現代においては盆の墓参り、そして仏壇を(生霊棚を作る事は少なくなり、そのような形式で)飾り、檀那寺から僧侶を招き棚経をあげてもらう、という行事と8月12日からの阿波踊りとの関連は見いだされなくなっていて、特に若い人などはそれらは全く別物と思っているようだ。戦後になってこの踊りを観光の目玉として「阿波踊り」で広報されるようになって(最近は阿波ダンスという言葉も聞いた)からますますその精霊をお迎えする盆との関連が途切れてしまった。
しかしモラエスさんが生きていた頃(大正年間、百数年前)は死者の祀りである数日とその後につづく盆踊りは一体のものと認識されていて生者と精霊のための盆踊りという認識を持っていた。
モラエスさんの随想録より(日付は全て旧暦である)
「何日か前に、墓地の墓をきれいに清めます・・7月12日、墓参があって、花を取りかえるなどがおこなわれます。これは死者の霊がとおくから、知られざる無限から夜間にやって来て、家族ものとを訪ねる前に、自分の墓の上を漂うので墓をこのようにして霊を迎えなければならないからです・・13日は、死者の霊は、夜まで家で私たちとなごやかにすごしました。夜になると死者を墓まで送ってゆき、墓地でかがり火をたいて、地上から永遠の平和の家への長い道を照らします。」
墓で送り火をたくなど現代とは少し違うところもあるが12~13日にその行事が集中しているのがわかる。そして続く14、15,16日が盆踊りとなる。
「伝染性のヒステリックな興奮が人々を支配します。みんな盆踊りのことしか口にしません。それしか考えません。誰もが昼も夜も街頭に出ますが、祭りがより活気にあふれるのは主として夜です・・人々が主だった通りを埋めます、時々騒々しい一群の人がどこかしらの路地からあらわれて大声で怒鳴り押し合いへし合いしながら進んでいきます・・中でもひときわ目立つのは「げいしゃ」で伝統的な用途の幅広の帽子(鳥追いの編み笠)に半ば顔を隠した、豪華な絹の上衣姿の実に優美な「げいしゃ」もいます。けれども踊るのは「げいしゃ」だけではありません。町の人口の半分が老いぼれ爺さんも老いぼれ婆さんも、幼い子供もおどり、誰もが打ち興じ、死者を讃えるのです。」
死者を讃えるのです、というモラエスの言葉に、当時の人々はみんな精霊のための盆踊りであるという認識を持っていたのがわかります。
下に何枚か大正時代の盆踊りの写真を挙げておきます。
富田町あたりの芸者衆の盆踊り姿です(今と違い打ちものは鼓だった) 現代まで続く女踊りの衣装・被り物の姿のこれが源流だったんですね。鳥追い編み笠を被っていたのは素人衆でなく芸者衆です。
こちらは男性のおどり、みんなそろいの縞の浴衣だが、みたところなんか今とちがう、そうか!この時代、尻端折りはしていないんだ。ゾロリの裾だ。
友禅を着た少女、歌舞伎の所作事をするときのような豪華な衣装、お囃子の女性陣は饅頭笠を被って顔がほとんどみえない。
2 件のコメント:
昔の阿波踊りと今の阿波踊り随分違いますね。今の阿波踊り商業化してますね。
でも、観光客少ないですが
いまコロナが増えてますが、あれ、阿波踊りのせいじゃないかとのもっぱらの噂ですね、市や県は否定してますが、どうだかね、怪しいもんですね、ところでご家族はコロナ感染予防出来てますか?今、首相が罹るくらいだから予防って言っても難しいね。
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