5月18日のブログ「オロシャ2」では漂流した大黒屋光太夫の漂流聞き書き「北槎聞略」を読み、日本人の見た18世紀末ロシアのようすについて述べた。この光太夫が帰国した(1792年)少しあと文化12年(1811年)、光太夫とは逆に日本に捕らわれたロシア人がいた。
ゴロウニンである。彼は軍艦の艦長で大尉である。国後島で士官二人と水兵四人とともに上陸後日本側の役人(松前奉行所管轄)に捕まってしまう。これだけ見ると、なんと日本側は無体なと思われようがこれには光太夫送還まで遡ったいきさつがある。このブログではゴロウニン捕獲に至る流れを詳しく説明することはできないが、この5年ほど前、ロシアの別の士官が、択捉島や樺太、利尻島を襲撃しアイヌの子供らを拉致したほか略奪や放火などを行ったのである(18世紀末には択捉、樺太南には日本の陣屋、交易会所もあり日本の領土であった)。 この行為は幕府の態度を硬化させることとなった(それまでは薪水のため上陸したときなどは必要な物資を与え、交流交易は不可と言うことを穏便に伝え速やかに帰ってもらっていた)。その結果のゴロウニン捕獲である。だから発端はロシアの蛮行だったわけである。ゴロウニンは国後で捕まった後、北海道松前へ送られる、厳しい監禁もつかの間で、尋問の結果、先の蛮行も国家意思ではないと言うことがわかり、またゴロウニンの人柄もあったのだろう、武家屋敷にすむようになり、二人の監視人付きではあるが、松前の町を結構自由にウロチョロできるようになった(もちろん禁足地や日本人との交流の制限があるが)。ゴロウニンは軍人ではあるが西洋の高い文化と教養を身につけた人で、後には海軍主計総監に任命され海軍中将に就任。ロシア初の蒸気船を含む200以上の船舶を造ったといわれる。彼の教養の高さはその著者「日本捕囚記」を読めばよくわかる。
その「日本捕囚記」であるが、岩波文庫から上下二巻の訳本が出ている。そこでまずこれを借りて読むことにしたが吉野川市、徳島市図書館にはない。県立図書館で探すと「下巻」のみがある。かり出すとなんと、もうボロボロ、下等な紙・酸性紙でできているので劣化が激しい。表紙もすり切れて分解しそうなのであっちこっちセロテープを貼っている。初頁の購入スタンプを見てびっくり、昭和24年6月となっている、このジジイの生まれより古いやないかい!
この上下二巻、上巻はゴロウニンの捕らわれてから釈放までの日記であり、下巻の方は各分野に焦点を当てた日本人論となっている。当然学術的な価値があるのは下巻の方である。実は私は30年ほど前、北海道松前で何日もいたとき(放浪の旅の途中)退屈なので松前郷土資料館や現地の図書館でこのゴロウニンの上巻は読んだことがあるのである。捕囚日記風なのが上巻で、脱走を企てたりしたこともあるので読み物としては上巻が面白い。(そういえば私が松前にいたときゴロウニンが最初に入れられた牢屋跡の場所を見に行ったことを思い出した)今回は(ボロボロだが)学術書風の下巻をロシア人が書いた日本人論として読んだ。
彼は2年と3ヶ月、主に北海道松前に滞在する、最初は文字通り幽囚(捕囚)状態だったが後には身分の上下を問わず、町人も含めて交流できるようになり、また町中をアチラコチラ見物もしている。江戸時代、こんなに長期にわたって日本国内で日本人に接触した外国人はまずいまい(有名な江戸期の外国人による日本社会の見聞録はオランダ商館員による江戸参府記、朝鮮通信使の日記などが主だが、ゴロウニンほど長期に広範囲に接触はない)。今読んでも彼の観察の正確さ、そして分析の的確さは際立っている。ゴロウニンの立場から言えば日本人に対しては恨みこそすれ好意的になることもないし、帰国後書かれたものであるため日本人に阿る必要もない。だが「下巻」はそのような意識、個人的感情を排し極めて客観的に書かれているし、伝聞はちゃんとそう断ってもいるし、不確かな話は疑問符もついている。
読む前はこの「下巻」、日本人にとってかなり耳の痛い「日本人論」じゃなかろうかとおもったが、読んだ後の私の印象は全く別、むしろお尻のへんがむずがゆいくらい日本人の特質(私が読む限りでは)の優れている記述が(ロシアはもちろんヨーロッパに対しても)極めて多いのである.
