを着ている、下のレコードの音盤写真のように


 そして私が小学校の時、大流行してマドロスものの曲としてジャンルが確定し、これ以後の流行も決定づけたのが美空ひばりの『港町十三番地』である。

~長い旅路の公開終えて、船が港に泊まる夜~・・みんな忘れるマドロス酒場、ああ港町十三番地・・♪~船が着く日に咲かせた花を船が出る日に散らす風~♪

(ヨウツベの「港町十三番地」ここクリック

 マドロスとの出会い、そして別れを暗示する歌であるが、ひばりさんはわりとサラっと歌っているので悲恋感はない、横浜の港町、そしてマドロスを詩的に美しく歌い上げている。

 淡谷のり子の切々としたマドロスものの歌、美空ひばりが軽い口調で歌い上げた横浜のマドロスさんの歌、ところが私が中学生のとき、まるで浪曲のように強く心に響くマドロスの歌が登場する。初めて聞いたとき、節回しに浪曲のような「うなり節」が入っているのではと思ったほどである。都はるみさんの一連のマドロス演歌である。もっともパンチがあると思われる曲が『馬鹿っちょ出船』

~赤いランプを灯した船が、汽笛鳴らして、さよなら告げる、二度と逢えないマドロスさんに、未練、未練ばかりを心に残す、馬鹿っちょ出船~♪

(ヨウツベの「馬鹿っちょ出船」ここクリック

 都はるみさんは今でも私は大好きで、特に初期の歌はマドロスもの(あんこ椿はなどもそう)が多く、上述のようにパンチが効いて、歌うと元気が出るから、今でも銭湯なんかで鼻歌として歌っている。そういえば最近、はるみちゃん、全然見ない、完全引退したのかな、まだこの世からリタイァしたとは聞こえていないが。

 さて私が中学から高校にかけて演歌はムード演歌というのが登場する。それに被さって「ご当地演歌」も大はやり、昭和42年発売の「小樽の人よ」なんかは両方兼ね備えていて好きだったなぁ。これなどは小樽という港町ではあるがマドロスものとは少し違う。このときまでのマドロスものは、ポパイのようにマッチョ、縞のシャツ、パイプを加え力強い海の男、そしてそのたくましい腕にぶら下がる女性・・そして出船ととも別れ、というイメージだったが、ムード演歌の流行はそのようなマスクリンな男だけが対象でなく、もっとおしゃれな(ある意味柔弱な)海の男一般を対象にする歌が出現する。マドロスものの一部である切ない別れを込めた港の歌が流行する。

 私が高校最後の年に発売されて流行したのが、待ちわびる男を追ってどうやら列島の各地を転々とする女性の心情を歌った森進一の「港町ブルース」、この時代はやったご当地演歌の一種ともいえるが、欲張りなことに列島の主な港町をことごとく網羅している。そして待つ、あるいは追いかける男にはマドロスのイメージがある。

~別れりゃ三月~待ちわびる、女心のやるせなさ、明日はいらない、今夜がほしい、港、高知、高松、小松島(と私は歌う)~♪

(ヨウツベの「港町ブルース」ここクリック

 この歌も私は大好きで、今でも馬鹿っちょ出船とともに歌っている。全国放浪好きの私だから、もう足腰たたん今になると、一曲で全国港町網羅のこの曲を、せめて歌だけでも放浪しちゃろと、歌うのである。

 そして今、船乗りは日本の若い衆には3Kで嫌われ、外洋の船の船員は異国の人で占められるようになった。マドロスにロマンを感じた時代は遙か昔に過ぎ去ったのだなぁ、との感を強くする。

2022年8月23日火曜日

晩夏の候

 午後に乗った列車の車窓からみるとすでに稲刈りの終わった褐色の刈田が広がる。斜めから射す夕づく日も秋を思わせるやわらかさがある。しかし列車を降りるとむっとした暑さ、初秋というには暑すぎる、街中の隅っこにも涼しさはない。まだまだ夏が頑張っている。


コロナ陽性記

  古希を過ぎて体が衰えてきている。そしてアッチャコッチャ体の具合が悪いときが多い。あるときは頭痛ないし頭が重い、腰の痛み、四肢の疼痛、歯痛、胃のもたれ、などなど、そして時々、体全体がしんどいときがある。70才を過ぎてそんな状態が続くのでそれが普通と思いだした。

 だからあとからいつ頃から病気でしんどくなったのか聞かれてもわからない。今回コロナ陽性になったが発熱はほとんどなかった(家の体温計で測ったときはいつも平熱)。ただ8月11日の祝日の朝、起きたときに喉の違和感があった。そして少し咳が出始めた。いつもの夏風邪かな、とおもったが、今コロナが急蔓延しているので少し気になる。売薬の龍角散を飲んで様子を見ることにする。体調は、先も言ったとおり、古希を過ぎていつもシンドイのでその日だけ特にしんどいということはない。

 13日には、何か四肢のだるさというか鈍痛があるような感覚がある。しかしこれも先に言ったように高齢になって時々おこるから、特定の病気の自覚はない。咳は頻繁ではないが少しあり、喉も荒れているような感じがする。夕方、なにげなく入ったデパートの入り口の検温モニターを見ると私の顔の上に37.9℃の表示がある。驚いて家に帰って検温計でもう一度どころか何度も計ったが36℃の平熱、しかし、もし微熱があればコロナ感染の疑いがある。

