「身は鳴門船かや 阿波で漕がるる」
大意 :私の身は潮にながされる鳴門舟のよう、愛しいあなたにも逢(阿波)えないで、焦が(漕が)れていることよ ※逢わと阿波。焦がれると漕がれる、と掛けている掛詞、鳴門と阿波は縁語
(焦がれている)身は男女どちらに置き換えても良いだろうが私のイメージとしては女性しか思い浮かばない。小歌だから男女どちらとも歌うであろうが、男性が口ずさんだ場合は、長らく逢っていないあいつ(相手の女性)は、今頃オレの事を思ってさぞ焦がれているだろうなぁ、とちょっとしたうぬぼれ(もてていると思いたいのは男のサガだ!)それと少しばかりの憐憫がこもっている場合もある、女性が口ずさんだ場合は、文字通り来ぬ男を焦がれているか、軽い気持ちで、あの人しばらく来ないわねぇ、どうしているのかしら、と軽い気持ちのつぶやきのような歌である場合もあるだろう。どちらにしても歌の主体の「身」は女性と言うことになる。
恋の歌の範疇に入る。中世の小歌はどのような節で唄われたのか、伴奏楽器はあったのか、よくわからないところはある。江戸時代の小唄・端唄などは三味線などの伴奏でうたわれ、またその節もわかっている。しかし三味線はまだ中世末には伝わっていない。また節回しなども江戸期の小唄・端唄と似ていると推測はされるが確実ではない。中世に平曲というのがあり琵琶で伴奏されたが、この時代の小歌は旋律楽器の伴奏より、簡単な打楽器類、竹のささら、小鼓、あるいはもっと手軽に閉じた扇を打ち付けてポンポンと拍子を取るだけだった可能性のほうが大きい。
中世の小歌で歌われるくらい鳴門は海運が盛んだった。そこには船乗り、海運業者を相手に商売する遊び女がいた。中世の兵庫の神崎、江口は河口と瀬戸内海海運の結節地点であったがここの遊女は有名であった。鳴門もそれには及ばないにしても遊女は多くいたに違いない。江戸期になると鳴門、岡崎から撫養川筋にかけては海運関係の問屋、蔵、船宿などが建ち並んでいた。具体的に知るには郷土史である「鳴門市史」(上中下巻がある)を見ると当時のそれらの地域の繁栄が記述されている。
ところがお堅い本であるからか(わが県内の市町村史はみんなその傾向がある)、色街、遊女街、なんぞのことは全然記述がない。瀬戸内海運の要衝地、北前船の寄港地で輸出入の量も金額も大きかった撫養の港は多くの船頭、水夫で賑わった。前のブログでも言ったように彼らは一度寄港したら何日も海の上で過ごす、そして海上の仕事は休まる間もなく、また男ばかりの仕事である。そんな舟の男たちが寄港し、骨休めをするとき、その場としての遊女街がここ撫養になかろうはずはないが、なぜか地方史に記述はない。
阿波の女は格別情熱的であると言われている。阿波の遊女だけがおとなしいとは考えられない。寄港した舟の男たちと、さぞや狂乱、狂態をつくし、前のブログで紹介したような「腰巻き地蔵」のような深情けの遊女の伝説でも残っていないかとおもうが、これが今のところ(私がよ~探さなんだだけかもしれないが)見つからない。むしろ他国の伝説として撫養の港の女の恋の痴態の様が残っている。以下は、江戸中期、加賀国の南部(大聖寺・瀬越村)に伝わる阿波女の話である。
