マドロス映画のヒーローはあこがれだった
マドロスものの歌が流行った時代は、またマドロスものの映画も大流行だった。マドロスものの歌がヒットしたのでその主題で作られた映画もあったが、歌とはまったく関係なく作られたマドロスものの映画もたくさんあった。
下にそれらの中からポスター三枚挙げておきます。映画館でこれを見た年代は私と同年代か上の人たちでしょう。左から主演は赤木圭一郎(昭和35年)、真ん中は石原裕次郎(昭和42年)、小林旭(昭和34年)。映画の全盛時代は昭和32~35年、のべ十億人以上が映画館へ足を運びましたが、マドロスものはその映画全盛時代と重なっています。(任侠ものが流行るのはむしろ衰退期に入ってから)
昭和30年代前半の日本は農村人口がまだまだ多く、また社会にもいまだ封建的な遺風制度が残っていた時代である。しかし戦後改革の自由主義的な雰囲気はそのような社会に対する若者の反発を生む。とはいえ自分自身でアクションを起こす確とした手立や方法があるわけでもない。多くの青年は鬱々とした気持ちをどこかで抱えていた。そういう時代に、何ものにも束縛されぬ自由人で、力強く悪に立ち向かい、なおかつ男性的魅力にあふれ、女性にもてる無国籍アクションのヒーロー映画は若者に受けのである。
ゴジラ映画との対比
ゴジラは昭和29年に作られ大ヒットする。この映画には暗喩があり、それが人々に受けいれられたから大ヒットにつながったのだといわれている。この「暗喩」は以前からたびたび指摘されていた。映画のあらすじは、南海に眠っていたゴジラが原水爆実験によって目覚め、そして北上し日本本土に向かう、そして本土に上陸し、大都市を破壊するというものである。当時(昭和29年)、アメリカが南洋(旧日本領のミクロネシアやマーシャル諸島)で盛んに原水爆実験をしていたという最新の時事問題を映画の発端に取り上げていることもあるが、それよりこのゴジラによる日本の都市の破壊は、封切り当時から遡ることまだ10年にもならない前、南海の基地から飛び立ち日本本土を爆撃した都市を壊滅させたB29の大編隊と重なるものがあった。空襲の生々しい記憶は鮮明に残っていてその映像を見た人は日本の都市を焼け野原にしたB29の大空襲をまず思い浮かべたのである。
そして次の暗喩はなかなかデリケートなもので、これには深読みしすぎだという人もいたが、その暗喩を聞いた人でなるほど、と胸にストンと落ちた人も多かった。それはゴジラが南海から一路、ひたすら本土に向かったのは太平洋戦争のとき南方戦線で無念にも戦死した英霊の象徴であったというものである。英霊が南海から日本本土を目指すのはわかるにしてもそれがなぜ復興した都市を荒廃させるのか、疑問だという人もいたが、英霊が鬼となって帰ってきたとも解釈できる。なおこれもよく言われることだが、東京のよく知られていた主だった建物はゴジラによって破壊されるが、なぜか東京の中心の皇居には向かわない、むしろ避けている。これなども英霊説がでる所以だろうか。
このゴジラ映画の対比でいうなら、このマドロスものもゴジラに対するのと同等くらいの妥当性でもって戦争の暗喩を感じることができる。マドロスものの流行った昭和30年の前半、海外へ派兵され復員した人でもまだ三十代後半かせいぜい四十代前半である。海外からの復員経験をもつ日本男子は当時多かった。南方からの復員はだいぶん前にすでに終わっていたが、北方満州にいた兵隊はロシアに抑留され復員はうんと遅れ、復員が終わったのは昭和30年代になっていた。海外から復員できなかった生死不明、あるいは戦死の公報が届いても、遺骨さえない家族は、夫や息子がまだ生きて南海の島に生きているのではないかと望みをもっている人もいたのである。この帰国を果たせなかった復員兵、そしてあきらめきれずに待つ家族、その恋人がそのマドロスものの暗喩になっていると考えるのはうがちすぎだろうか。
水手(水夫)と港の女の恋
明日は出て行く水夫(マドロス、江戸期は水手・カコと呼ばれる)と港の女との恋愛の愁嘆場は、いかにもマドロスもの映画の最後の見せ場となりそうだが、このような港のはかなく短い恋は、明治以降外国航路が開かれて以降の話かと思うがさにあらず、その伝統は江戸期から続いているのである。