 翌日も病院休診日なので保健所のコロナ課に相談のため電話するが10回電話しても「混み合っていますので後ほどおかけください」との電子音が流れるだけ。

 結局、ボニが終わってから内科の普通予約で診察を受ける。個室で待たされ、問診票を書いて、しばらくして鼻から検体を取る。40分ほどすると、陽性と告げられ、症状の対処の薬(咳止めと去痰剤)をもらい発熱外来の出口からでる。病院からは保健所から家に連絡があるのでその指示に従ってくださいとのこと。

 保健所からの電話で症状の出始めの日時、そして現在の症状の様子を聞かれた。そのときまでには喉の不調と若干の咳だけしか無かったので軽症と判断され、自宅療養期間は8月21日までと告げられた。その後、地区の保健所から3回と県から1回、現在の症状の問い合わせがあったが、体調は70才を過ぎてからの普通の日とかわらず、とくに胸が苦しいとかセコイとかはなかった。そして今日は8月23日、一応私のコロナ感染の始末の区切りはついた。

 しかし4回もワクチンをしても感染したのである。いったいワクチンって効果あるのだろうかと疑問を感じる。いや、ワクチンを打っていたおかげで軽症ですんだんや、といわれたら、そうかなぁ、と半信半疑納得せざるを得ないがどうも釈然としない。またコロナは一般の風邪と一緒で、一回罹っても何度も罹ると聞くと、完全に一区切りついたとはいえない。

2022年8月22日月曜日

歴史に見る武器のゲームチェンジャー

  ウクライナ戦争が始まってから注目を浴びだした専門家がいる。軍事評論家である。本業は大学院の先生であったり、防衛戦略研究所(防衛省にあるらしい)の研究員であったりする。実際戦われている「戦闘」の勝敗、そして時には人的被害(戦死者・負傷者)も予測するからかなりシビァーな仕事である。

 われら日本人はおおむね(もちろん反対の人もいようが少数派である)ウクライナ贔屓が多い。発端は(いろいろな経緯があったにせよ)一方的なロシア軍のウクライナ領土の侵攻だったため、どうしても(心情的には)ウクライナに加担したくなる。そうはいっても戦争は常識的に言って弱いほうが負ける。強い弱いというのは国力や戦闘意思の強さもあろうが、やはり軍隊の数、そして装備している兵器の質量が強力か弱小かによる。

 ウクライナ戦争が始まってもう半年にもなるがまだ勝敗は決していない。マスコミ報道を見る限り、どちらも優位に戦争を展開してはいないようにみえる。西側の報道などはロシア劣勢を伝えているが、真偽はわからない。当分続きそうであるところを見ると圧倒的優劣の差はついていないようだ。

 さて、最初に登場した「軍事専門家」がよく口にするキーワードに「ゲームチェンジャー」というのがある。互角に戦っている、あるいは膠着状態に陥った両軍の戦闘に「ある新しい兵器」が加わることにより、勝負が決しないゲーム(戦闘)を劇的に有利に持っていくことができるようになる。その「ある新しい兵器」をゲームチェンジャーとよんだりしている(戦術・戦略の革新もあろうがここでは兵器のみに焦点を当てる)。ウクライナ戦争の例では西側からウクライナに供与された「ハイマース」(高機動ロケット砲)がそれにあたるのではといわれている。これの導入によりロシアの苦戦が続き、押されていけば確かにゲームチェンジャーになるだろうが、今のところそうなっているかわからない。

 最新のテクノロジの塊のような兵器については情報不足でわからないが、歴史上登場した近代兵器については歴史を勉強していれば少しは知識がある。その中でいわゆるゲームチェンジャーになった兵器をいくつかあげることが出来る。19世紀末ころ登場した機関銃、そして20世紀初めの航空機などがそうであろうか。もっと古くは小銃がある、初期のそれは火縄式発射装置であったがこれを歩兵に装備し組織的に使ったときまさにゲームチェンジャーとなった。日本史の教科書には必ず出ている織田率いる小銃歩兵軍団と武田騎馬軍団との対決、長篠合戦である。これにより武田騎馬軍団は壊滅的打撃を受けたと言われている。

 日本史で火縄小銃はゲームチェンジャーになりえたが、それでは大砲はどうだろう、火縄小銃ほどはゲームチェンジャーにはなっていない。というのも日本ではこの時代大砲はほとんど活用されていないため数が少なく、勝敗を決する武器にはなっていない。理由を考えると、平坦地が少なく地形の複雑な日本では左に見るような砲架は移動が難しい。機動力を増すためには牛に引かすより馬に牽かせなければならないが、日本ではそのような運搬方法はなく、人力かせいぜい牛に牽かせるくらいであった(それでは機動力がでない)。大砲は日本では機動力・運搬に問題があるのと、苦労して戦略拠点に運んでも、それを生かせず、小銃のほうが日本人には断然使い勝手が良かった。

 当時の大砲の砲弾の大きさは重さ(ポンド、あるいは何貫)で表される。鋳鉄製か鉛、石などでスイカのようにまん丸で内部まで同質の金属で炸薬など入っていないから爆発はしない。そのため威力は限定されるが、密集隊形の歩兵に打ち込んで兵らをなぎ倒しつつ隊形を混乱させたり、また砦、城などの城壁を壊すのには力を発揮した。しかし日本ではそのような使われ方はほとんど無かった。ただ、戦国最後の騒乱といわれる大坂冬の陣で家康軍が何門かの大砲を大坂城に発射し、御殿を壊し、淀君を震え上がらせたのが知られている。だが戦闘のゲームチェンジャーとはなっていない。