まずお話の前に少し前置きの説明をお許しください。他国の人の阿波女に対する評価は結構高い。四国島内でも「讃岐男に阿波女」は良き組み合わせであると言い伝えられてきた。美人であるのか、いや家政の始末がいいのか、いろいろな美点は考えられる。時代はぐっと下がって大正時代に徳島に暮らしたモラエスさんも阿波女を褒めている。美しく、しとやかだが内面には情熱を秘めている、そしてモラエスさんが最も気に入ったのは阿波女の繊細な立ち居振る舞い、これについては世界を見て回ってもまず敵う女性はいないとのことである。ちなみに阿波の男性についてもモラエスはんはいっているが、これが遠慮がない、世界でも下々に入る醜さ、不格好だと言っている(プンプン)。女性と男性の評価が天と地だ。まぁモラエスはんほどではないが(国内の)他国の人の評価もおおむね女>男であるようだ。そんな阿波女が江戸後期、撫養の港で引き起こした大恋愛(?)騒動の顛末
撫養の港に娘がいた(加賀の方の話では娘だが、ワイはちょっと疑問、娘の可能性もあるが遊女の可能性のほうが大きいような気がする) そこへ大坂から撫養を経由して瀬戸内海、下関~日本海側~蝦夷地へ向かう北前船が入った。撫養は単なる潮待ち、風待ちの港ではなく重要な輸出港でもある。阿波特産の(特に撫養産の)製塩、阿波三盆(白砂糖)、藍(青色染料)はずいぶんと儲かる商品であった。そのため滞在が長引くこともあった。その北前船の水手(水夫)に(便宜上ワイが名前をつけた)鱒之介という若者がいた。北国・加賀出身であるためか色白でなかなかの男前であった。そこにおアイという娘(これも便宜上)がいた。現代風の純愛ものなら問屋場の娘(もちろん未通女・処女)と思いたいが、江戸時代、寄港した水手が問屋場の娘どころか町娘にちょっかいを出すのはかなり無理があるので、ワイは遊女ではなかったかと思う。
さてこの女、先のイケメン水夫にぞっこん惚れ込んでしまった。もうこうなると一時でも離れたくない。北斎漫画の絡みつくタコではないが吸い付いて離してくれない。しかし北前船の出航は迫る。男は、本心はどうか知らない、もしかすると一時的にその場を納め、なんとか円満に出航したいと思ったのかもしれない。夫婦約束をして次のようにいった「しんぼうせぇや、蝦夷地に行って秋になると上方へ帰ってくるから、そのときまで待っていれば、一緒につれてかえっちゃる、な、まっててくれよ」
しかし女の体の疼きは頭まで回ったのだろうか、なんと、出航する舟の船底の荷の間にこっそり隠れた。北前船は知らずに出航、やがて洋上にでる、男が船内の仕事で船底に来たとき、「鱒之介さまぁ~」と抱きつく、男はびっくり仰天、「え、え、え、アイちゃん」二の句がつげない。何日かは隠れていた。しかしそれからどうするあてもない。困り果てた男は涙ながらに船長や同僚に訴えた。アイちゃんとは夫婦になる約束ですが、アイちゃんが思いあまってこっそりと舟に忍び込み、隠れてついてきました。この上はどうか夫婦として添い遂げますので加賀の寄港地(鱒之介のふるさと近く)まで同船させてください。
これ、古代や中世の説話なら、女など乗せると海の神様がお怒りじゃ、生け贄として可哀そうじゃが海に沈めよう、となるが、江戸時代ともなるとそんな迷信はない。船長も同僚も仕方あるまいと加賀の寄港地まで二人を乗せ、その後、無事結婚したそうである。この阿波から来た嫁さま、言葉遣いや、料理の味付けが一風変わっていて、地元では「アワさま」とよばれていたそうである。
江戸後期、北前船寄港地であった撫養の港(岡崎から撫養川を遡る)の地図と鳥瞰図
撫養川沿いに船問屋、蔵、船宿などが建ち並んでいて船の荷の出し入れを捌き、また乗組員も上陸し、骨休めをした。
北前船寄港地でもあった撫養にはこのように神社(岡崎・妙見神社)の鳥居に天保時代の蝦夷・松前の商人・藤野喜兵衛の名が刻まれている。蝦夷地との密接な関わり合いがわかる。
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