夏、泳ぎによる溺死がわが県でも毎年一件以上は起こっている。大抵が十代か二十代の若い子で、花も咲き実もなるだろう未来を瞬時に絶たれてしまいあたら命をむだにして、とまことに残念である。また残された親御さんがどれほど悲しむかを思うと、ニュースを聞くたび大変痛ましく感じている。
私の子供時代、祖父母からボニは泳ぐものでないときつく言われていたのを思い出す。そのたびにボニは「地獄の釜の蓋が開くから」ダメと話されていた。意味は全く分からなかったが「地獄」という文字の持つ恐ろしさに子供心に反応し、「ボニは泳いだらあかんのやなぁ」と納得した記憶がある。
いまその意味を調べてみるといくつかの説があるがもっとも納得できるのはボニは地獄の責め苦も中断する。そのわけは地獄の亡者も先祖供養してくれるそれぞれの家へ御霊として帰るから、地獄もカラになるからだと言われている。それが「地獄の釜のあく」との謂いになったのだろう。暇になった地獄の鬼などは休む、また亡者の御霊が出入りするため地獄の門も開いている。暇な鬼どもも、通行自由な地獄の門を通って余暇を過ごすためどこかへ出かけるのだろう、地獄の開門は亡者が人界に行くだけでなく、また人界から地獄の方へやってくるのも比較的自由であることを意味する。
そんなことからボニの日、暗い穴、洞窟、水などにはいったら、地獄お休みの日で冥界と人界のさかいでウロチョロしているかもしれない鬼に底の方に引き込まれ、地獄へ真っ逆さまに落ちていくかもしれない、とは容易に想像されうる。だから盆に水中で泳ぐなどはもってのほかとなる。
しかし人を水に引き込む異形のものとしては実は鬼は一般的でない。もっとも有名なものは「河童」である。先日、下のような挿絵を見た。
少年が河童に水底に引き込まれているように見える。溺れて必死にもがいているというよりは河童に体をとらえられ驚いている表情の方が勝っている。よくこの二匹の河童の動きを見ていると水に引き入れらた少年の両足を河童が開こうとしているようにみてとれる、この動きは何を意味するのか。
それは河童の好物である人の「尻子玉」(しりこだま)を取ろうとしているのである。尻子玉は人の肛門の中にある(一種の重要な人間の肝)とされ、それを抜かれると文字通り「腑抜け」となって死んでしまうと考えられた。そのため両足をとらえ股を開き、肛門が見えるようにして尻子玉を抜こうとしているのである。河童の一人は肛門に手を入れようとして右の手を構えているように見える。
現代では一笑に付されるような河童が原因の溺死であるが、江戸時代にはひろく河童の所業として水死人がでると信じられていた。その根拠としては水死した人は肛門括約筋が開いてまるでなにか尻のあなからラムネの玉を抜かれたようなっている。それが肛門から河童が尻子玉をとったからである、という説明がなされた。
尻の穴をねらわれるのは少年だけではない。下の図は水の中から半分顔を出し、むさくるしげなオヤジのケツの穴をねらう河童である。
次の図は人間ばかりでなく、なんと雷様のケツの穴をねらい、雷の足をとらえ実行に及ぼうとしている。雷の慌てるすがたが面白い。
このように明治の開化以前は、溺死の原因としてお盆で冥界と現世との間で霊魂が行き来することで生者も容易に冥界へ滑り込むこと、またそれとは別に河童が水中で人の尻子玉を取るためと信じられていた。
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