最初の章「国民性」のところで彼は日本人の欠点をあげている、それも西洋が美徳としてあげているものの中で「一つだけ」の欠点と断っているから、あとはみんないいと思われる、その唯一の欠点は彼が言うには「剛毅、勇気、果断」(また時には男らしさという)だそうである、なんだぁ、一番肝心なものが欠けていて全然だめじゃないか、とガッカリしそうだが彼はそれに対し分析をしている、「これは日本の統治の平和希求的な性質によるものであり、この国民が戦争をしないで享受してきた長い間の太平のためである」、これはゴロウニンの記述ではあるが、私はこの徳目(剛毅、勇気、果断)なるものを当時のロシア・欧州に逆照射して考えてみた。16世紀からロシア、西欧諸国は膨張を始める、ロシアはユーラシア大陸を東に向かって、西洋は大洋進出して海外貿易拠点を確保し、さらには植民地を広げていく、一昔前まではこれを「地理上の発見」とまるで現地に住んでるネイティブの人を無視するようなことを言っていたが、その領地膨張、植民地獲得のための外部への探検心、冒険心、また原住民に対する理不尽な支配を行うための戦闘への闘争心が、まさに「剛毅、勇気、果断」の別のいいではないのかと思うのである。そうであるならば「剛毅、勇気、果断」があるなどというのははたして褒め言葉なのだろうかと思ってしまう。植民地獲得に狂奔し、原住民をよくて支配、悪くすれば奴隷、抹殺した西洋・ロシアのこの「剛毅、勇気、果断」はよい方にとらえない方がいい。ゴロウニンは「日本は永続的な平和が続いたため」とある意味暗示的な言い当て方をしているが、なるほどこれは「探検心、冒険心、闘争心」などの戦闘的な積極性がない、というように読み替えるべきである。(皮肉なことにペリーによって目覚めさせられた日本は19世紀中頃から急激に外部に戦闘的な積極性を発揮し、ロシアのように植民地帝国にまでなるが、戦争続きで結果はあまりよくなかったのはご存じの通りですね)
そのほかの国民性の点について彼はサラッと書いているが見逃せないところがある。「技能の習熟度、到達度はほとんどヨーロッパ人に劣らない、あらゆる家庭用品の製造も巧妙である、そのため庶民にはこれ以上開化の必要は少しもない」と断言した後の次の言葉である。「なるほど我が国では科学・芸術はこれ以上進んでいて優秀な科学者・芸術家はいる、しかしそんな人一人に対し三つの数も読みこなせないような人間が千人もいるのだ。だから国民全体をとるならば、日本人はヨーロッパの下層階級よりも物事に対し優れた理解を持っているのである」、このゴローニンの観察はこの幽囚記の至る所に出てくる、まず、初期に厳しく閉じ込められた場所(獄舎に近いものだろう)の番卒が字が読めて本などを読んでいるのに驚いている。またその同僚が丸い茶碗を示し、ゴロウニンに「地球は丸いもので、ヨーロッパは日本に対してこんな関係のところにあるのを知っていなさるか」と尋ね、その番卒がヨーロッパと日本との実際の位置に相当近いところを指で指し示したのである。これらの人々の教養は町中に住むごく普通の庶民と同じ教養程度と見てよいだろう。その庶民にして文字の読み書きができ、世界地理に関する(庶民が生きる上で全く必要のない)知識まで持っているのである。私は日本史を勉強した結果、近代(17~19世紀)において欧州諸国の国民以上に日本人の識字率の高かったのは知っていたが、いわゆる鎖国下にあるといわれる日本の庶民が世界地理のこのような教養まで持っていたとは知らなかった。しかしよく考えるとこれも頷けることである。町中の庶民は貸本屋などを通じ、絵草紙、読み本など娯楽本を読んでいた。当然、庶民の好奇心を満足させるような海外知識もその中に織り込まれている、興味本位とはいえ当時の西洋科学のエレキ、磁気、なども庶民はそんな娯楽本を通じて知っていたのである。世界地理の知識なども庶民の興味を引くものであるから当然そのような記述の絵草紙、読み本はあったと思われる。結局、庶民が本が読めるということは西洋のどのような知識でも知ることができると言うことである(西洋の科学、地理、医学などの本は長崎を通じ日本に入ってきて早くから蘭学という分野が生まれていたのはよく知られたことである)
次に私が注目したのは「法律・習慣」の章である。ゴロウニンは日本人は礼儀正しく熱烈な議論は好まないが、このような日本人との議論があったと例を挙げているが、その例に私はいたく感動したのでそれを紹介する。(相手はおそらく役人であろう)