 大砲は日本より大陸諸国の明や清では一般的でよく使われた。もちろんまん丸の金属の玉だから爆発はしないが当時の大陸の戦闘や攻城戦では使われた。そのため日本対明国の戦い(文禄慶長の役)では優れた小銃を多数持つ日本の歩兵、しかし日本兵は大砲は持たない、相手の明国は質量とも劣る小銃装備しかない、しかし大砲は多数ある、ということでかなりいびつな戦いを両軍がやった。結果として膠着状態になるが、異国の地だけに当時の兵站輸送を考えると日本が不利となった。

 大砲がゲームチェンジャーになるのは19世紀に入って大砲の弾が爆発する榴弾となり、その大砲が蒸気船と結びついたときである、当時としては最高の戦争のゲームチェンジャーになった。

 百聞は意見にしかず、で次の絵を見てみよう。世界史の教科書には必ずといっていいほど入っている挿し絵である。


 これは1840年アヘン戦争のときのイギリス軍と中国・清朝との水上の戦いである。勝敗は明らか、密集してモタつく清軍のジャンク、そりゃそうだろう風力や人力にたよる船では思うに動けず、戦で混乱するほどモタつき敵の餌食となる。対するイギリスは右のスマートな蒸気船(まだ外輪船ではあるが)、蒸気エンジンの力によって自在に動くことが出来、水上の戦略的優位な場所に瞬時に移動できる。

 そしてこの時代になるとイギリス軍は大砲の弾(球弾ではあっても)の中に炸薬を詰め、信管を装着し、爆発するようになっている。これで威力のある(着弾すれば爆発する)大砲の弾を発射するのである。上図のように見事、イギリスの砲弾は命中し、なんと、一撃でジャンク船が大爆発し撃沈されようとしているところである(実は弾の爆裂で船内の火薬の誘爆が起こったのであるが)。

 蒸気船そして爆裂する大砲の組み合わせ、この威力を示すのが上の挿絵である。これはまさにゲームチェンジャーになった。この象徴するところの意味は、これ以後アジアに海からやって来るヨーロッパ諸国に、アジア諸国は軍事では太刀打ちできなくなり、結果、アジアは植民地あるいは半植民地になるか、それともヨーロッパのこのような軍事技術を取り入れ、なんとか対抗できる国にするか、しか選択がなくなったということである。しかし対抗するのは難しく(なぜなら単に軍事技術のみの改良でそれは出来るものではない、その国の社会制度、文化、経済の変革も伴うものだからである)19世紀が終わるまでになんとか対抗できたのはほぼ日本だけであった。

 18世紀末まで頃の大砲は以下の動画に見るようにタダの鉄の塊、爆発しないので威力は限られる。

 

 そして18世紀末ごろ下に見るように信管が発明され砲弾(球弾でも)爆裂するようになり、威力が増した。


 上図挿絵の 蒸気船+最新の大砲 で清国とのアヘン戦争に勝ったこのゲームチェンジャーは、そっくり真似をしたアメリカのペリーにより日本に威圧をかけるため用いられ、幕末の動乱の幕が切って落とされたのはご存じの通り。

2022年8月19日金曜日

阿波の山に残る念仏踊り

 この歳になって郷土史や郷土の民俗学が興味が出てきた。若いときは歴史一般、つまり日本史の誰もが認める歴史上の人物、事件などの興味が中心であった。多くの人もそうだろう。そのためごく身近な郷土の歴史や民俗学について若いときはほとんど勉強しなかった。

 しかし何十年も日本史などを勉強しているとそのうち一般的な歴史ではなく、というのも何十年もやっていると多くの人が興味のあるものなどだいたい知ってしまってそのうち飽きてくる。そのためもあり、あまり人々の興味の向かない枝分かれした微細な部分の歴史に勉強が向かっていくようになる。

 歴史にはいろんな分野があるので、これを深く勉強するようにすれば何年たとうがこのような歴史の興味は衰えず続いていくことになる、私の歴史の興味の推移はブログを見るとよくわかる。ちょうど十年前の2012年頃には四国出身の宗教家(といえば空海を思い出すだろうが、もっと新しく鎌倉時代の一遍上人)に興味を持ちいろいろと勉強していた。この時代の民間に活躍した宗教家は庶民大衆を救うことをまず第一に考えた結果か、なぜかキリスト教のような一神教にちかいと思われる教え、「阿弥陀仏(のみ)を信ずれば」あるいは「阿弥陀仏の名号を一心に唱えれば」救われると民衆に説いた。一遍さんもそうである。普通は中世初期の市井の宗教家というとなかなかいい資料がないのであるが、一遍さんについての勉強には良質な資料があって、それには図書館に備わっていた。「一遍上人絵伝」と「一遍上人語録」である。「一遍上人絵伝」は絵巻物になっていて、見るだけで日本の中世がいかなる風景で、それを背景に歴史が展開していたかわかる、まさに百聞は一見にしかずの資料である。

 中世パノラマ一遍聖絵、としてそのごくごく一部を切り取って私が作った動画がありますので見てください(2012年に作ったが、非公開から公開に編集し直したので2021年になっています

 

 この中で京都七条の道場(現代人がみたら道場と言うより「お堂」の一種と見える)で一遍が踊り念仏を大勢でやっているシーンがある。

 鎌倉時代からあったこのような「踊り念仏」が現代の盆踊り(阿波踊りもその一つ)のルーツになっているのではないか、少なくとも大きな影響を後世の盆踊りに影響を与えたのではないかと考える専門家は多い。

