仏教はキリスト教と違い洗礼や入信式のような明確な入信儀礼がないのが仏教の諸派の特徴である。我々だって檀那寺はあり、葬式、法事などは仏式で行っているがきちっとした儀式をして入信したという自覚はないであろう、なんとはなしに先祖から同じ宗派に属しているから信徒と言えば否定するものではないという消極的な仏教信徒である。モラエスさんの自身の葬儀に対する態度は普通の日本人のそれに似ている。
モラエスさんについて仏教に帰依していたかどうかはおくとしても仏教について造詣は日本人以上に深かった。彼のかいた日記や随想などを読むと仏教の教えの大きな柱の一つである「無常観」についての彼の考えはおおいに私の心を揺さぶる。勢見山を散歩中ふとみた山懐にいだかれた赤煉瓦の煙突、それは火葬場だがそれを見た時のかれの感想、これについては以前ブログに書いた。残念ながらそのブログ(ヤフーブログ)だったが突然打ち切りになり消え去ることになったが、なんとか本文と動画のみはこちらのブロガーに移し替えた(そのブログがこれ、ここクリック、写真は見られない)
そして彼の長屋の玄関に飾っている額縁のある日本画、それには薄い水彩で草花と蛍が描かれている、モラエスは単純にはそれを見ない、その絵には一見気づかないようだが水面に一匹の蛍が落ちて小さな波紋を立てている。全体的には日本の情緒あふれる美しい日本の草花と虫の絵だがモラエスは見逃しはしない。その一匹の蛍にしてみれば水面に落ちてもがいているのはまさに断末魔の苦しみである。しかしそんな小さな虫の生死など関係ないように絵全体は静寂さに満ちあふれている。水に落ちた蛍の小さな波紋は蛍の小さな死とともにさらに深し静寂の中に溶け込んでいく、何事もなかったように。この非情感!無常観!はどうだ。日本人でも気づかないような仏教的な視点を彼はもっているなと気づく。
最晩年の彼は、付き合いもほとんどなく、困難な歩行もものとせず日課となった潮音寺のオヨネ、コハルの墓参りをする。打ち解けるもののいない異国で孤独で死を迎えつつある彼を思うと心が痛む。独居老人である私も人ごとではなくまさに明日の自分だと感じる。文筆活動もほとんどなくなり時折ポルトガルにいる妹、知人に絵はがきを出すだけとなる。
精神だけで死を迎えられたらどれだけいいだろう。どんなに苦悩しても精神だけですむなら少なくとも醜さはなくなるだろう。しかし精神だけでは死は迎えられない、老衰し朽ち、なかば腐りかけた肉体がそれに伴う。モラエスも肉体は異臭を放ち、思うようにならぬ体では排泄の処理もままならず、自ら、ようようのことで大便はなんとか器に受けて、それを窓からそのまま庭に捨てた。死んだときその大便が窓下にうずたかく堆積していたそうだ。肉体の不如意はますます気持ちをこじらせ偏屈になっていった。コハルの母親に相当な金銭を払って家政婦のような仕事をしてもらっていたが死ぬ数日前彼女にも悪感情を強くもったのか怒りとともに来訪の拒否を伝える。
いったい不自由で自活のできない独居老人がどうするつもりだろう、家政婦代わりのコハルの母も近所の人も思った、しかしその心配はなかった。日を置かず彼はなくなる、発見されたときは変死扱いされてもいいような悲惨な状態だった、7月1日朝、土間で半分逆さまになったような姿で発見される、もちろん警察による検死を行ったがそれによるとキツイ酒を飲んだ後寝椅子に横たわったが夜中、喉の渇きをおぼえて台所の土間に甕の水を飲みに行こうとした(当時水道はない、水は購入して台所の甕に蓄えてある)、しかし不自由な体でなおかつ酔っている、居間からの段差が致命となった、転げ落ち半ば逆さまの形で頭を打ち付けそのままの格好で事切れたのである。
私もモラエスさんの歳に近づいている同じ独居老人である。孤独死は覚悟せにゃならぬとおもいつつ、先にも行ったように人は精神のみの死はむかえられない、肉体的な、そしておそらくは見るも嗅ぐもおぞましい死を迎える可能性がある(夏、死後何週間目で発見ということを想像してみてほしい)。
最近、独居老人で孤独死を迎えた文豪の日記随筆をよく読んでいる。なにか少しでも私の心が軽くなるようなことのヒントがありはすまいかと読んでいる。モラエスさんの随想、そして永井荷風の日記「断腸亭日乗」である。しかし、頭のいい文豪であっても老人の孤独感、偏屈、狭量さ、若いときなら何でもないことの耐えがたさ、怒り、などは私と変わるところがない、これは安心するとこなのか、それともこんな人でもそうなのかと絶望すべきところなのだろうか。ちなみに永井荷風も独居で何かしようとした最中なのだろうか、ズボンが半分脱げ、多量の血を吐いた状態で事切れているのが翌日発見された。
翌日のモラエスさんの葬儀の日は大雨であったそうである。糞尿などによごれ触るのもはばかられるような遺体は近くの勢見山の金比羅さんにいたオヘンド・乞食に金銭を与えて湯灌したそうだ。そして葬列は涙雨の中、二軒屋の涙町をとおり、モラエスさんが生前に見て感想を書き記したあの火葬場で荼毘に付された。
異様な外人の独居老人をみる当時の徳島の人はおおむね冷たかったのではないかと思える、当時としてはやむを得なかったかもしれない。しかし年々彼の評価は上がり、作品も読まれ、モラエスのことを知る人が増えてきている。94回忌どころか100,200回忌でも祈念されつづけるだろう。合掌
モラエスさんの長屋のあったところ、日課となっていた潮音寺に続く道(今はモラエス通りといわれている)
そして日々の墓参りの終着、眉山に向かって入った右奥に潮音寺がある(今は小さなお寺である)
潮音寺の墓地にあるモラエス、オヨネ、コハルの墓
2 件のコメント:
モラエスさんの壮絶な亡くなりかたに驚きました。
というか、最晩年の不自由な暮らしに、生きるのは大変なんだとあらためて思う。
気楽に生きて、ふっとかき消すように死にたいけど、そうもいかんな。
みんな通る道だけど、こればっかりはどうにもならん。
まあ、あんまり深刻にならんように生きていこ。
>>カルロスさんへ
まさにその通り、深刻になる、ことなんてなく生きるのが一番いい。与えられた今の状態でできるだけ楽しく生き
たいですね、もっとも私の場合は独居で性格的になかなか難しいですが、江戸時代の文人なんかの辞世の狂歌、川柳などをみていると「死」なんかもシャレのめしていますね、安楽、気楽に生きたいなぁ。
今日はモラエス忌で潮音寺の彼の墓前は参拝の人で賑わうでしょうね、ちょとそんなのは私としては敬遠したいので一日早いですが上の写真に見るように前もって墓に手を合わせてきました。
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