ゴロウニンは日本のいわゆる鎖国政策をあげ、それを止め相互に通行通商する利益をとく。
「わがロシアでは外国で行われた発明発見を利用し、外国でもこちらの発明発見を利用しているのです。また我がロシアの産物は外国に出し、外国からもこちらの必要とする産物を買っているのです。そのため皆は仕事に励み、営業は盛大になってヨーロッパ人は多大の満足と快適を味わっているのです。ところがもしもヨーロッパ各国の王様たちが日本政府の真似をして、外国との交際を一切断絶していたら、こんな満足をヨーロッパ人も知ることはできなかったでしょう」
そのように説明し、鎖国政策を非難しヨーロッパの制度を褒めたのである。さて相手の日本人はどうしたか?じっとその話に聞き入り、ヨーロッパ各国政府の頭の良さを褒めた。ゴロウニンは、私の強力な論拠に説得されて一から十まで我々に同意したかに見えた、と書く。
ここまで読んで世界史の今日にまで至る経緯を知っている私としては、「よくゆうよ!」といささか反発を覚える。各国の通商、交流はお互いに利益をもたらす「万国公法」のように説明されている。確かにゴロウニンの理屈はヨーロッパ各国の理屈である。お互いに利益云々はもっともと思われるが、それは各国対等で武力や経済力で相手を一方的に圧伏しない場合に正しいかもしれないが、19世紀ヨーロッパやロシア、アメリカがアジア諸国に対してとった態度は優越した武力、経済力による圧伏であり、それは侵略となり最後は植民地となるのである。衣の下に鎧をちらつかせながらのお為ごかしのように私には聞こえる。
それに対し日本人は論破されたままだったか?これからの議論が私をうならせるところである。日本人はいう
「ヨーロッパでは戦争のないのは五年と続かず(事実である)また二ヶ国が争いを起こすと他国もたくさんその争いに割り込んできて、ヨーロッパ全体の戦争になるようですが(これも事実、当時ナポレオン戦争はロシアを含む全欧州の争いになっていた、日本の役人はそのような知識を長崎を通じとっくに知っていた)一体その原因は何です?」
ゴロウニン
「それはね、隣り合って生活し、絶えず交渉を持っているために、不和のきっかけができるのです。そうした不和は必ず円満にまとまるとは決まっていないのです。ことに個人的な利害と名誉心が混じってくるとなおさら友好的には解決できません。さてある国が他国と戦争して大いに優勢となり、強大になって来るとします。すると別の国々までその国が自国のために危険な国となることを許さずに弱い国の肩をもって強い国と戦うのです。強い国の方でももちろん同盟国を求めるのです。こうして戦争はほとんど全般的なものとなって行くのです。」
日本人たちはこの話を聞いてヨーロッパ各国の賢明さを賞賛し、それから「西洋には強国がいくつありますか?」と尋ねた、そこでヨーロッパ列強の名をあげてその数を教えてやると日本人はこう尋ねた。
「仮に日本とシナ(中国)が西洋諸国と国交をひらき交際するようになり、さらに西洋の制度をまねるようになったら、人間同士の戦争は一層頻繁に起こり、人間の血は一段とたくさん流されるようになるのではありますまいか」
ゴロウニンが「そうです。それはそうなるかもしれません」と答えると
「もしそうだとすれば、さっきいろいろとヨーロッパと交際したがよいとご説明いただきましたが、やっぱり日本としては西洋と交際するよりも、古来の立場を守った方が、各国国民の不幸を少なくする意味で却ってよいのではありますまいか」
こう答えられ、ゴロウニンは正直言うところを知らず仕方ないので「もっと日本語が上手になったらこの問題について僕の意見の正しいことを証明できるのですが」といったが、完全に日本人の論破に舌を巻いたことが書き記されている。
これを読んで私は、胸のすくような思いをした。しかしこのような考えは益々強大化して東洋に押し寄せてくる西洋諸国に対しては残念ながら妥当なことではなかった。ほぼ唯一と言っていい、植民地にも半植民地にもならない方法を模索した日本としては、西洋の考え方に身を置き、軋轢を覚悟しつつ西洋諸国と同じように生きるしかなく、富国強兵を目指し、海外には戦闘的な積極性ででていき、やがて20世紀を迎える頃には西洋列強と肩を並べる強国にまでになる。しかし松前の小役人が懸念したように江戸二百数十年の泰平は終わり、戦争が続く時代になるのである。
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