 去年の10月頃、私は貞光町の山の方の「お堂」を歩きブログを作った、浦山堂である(ここクリック)、貞光町の山のほう(端山)にはこのようなお堂がたくさんある。私のブログでその中の二つ紹介した(先のブログとその前のブログ)。それ以外にも町内に数十のお堂がある。その一つで木屋堂という「お堂」について、先日みた郷土資料には今も(その資料が作られた昭和63年頃)「念仏踊り」が残っていることが書かれていた。

以下(「阿波のお堂」より引用

~~踊りは木屋地区(貞光町・端山)で一年の間に新仏がある年だけ、旧暦の7月13日夜に行われたが昭和51年からは新暦の8月13日夜行われている。~~まず、新仏の位牌を本尊の前に祀り、一堂は正座して、鉦を打ちながら地蔵菩薩らの真言を唱え、次に、堂内でかね、太鼓を鳴らす人、踊る人も一緒に輪を作り、念仏を唱えながら、左回り?右ではないのか(時計の針の回る方向)に、後ろずさりで鉦、太鼓を打ちながら、だんだん速く回っていき、勢いづくとお堂の床を踏みならし、前の人の帯を握ったり、手をつないだりしなければ輪が崩れそうになる、なんとも異様な熱気のある雰囲気になる~~

 これは中世の一遍さんの踊り念仏と同じではないのか、踊りの動きがだんだん速くなり、ついには神がかり的な熱狂・狂乱の集団陶酔になるのが一遍さんが唱道した念仏踊りである、この木屋堂の踊り念仏はそれをつよく強く思わしめるものがある。

 この貞光町端山は実は私が20代の時に住んでいたところでもあり、近くには「猿飼堂」というお堂もあった。またこの木屋堂は私の祖母の里近くで子供の時、泊まりに行ったこともある。今になって後悔することは、なぜこの昔、私が若かった頃(50~60年以上も昔になるが)そのような地方の行事にもっと身を入れて見ていなかったのだろう、それは無理なら、私が30代の頃にはまだ生きていた祖母や祖母方のお年寄りにこのお堂の行事の話を聞いていればよかった、ということである。

 というのもこの盆踊りのルーツ、そして中世の一遍さんが始めた踊り念仏からの系譜をひく木屋の踊り念仏は平成に入ると、過疎化の影響で、踊りはなくなり、お堂で少人数で集まって座ったまま、念仏の称名のみで合間に鉦太鼓をならしながら唱えられるそうである。もはや踊り念仏とはいえない。せめてこの地域の踊り念仏の昔の動画でも残っていないかとネットやヨウツベで探してもなかった。

 盆踊りのルーツとも言われ、また一遍さんから数えると800年にも渡って伝えられてきた踊り念仏が途絶えたかもしれないのである。間をおいて復活させるとしても動画もない、それを経験した古老も死に絶えてしまったら、踊り、独特の念仏の抑揚、そこにしかないオリジナルの宗教音楽などは復活は難しい。故檜瑛司さんが動画や録音を残してくれているが、郷土の隅々までそれが残っている訳ではなく、途切れるのは残念である。

 若い人でも歴史好きは多い、しかし私もかってそうであったようにごく身近な郷土史にはほとんど注意興味を向けなかった。もし若い人たちがもっと身近な郷土史を大切にしてくれていたらこのような断絶は少なくなるのではないだろうか。

 若い衆よ!身近な郷土の歴史に興味を持ってほしい。

2022年8月15日月曜日

徳島の盆踊り・モラエスさんの随想より


 現代、徳島では盆の行事は(新暦の)月遅れの盆、つまり8月15日前後に行われる。本来は旧暦の7月15日(文月の満月)の前日、数日間行われていて、15日は盆踊りの日だった。左の徳島新町橋上で行われた江戸時代の盆踊りの風俗屏風図をみると満月の下ということがわかります(つまり旧暦7月の15日だったわけです)

 いつもはだいたい旧暦の7月の15日は8月の末頃になるのですが、今年はめずらしく盆の始まりの8月12日が旧暦の7月15日となるのでほぼ新旧の盆が一致することになります。

 現代においては盆の墓参り、そして仏壇を(生霊棚を作る事は少なくなり、そのような形式で)飾り、檀那寺から僧侶を招き棚経をあげてもらう、という行事と8月12日からの阿波踊りとの関連は見いだされなくなっていて、特に若い人などはそれらは全く別物と思っているようだ。戦後になってこの踊りを観光の目玉として「阿波踊り」で広報されるようになって(最近は阿波ダンスという言葉も聞いた)からますますその精霊をお迎えする盆との関連が途切れてしまった。

 しかしモラエスさんが生きていた頃(大正年間、百数年前)は死者の祀りである数日とその後につづく盆踊りは一体のものと認識されていて生者と精霊のための盆踊りという認識を持っていた。

 モラエスさんの随想録より(日付は全て旧暦である)

「何日か前に、墓地の墓をきれいに清めます・・7月12日、墓参があって、花を取りかえるなどがおこなわれます。これは死者の霊がとおくから、知られざる無限から夜間にやって来て、家族ものとを訪ねる前に、自分の墓の上を漂うので墓をこのようにして霊を迎えなければならないからです・・13日は、死者の霊は、夜まで家で私たちとなごやかにすごしました。夜になると死者を墓まで送ってゆき、墓地でかがり火をたいて、地上から永遠の平和の家への長い道を照らします。」