江戸時代も後半以降になると我々が想像している以上に物流が大きく盛んになる。現在の物流は大半がトラックによるものが多いが、この時代、大量の物流を担ったのは廻船であった。標準的な積載量は千石・250トン、それ以上の大きな船も就航していた。大動脈は西回り廻船、そして大坂~江戸を結ぶ廻船、それから東回り廻船、その中でも西回り廻船の物流量は群を抜いていた。特に西回り廻船の中でも買い積みの船(船賃でもうける船でなく、船主の才覚で各港で各種の商品を仕入れ、また寄航港でそれを売りさばき、商売をして利ざやをとる)は「北前船」とも「弁才船」とも呼ばれ、江戸中期以降西回り航路の主流となる。
その北前船の航路は、始点が大坂~瀬戸内海の各港~下関~そして日本海に入り~日本海側の各港~最終地は蝦夷地(北海道)の松前、函館、江差、の港、北海道の海産物は上方では需要も大きく、また高く売れるため、帰りは北海道の産物が船荷の主流となる。大坂を春の彼岸頃出発し、各港に寄港して商売しながら、5,6月に蝦夷地で海産物を仕入れ、帰路につく、そして台風前に瀬戸内海へ入り、晩秋か初冬のころに大坂に帰り着くのが一般的なスケジュールであった。一回の航海で千両は儲かると言われ、新造の千石船をもう一隻作れた。
百姓の次男以下の仕事としては北前船の水夫は実入りのいい仕事であった。しかしいったん船に乗ると半年や一年実家に帰れないのは当たり前、実家に嫁や子がいようがいまいが実質、独身である。ただ、買い積みの船で各港で商売をしながら北上するため、日本海側の港に寄港地は多く、寄港すれば金回りもいい水夫だけに、いわゆる酒や女の楽しみがあり、港にはそのような北前船の水夫目当ての、享楽を提供する店がどの港にもあり、繁盛していた。
江戸後期になると廻船は安全性や安定性は以前と比べるとずいぶん良くなったとはいえ、木造の帆船である、気圧計もない、無線で天気予報が聞けるでなし、海が荒れたときの船の上での作業は命がけである。そのような海での荒々しい男ばかりの仕事を何日も続けたあと、港に入ったときの女や酒に溺れるのは自然な気がする。毎年日本海側を往復していると、各港に馴染みの女が出来る場合もあるだろう。このような水夫と港の女郎は売った買ったの仲だけではない親密な情が生まれても来るだろう。
日本海側にはこのような北前船の寄港地がたくさんあり、現在の大型貨物船などが入港できる港とは地理的位置が違うものが多い。その北前船寄港地には必ずと言っていいほど船宿、女郎屋(この二つを兼ねているのも多い)があり、顧客は北前船の乗り組員である。この時代の船は当然帆船である。低気圧がよく通る日本海を航行するのであるから、対馬暖流を利用しつつ沿岸を進み、小刻みに多くの港に寄港する(もちろん商売もあるが)のは海難を最小化するのにも有効である。さらに安全性を高めるため、各地の寄港地はまた、風待ち、日より待ち、をして風や波が治まるのを待つ港である。日本海が荒れた時は何日も、それこそ10日近くも港で待機する時もある。
若い水夫と女郎とはいえ歳も変わらない元は近くの漁村や農家の娘が、主に経済的理由から家のために女郎奉公に出た女である。長く逗留すれば、職業も忘れ、もうこの人でなければ、と純愛に発展する場合も多かったと思われる。吉原などの都市の遊郭の女郎なら女の手管に男が一方的に熱を上げることもあろうが、ここ北海の小さな港町の女郎たちはそれら都市の遊女と違い、むしろ女性のほうが若い北前船の水手に熱を上げる場合が比率としては多かったと思われる。遊女の深情け、と呼ぶより私は港町の一介の女性の純愛と呼びたい気がする。
風待ちで何日も居続けるカッコイイ、イケメンの水夫に遊女(出航待ちのため何日も滞在するときは同一の女郎が相方となった)が一途な恋情を抱くのは自然である。一緒に好きな男と過ごす日々は天国にいるようだっただろう。しかし、いくら好きでも、相手は船待ちのため滞在する水夫である。別れは間近である、別れはずいぶんと切ないものになる。「きっと、またきてね」とはいっても近所のおっさんではないのである。いつ来るか、わからぬまま、永遠の別れになるかもしれない。二人の愁嘆場が、と思われようが、先にも言ったように、北前船の乗組員のほうがむしろ港の一夜の女、とシビァーに割り切っている場合が多い・・・と言うわけで、港の女の悲恋物語の一丁出来上がりである。
