2025年3月2日日曜日

とってもわかりやすい人やなぁ

 

 外交とはもっと、優雅なものであると思い込んでいたが、しかし考えると、一歩間違えば、つまり、口から発する言葉の一つでも間違えば、戦争にも発展しかねない危うさを含んでいるので、真剣そのものである。優雅さだけで済むはずがない。では、なぜ優雅なものと思い込んでいるのだろう。それは世界史でならったウィーン会議(1814年)の様子やその挿絵などにも影響されている。その上にこの会議を評した「会議は踊る、されど進まず」という言葉に、ワルツにのって踊りながら優雅に外交を進めるイメージを膨らませたのであろう。大昔、白黒の洋画でこの会議を舞台にした映画「会議は踊る」をみていたことも影響している。

 それでも、裏で、あるいは水面下で丁々発止のやり取りを繰り返しても、表面上は穏やかな言葉を使いつつ、そのなかに皮肉や、揶揄、あるいは暗喩など用いながら、婉曲に、しかし確たる外交の意思を伝えるものであろう。一対一のやり取りもあるが、数多くの国の外交官を相手にするときもある、そのような多数の中で粗野で直接的な言い方は、嫌われ、馬鹿にされるのではないか。まるでゲームのような駆け引きを用いる外交には、少なくとも表面上は優雅さが似合う気がする。

 しかしこれも前々世紀(19世紀)のウィーン会議のような、ヨーロッパのみの多国間外交の時代で終わったのだろう。20世紀の(1945年)ヤルタ会議では大国の(米、ソ、英)の直接的で赤裸々な取り決めで第二次世界大戦後の体制の枠組みが決められた。剥き出しの力の外交である。

 それでも新聞、ラヂヲ、テレビなどの発達によって、国民が外交当事者(外交官、大統領、首相)どうしのやり取りが見られるようになった時、少なくとも表面上は穏やな言葉をもちい、礼儀正しい挨拶をし、その意味では優雅さを見せたのである。

 ところが二日前のホワイトハウスでのトランプはんとゼレンスキはん二人の大統領のやり取りをみると、残っていたそんな表面上の優雅さもどこかへ飛んで行ってしまったようだ。でも外交ってすぐには意味が分からない言葉を用いながらやるものと思っていたが、トランプはんの言葉はとってもわかりやすかった。エエか悪いかは別として。

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