 墓で送り火をたくなど現代とは少し違うところもあるが12~13日にその行事が集中しているのがわかる。そして続く14、15,16日が盆踊りとなる。

「伝染性のヒステリックな興奮が人々を支配します。みんな盆踊りのことしか口にしません。それしか考えません。誰もが昼も夜も街頭に出ますが、祭りがより活気にあふれるのは主として夜です・・人々が主だった通りを埋めます、時々騒々しい一群の人がどこかしらの路地からあらわれて大声で怒鳴り押し合いへし合いしながら進んでいきます・・中でもひときわ目立つのは「げいしゃ」で伝統的な用途の幅広の帽子(鳥追いの編み笠)に半ば顔を隠した、豪華な絹の上衣姿の実に優美な「げいしゃ」もいます。けれども踊るのは「げいしゃ」だけではありません。町の人口の半分が老いぼれ爺さんも老いぼれ婆さんも、幼い子供もおどり、誰もが打ち興じ、死者を讃えるのです。」

 死者を讃えるのです、というモラエスの言葉に、当時の人々はみんな精霊のための盆踊りであるという認識を持っていたのがわかります。

 下に何枚か大正時代の盆踊りの写真を挙げておきます。

 富田町あたりの芸者衆の盆踊り姿です(今と違い打ちものは鼓だった) 現代まで続く女踊りの衣装・被り物の姿のこれが源流だったんですね。鳥追い編み笠を被っていたのは素人衆でなく芸者衆です。


  こちらは男性のおどり、みんなそろいの縞の浴衣だが、みたところなんか今とちがう、そうか!この時代、尻端折りはしていないんだ。ゾロリの裾だ。


 友禅を着た少女、歌舞伎の所作事をするときのような豪華な衣装、お囃子の女性陣は饅頭笠を被って顔がほとんどみえない。

2022年8月14日日曜日

ウチの近くの十王堂(閻魔大王をお祀りしている)

   先のブログでは名東地蔵院の「十三仏堂」の閻魔さんを紹介したが、説明したようにお堂の中は十三の仏さんがズラズラ並んでいる。そのなかに閻魔王もいるが他の仏さんと大きさも顔の形も皆同じ。閻魔さんが特別な存在の仏様ではない。

 閻魔さんに特化して閻魔王だけが祀られている閻魔堂は、いろいろ調べたが県内にはないこともわかった(私が調べきれなかっただけかもしれないのでもしご存じの方は教えてください)、その過程でわかったのは閻魔さんに関するお堂はまず「閻魔堂」(これは徳島にはない)、そして先のブログの「十三仏堂」、それと「十王堂」というお堂もあり、そこにも閻魔さんが祀られていることがわかった。

 十三仏堂と十王堂は本地垂迹説によれば共通の仏さんでそれぞれ(13体と10体だが)対応一致している。ただし十三仏堂は三体だけ十王堂にはない仏さんがいる。その二つの堂の違いは何か?小難しい仏教の理屈より百聞は一見にしかずで二つの堂内の違いを見比べてみるとよくわかる。十三仏堂はそれぞれ仏像の大きさに違いはないが、十王堂では閻魔さまが中心で像が大きく、他の九体は脇持仏の扱いで像も小さい。

 平賀源内作の「根南志具佐」でも閻魔以外の十王(閻魔を除くと九王)が出てくるが、ここでは地獄の主君(支配者)は閻魔王で、他の十王は閻魔庁の審判に当たっては陪審の役、地獄の制度を幕府に例えると(実際に根南志具佐では地獄の階層制を幕府や藩に例えている)。閻魔は将軍、十王は御三家か老中という事になる。

 十三仏堂ではみんな等しい仏だったが、十王堂では閻魔が中心でそのため像も大きく立派で他は脇持仏の扱いとなっている。だから十王堂に対する礼拝はほとんど閻魔王にたいする信仰と変わりがないのではないかと思っている。

 十三仏堂の雰囲気にあまり地獄を思わせるものはないが(そもそもが十三仏はそれぞれの年忌供養に当たる仏なので)、十王堂は閻魔王が中心であり、また他の十王は地獄で亡者の審判の補佐に当たるのが役目である。礼拝で十王堂を訪れ、閻魔王中心の十王たちに向かい合っていると、ここは地獄のお裁きの場か?、という雰囲気が漂っている。いかにもここは地獄の審判庁であるとのイメージが膨らむお堂である。

 その十王堂を検索すると県内で三ヶ所がヒットした。海陽町、貞光町、そしてなんと鴨島町のウチの近くである。ググルのストリートビューを利用して調べるが、お堂が確認できたのは貞光町の端四国八十八ヶ所・九番十王堂だけであった。あと二つの海陽町とわが鴨島の「十王堂」が検索でヒットしたのはそれぞれの町内にある小字(こあざ)名、すなわち「地名」としてであった。

 しかし地名で十王堂という名が残っているということは、今は無くなったかもしれないが過去にはここに宗教施設としての「十王堂」があったことが強く推定される。その名残として小字名に残ったものだろう。(他県ではこのような神仏のいずれとも判然としないお堂は明治の廃仏毀釈の時にぶち壊され消え去ったものが多いから徳島でもそういうことが考えられる

 海陽町十王堂は遠くてちょっといけないが、鴨島町内原(小字)十王堂は幸い我がウチから近い、その地名の場所にいって古老(ワイも十分古老だがこんな地名があったのは知らなんだわ)に聞けば昔、どのあたりのそのお堂が建っていたかわかるかもしれないし、もしかしたら昔あったその信仰の実態も聞けるかもしれないと、暑い中、出向いた。

 下の地図に示してあるのがが鴨島町内原十王堂の地名


 国道192号線沿いに大病院の「鴨島病院」がある(先週、ここでワイはワクチンしたわ)その裏のほうが目当ての「十王堂」の地名場所である、このあたりは農家の多い(兼業も含む)広い田園地帯である。ググルマップで見ても田んぼや畑が広がる。目印になるのものとしては「荒神社」がある。十王堂の地名はそのあたりの南に広がっている。それを目当てにでかけた。はたして古老はいるか、お堂の廃墟跡くらいは見つかるだろうか?