こういうと、男に身を売る女郎に何の純愛か、と笑われるかもしれないが、これは江戸時代の庶民生活史を勉強するとわかることだが、カタギの男女が結びついて夫婦になる場合でも恋愛によるものなどほとんどなかった、親が決めた相手と結婚する場合が多く、恋愛の上結びついた夫婦などはむしろ軽蔑された。第一、おぼこな男女が愛だの恋だの語り、二人の恋愛を作り出すというような習慣はほぼないと言われる。むしろ遊女とそこに通う男との恋情のほうがずっと純粋な恋愛に近い。大概は金のためにいやな男に身を任せるのであるが、中には真剣な恋もあったのである、「遊女のまこと」は存在したのであり、むしろ市井よりこのような場でこそそのような恋愛は花開いたと言っていいのが江戸時代の恋愛事情であった。
幾星霜流れ時代は昭和、港の女心を取り入れたマドロス演歌は、北前船の時代の水手と女郎のはかない恋を歌ったものではないのかとの錯覚さえ感じる。
♪~思い直して別れることが~出来るものなら涙はいらぬ、船のバカバカ、薄情しぶき~
(馬鹿っちょ出船)
♪~別れりゃ三月、待ちわびる~女心のやるせなさ、明日はいらない今夜がほしい~
(港町ブルース)
腰巻き地蔵
これはもう40年ほども前、私が日本全国放浪の旅をしていたとき、ある北前船寄港地で、そのような情を交わした水夫と港の女郎のある歴史的遺物を見た。そのエピソードを紹介しようと思う。
車で日本海側に突き出た能登半島を旅していたときである。あらかじめ見所を考えていたがそれはどの旅行ガイドブックにもあるような名所旧跡であった。その中から私の趣味に合わせていくつか選んだ。一般的な観光地の輪島、歴史好きには外せない時国家(壇ノ浦で破れここへ流された平時忠の旧跡とその子孫の家、そして松本清張の「零の焦点」の舞台となった能登金剛である。
その能登金剛へ向かっていたときである。ガイド付き道路地図を見ているとその能登金剛の少し手前に「福浦」という小さな漁村がある。その地図のガイドキャプションに、ここは江戸時代北前船の寄港地として大変賑わったとある。地図を見ても小さな漁港で集落も小さそうである。しかし地形を見ると小さいながら二つの湾を持っている。現代の大型船は無理だろうが、江戸期の千石船(250トン)だと出船入り船に使い勝手が良く、二つの入り江は風待ちにもいい港であることが推測される。下がその福浦港の地図である。
能登半島の福浦
半島の西岸を北上する本線バイパスから折れ福浦漁港に下りてみた。何の変わりもない小さな漁村である。当時はデジカメもない時代である。漁村をぶらぶら歩いただけだった。写真などに記録してなかったので記憶が確かではないが、江戸期にここは北前船寄港地として栄えたと刻んだ記念碑を見たと思う。また上記鳥瞰の地図に示されている「金比羅神社」(海の神様)にもそのような北前船が行き交った当時の繁盛ぶりを示す表示を見た記憶がある。
後で調べると、今はこのような貧弱な漁村だが北前船の寄港地として栄えたときはここに船宿が20軒も建ち並び、当然遊女屋もあり、遊女が常時70人以上いたそうである。その当時もそのような説明を読んだであろうと思っている。というのも、今でも記憶に鮮明に残っているが、その遊女たちが願をかけた「腰巻き地蔵」が港から外れた郊外にあるということを知り、わざわざその地蔵を見に行ったからである。上図の地図の左下隅に腰巻き地蔵が示されている。
腰巻き地蔵とは変わった名前である。帽子やよだれかけを着けた地蔵はよく見るが、腰巻きをつけたお地蔵様は珍しい。そしてその腰巻きの出所を知ってびっくりした。なんとその腰巻き(赤)は遊女の腰につけた使い古したものだったのである。それを願をかける遊女がお地蔵さんに着けるのである。何でそんなことをしたのか?それは恋しい男(水手)と少しでも長く一緒に居たいがためである。使い古しの女の腰巻き(男のふんどしと同じ)をお地蔵さんに着ければ、お地蔵さんはお怒りになるだろう。そうすると海が荒れるに違いない、海が荒れるとその間は船は出航できず自分のところに恋しい男がとどまってくれる、それを願ったのである。
これは女の一方的な願いに違いない。なぜなら水手たち海の男は、迷信深く、海が荒れるようなことや、船の平穏な航行に支障があるような行為(迷信も含め)を非常に嫌うのである。しかし一途な女はおそらく男には内緒で、夜道をひとり郊外にあるこの地蔵まで願掛けに行き、腰巻きを地蔵に巻いたのである。恋しい男に会うためならば火付けをし、火あぶりの刑になった八百屋お七の例もある、地蔵に不浄の腰巻きを巻いて密かに祈願することなど何でもなかったのである。やはり腰巻き地蔵の例を見ても、女の方の情が深かったのである。
下はググルのストリートビューで見る、今に残る「腰巻き地蔵」
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