 荒神社である。

 小字(こあざ)十王堂と名付けられた南の方を見る。しかし猛暑日の日中である、情報を聞ける古老どころか、農作業の人も出ていない。(横溝正史描く調査風景だと、この狛犬の台座のあたりに歯の抜けた加藤 嘉さん演じる古老が杖をもって座っていて、私が聞くと祟りを恐れるかのようなおどろおどろしい口調で、なにぃ~、十王堂じゃと・・と話し始めるのだが・・サスペンスのようにはいかん

 一応神社の南を自転車でくるりと回ったが、十王堂らしきものも跡地もなんもない。ぐるっと回ったあと諦めて帰ろうかと思ったが、再び神社に戻ってきたとき、上の最初の写真にある神社の玉垣の端に小さいが瓦葺きの小屋があるのに気づいた。最初は農作業小屋か神社の神輿いれる倉庫かな、と思っていたが、小さいながらも古い木造、かつ瓦葺きで、地蔵堂に似ている。「こりゃ、お堂建築じゃ、近くへ寄って調べてみよう」


 額もなにもかかっていない。しかし鈴と紐が下がっていて、格子戸をとおして拝礼するようになっている。これはお堂に間違いない。もしや今も存在する「十王堂」では?

 期待しながら、拝礼をすませたあと覗くと、お!まちがいない十王堂じゃ、真ん中の大きな像が閻魔大王、そして脇持仏が残りの十王(九王)だ。十王堂という額はかかっていないが白磁の花瓶には十王堂としっかり書かれている。

 十三仏堂よりず~っと閻魔信仰が強い十王堂が我が町にあったんや。暇だけはたっぷりあるこのジジイである、やがてお世話にならなあかん閻魔はんやから、このお堂もジジイの町内巡礼場所に加えとこや。

 さて徳島県内の十王堂にかんする私の貧弱な調査では以上3ヶ所である。そのうち実際に「お堂」があったのは鴨島町内原十王堂と貞光町辻の十王堂の2ヶ所である。海陽町の十王堂はググルのストリトビューでかなり隅々まで調べたがそれらしいお堂は無かった。

 お堂が残っている貞光町辻の十王堂は郷土資料によるとなぜかお祀りしているご本尊は「虚空蔵菩薩」となっている。結局本当の十王堂は、私の撮影した鴨島内原の十王堂の内部の写真を見たらわかるように、閻魔様が中央に鎮座し十王がそろっていたウチの十王堂だけのようである。
 左は貞光町辻の十王堂、しかしご本尊は虚空蔵菩薩となっている。

 ネットで安易に調べるのもはばかられるので、何か郷土のお堂についての資料は無いかと探していると昭和63年版・代表編集者沖田定信(阿波のお堂の習俗研究会編)さんの『阿波のお堂』があった。たくさんの県内のお堂が取り上げられていて、早速当たってみた。しかし上記の貞光の十王堂はあったが、鴨島も含めて他に十王堂として取り上げられたものはなかった。

 ※もし、県内で他に十王堂の情報をお持ちの方は教えていただければ幸いです。

2022年8月13日土曜日

地蔵院の十三仏堂

 

  閻魔様は地獄の入り口の閻魔庁にいて嘘も隠しも出来ない峻厳な検察官兼裁判官で、罪が確定すればさまざまな地獄に放り込まれることを聞けば大変怖い神仏である。しかし前回のブログで紹介した源内さんの戯作の「根南志具佐」の閻魔様をみるとずいぶんと人間的な弱み(恋のため道を踏み外すという)をもった愛すべきキャラである。一方、江戸庶民は基本的にどんな神仏にも手を合わせるほど神仏に対しては敬虔な心を持っている。特に憤怒系の神仏には特別畏怖の念も強い。そうすると庶民はこれだけ源内によってコケにされたら閻魔様は、源内はもとよりそれを読んで笑い飛ばす我々にもなにか祟り返すんじゃないのかとは思わなかったのだろうか。しかし江戸期この戯作はベストセラーとなってしまう。そう考えると閻魔様は愛すべきとは言い過かもしれないが少なくとも親しみはもてそうな神仏として庶民たちにはとらえられていたのではないかと思っている。

 江戸には三大閻魔堂があって閻魔様単体の神仏として尊崇を受けている。江戸期には蔵前の閻魔堂が有名で「根南志具佐」にも出てきている。ここ徳島でも「閻魔堂」があるかどうか、先日からいろいろ(ネットや郷土の寺社関係の本)で探っているが、ヒットしない。どうも我が県には一堂もないようだ。香川には三つの閻魔堂がある。昔の阿波人は江戸っ子ほど閻魔様に親しみを感じていなかったのかもしれない。

 徳島には単体で閻魔様をご神体とする閻魔堂はないが、幾人かの神仏と合同してお祭りしたお堂の中の一体としてなら閻魔様はお祀りされている。それが「十三仏堂」である。このような形での閻魔様のご神像なら県内にいくつかある。参詣者の多いのは薬王寺の十三仏堂であるが、近くでは名東町の地蔵院の十三仏堂がよく知られている。先日・8月1日にその十三仏堂で閻魔様にお参りしてきた。

 地蔵院は水辺(名東池)のそばにある。幽明相分かつ境には三途の川が流れていてその向こうに閻魔庁がある、ここの閻魔様もやはり水辺の向こうにいらっしゃる。(見えるのが地蔵院山門)


 十三仏堂の中には十三体の神仏がいらっしゃる。


 その中の御一体が閻魔王である。


 閻魔様らしく怖いお顔をしていらっしゃる。しかし右に閻魔王とあるが、よく見ると左には地蔵菩薩とある。これはどういうことか。これは閻魔王でもあるが同時に地蔵菩薩でもある事を表している。実は閻魔様ってお地蔵さんでもあるわけだ。しかしお地蔵さんは慈悲に富むお優しいお顔をしていらっしゃるのに、もっとも怖いお顔の神仏である閻魔様と同じとは驚きである。これは仏教にはよくあることで本地垂迹説で説明されるが、ここでは詳しいことはいわない。例として憤怒系の不動明王は慈悲顔の大日如来でもあることをあげておく。

 亡者の悪を裁き、業苦を負わせる地獄のいわば支配者でもある閻魔王と、地獄にでも出向き亡者を救おうとなさる地蔵様が同じであるといわれてもちょっと納得しがたいが中世以来そのように思われ信仰されている。あまりにも恐ろしい閻魔さまなら、まさに「触らぬ神に祟りなし」で閻魔像などを造って尊崇することもはばかれようが、これが実は地蔵様と同じである、といわれれば、そうなのか、閻魔はんは地蔵さんやったんか、それならそう怖くはないな、と閻魔信仰も広がるだろう。

 十三仏信仰は亡き人の追善供養に関係している。初七日からはじまり三十三回忌のそれぞれ十三ある忌日・年忌に対応する仏様である。閻魔王こと地蔵菩薩はその中の御一体である。


 十三仏堂は13体の神仏がまつられていて閻魔さまも他の12の仏さんも皆平等に崇拝されているが、閻魔様が主体になって祀られてお寺あるいはお堂はないのか?もっと探ってみた。そのことについては次のブログで取り上げます。意外な発見があったよ!

2022年8月12日金曜日

本を読む、平賀源内作の「根南志具佐」

 

 またぞろ仏教関係(特に地獄の信仰)の本を読んでいる。お盆だからというのではなく(少しはあるが)一番影響を受けたのが平賀源内作の「根南志具佐」(根無し草)を読んだからである。平賀源内と言えばダヴィンチのような万能の才を発揮した人と歴史でも紹介される。確かに冶金、鉱山技術、医学、科学技術のような理系の活躍ばかりでなく、西洋画、戯作(小説)、博物誌、地誌などの芸術、文系方面でも活躍している。

 「根南志具佐」は戯作のひとつである。これに影響を受けて仏教関係の本を読んでいるといったが、決して抹香臭い宗教の話ではない。江戸における大衆小説類いと言えるかもしれない。ある芝居俳優の水死事件をヒントにした物語仕立てである。しかし筋の展開は現代の小説とは全く違う。話があっちこっちへ飛んで今の小説になじみある人は読みにくい。その上内容はパロディー精神満載、全体に渡ってシャレのめしている(それがわからないと面白みはなくなる)。原文で読むと掛詞や縁語がうるさいが当時の政治批判、世相の様子などが史書ではまず得られないような記述があって江戸の当時の人の生き様を知りたい人にとっては貴重な資料ともなる。

 さて、私のブログを前回と前々回と読むと、その主題は「地獄」「河童」なっている。平賀源内作の「根南志具佐」の主舞台は地獄、そして主要なキャラは「地獄の閻魔大王」と河童である。つまり「根南志具佐」を読んで触発されて二つのブログの主題となった訳である。

 江戸戯作の特色と言うべきか、物語の発端はなんぼう架空の話でもあり得ないような馬鹿な話から始まる。

 江戸に(実在の歌舞伎の女形だが)瀬川菊之丞という絶世の美少年がいる(もちろん当時の女形として贔屓に対し男女に関わらず性的サーヴィスもする)、その色香に迷った坊主が地獄に落とされ、閻魔庁の審判を受けるため閻魔大王の前に引き出される。ご存じのように閻魔様は地獄の閻魔庁に引き出された亡者の罪を見定め、前のブログで紹介したような八大地獄のどの責め苦を負わせるか決める。閻魔様の考えは(まるで人間のような性行をもつが)男女の恋のみ認め、男同士の愛などは自然の摂理に背きもってのほかと考えるいわゆるノンケ(ホモの気がないという意味)、重い罪科が予想される。坊主が引き出されたとき、坊主の腰に何やら大事にくくりつけている風呂敷包みがある、なにかと獄卒がみればこれが坊主が地獄の底までもと、恋い慕う瀬川菊之丞の似せ絵、閻魔は激怒するが、閻魔庁の陪審たち十王や獄卒は興味津々、菊之丞の美形は地獄まで噂が聞こえてきている、見たくてたまらないから、閻魔にそれを見てから罪を定めても、とか理屈をつける。閻魔は見たいなら見てもよいが、ワシは見んぞ、目をつぶっている。みた陪審の十王や獄卒は全員、驚嘆の声を上げる。そのざわめきがあまりに大きかったので、閻魔もこらえきれず、薄目を開けて見てしまう、すると、なんと、一目で菊之丞に恋してしまうのである(似せ絵だが)

 さぁ、それからが大変!閻魔はのぼせ上がり、閻魔庁から、ふらふらと娑婆へ行こうとする、そして「ぜったい、菊之丞さまと一夜の枕をともにするぅ~」なんどと恐ろしい顔からは似合わない殊勝なことを言い出し、閻魔庁の仕事を放り出して出て行こうとする。職務放棄もさることながら、娑婆の人が一目見たら恐怖で気を失いかねないものすごい姿の閻魔が江戸市中に現れては大惨事となる。十王はじめ獄卒は必死で止めるが、聞きそうにない。

 すると大勢の地獄の陪審、獄卒の中から知恵者があらわれ、「ほなら、こうせんでか、閻魔はんが娑婆へ行く代わりに、菊之丞を地獄へ連れてこんでか、ほしたら閻魔はんが行かんですむでぇ」、それで閻魔はようよう納得するが、今度は「はよ、せぇや!すぐにでも枕を並べてウッフンしたい」と矢のような催促で陪審、獄卒どもを急かす。(あの、男好きの坊主はどうなったか?閻魔も菊之丞なら迷うのももっとも、と罪状はうんと軽くなり、地獄所払いの刑、つまりシャバへ送り返すこととなった

 じゃぁ、具体的に誰をやってどのように連れてくるか、次にはその緊急評議となる、これが結構むつかしい!なんせ、地獄と娑婆(この世)との境は「幽明相隔つ」と言われるように厳しき隔たりがある。秋田町からデリヘルのおねぇチャンを自分の家に引っ張ってくるようには行かない。こちら(地獄)に引き込むということは死人となって来ることに他ならない。そこでいそいで地獄からスパイを娑婆へ使わし、死ねそうな機会を探ると、暑中でもあり、菊之丞が大川で船遊びをするという情報が入り、それなら水に引き込み「溺死」でこちらに引っ張り込む、とまでは衆議が一致したが、それを誰にやらせるかで大もめにもめてしまう。荒々しいサメ、鱶、海坊主なんどにやらしては水に引き込みさらうときに美しい顔を傷つけ台無しにしてしまうかもしれない、さて、だれにやらせたら・・・

 で、最終的に選ばれ使命を受けたのが河童、ところが河童がえらばれた時点で、これはもうタダではすまない面白い展開が予想されている、とうぜん平賀源内もそのため河童というキャラを用意したのであろうが。

 前々回の河童のブログを見ればわかるように河童は男の子のお尻(もっと言うと肛門、穴)が大好き、一応の説明は肛門の奥にある一種の肝である尻子玉が大好物ということにはなっているが、源内さんの作った河童キャラはもう一筋に男色大好、これに菊之丞をさらいに行かせるのは、猫に鰹節の、狼に羊の番をさせるようなもの、河童と菊之丞が出会うとどのような化学作用が起きるのか?つけくわえると菊之丞ももちろん男色大好き、この「菊」という文字に「肛門の穴」という暗喩が込められているのは江戸の読者はとっくにご存じ、肛門はよく見ると(そんなんよ~みとうないわ!)菊の花の形をしているので「菊座」ともいうから。

 案の定、二人は(一方は河童だが)大川の船の上でシッポリとぬれてしまう(意味はおわかりですね

 と、ここまでで全体の三分の一くらいかな、私が説明するとなんかこの本、淫乱猥褻な内容と誤解されるかもしれませんが、江戸期の戯作は淫乱猥褻などと言うのはもう通り過ぎていて、パロディー、シャレの域に入っています、性だろうが聖だろうが何んもかんも、味噌も糞も一緒にこき混ぜての馬鹿馬鹿しいお笑いをもたらす読みのもなのです。江戸期の人は今の人よりずっと信心深かく、地獄関連の信仰も盛んでした。たとえば閻魔堂、十三仏、十王への礼拝、また地蔵信仰も地獄があるという前提での信仰でした。このように敬虔な信仰がある一方、それを裏切るように地獄や閻魔大王をダジャレで笑っていたのでした。江戸でこの本は大ベストセラーになることでもそのことがわかります。

 それで結局、閻魔さんは、切なる願いの菊之丞との契りが果たせたか、ここからは私のブログでの拙い説明より、実際に原文(訳文も出ている)に当たって読まれる方がいいと思います。続編ではなんと閻魔さんが地獄から駆け落ちまでしてしまうのですが、あまりにも面白すぎるお笑いの話をちゃんと伝えるとなると、とてもではないが私の文章力などでは及びませんので。

2022年8月11日木曜日

地獄の寺をみる

  八大地獄のリアルな展示が見られる寺がムギ駅から1km弱のところにある。拝観時間は正午から午後3時まで。真夏のもっともキツイ時間帯だががんばってあるく。


 正面入り口、寺の宗旨は大変珍しい華厳宗である。東大寺が本山である。山門を入った後、案内図に従って八大地獄の建物へ行く。





 入場料を払って拝観するが、内部は一切撮影禁止。内部展示の人形は電気仕掛で動いたり、いろいろな照明もなされ、リアル感を増している。これは恐ろしい地獄の展示ではあるが、仏教の教えである因果応報、六道輪廻、そして悪の報いによって地獄に落ちる、といういう仏教的世界観を視覚によって説明する宗教活動の一環だそうである。そのため興味本位で内部の写真や動画が取り上げられることがないように撮影は禁止だそうである。

 下は公的な寺のホームページから引用させていただきました。










 順序が逆になりました。上ほど八大地獄のなかでも亡者の責め苦が重いそうです。

 個人的感想を言わせてもらえれば、寺の意図は置くとして、展示は質の高い、入場料の割には、見応えのあるものでした、寺から不謹慎のそしりを受けるかもしれませんが、お化け屋敷・怪奇屋敷の一種とみれば真夏のスペクタクルとして大いに楽しめ(怖いが)ます。