2022年6月29日水曜日

G7対オロシャ&チャイナ


 G7サミットが昨日閉幕した。数年前までG7なんどは古い先進国クラブの遺物、これからは新興国などが加わった新しいサミットの枠組みであるG20やBRICS(ブラジル・ロシア・インド・チャイナ・南アフリカ)などが重要になる。といわれていたが、数年前からのチャイナ発のコロナウィルスのパンデミックへの対処、そして今年に入ってのロシアのウクライナ侵攻などで、少なくとも民主主義を標榜するものにとって、このような世界的な大問題を話し合い対処する場としてのG7の役割はまだまだ期待できるものとなっている。

 それにしても「G7対オロシャ&チャイナ」の対立は次第に明確になって行きつつあるようにみえる。60年前に東西冷戦の最大の危機、キューバ問題があり三度目の世界大戦かとみんな震えた。国家群がこのように二つに割れて対立して第一次、第二次世界大戦が起こったのはご承知の通り、対立しないのが望ましいが世界を見るとお山の大将の主権国家ばかりが目立ちどうしても対立はある、しかしそこは対立が熱い戦争にならぬよう調整努力せにゃならぬ。

 G7の構成国である我々からみると、自由な選挙があり民意が反映する議会を持ち、政府の構成もそれによって決まる、そして基本的な人権、言論表現の自由をもつのは当たり前であるとおもわれるが、それをないがしろにしたり、全く無視したりする国が大国として存在し、大きな影響(悪影響)を世界に及ぼしているのも事実である。大国も大国、それが核兵器をもっていて国連で拒否権を持つのである、言わずとしれたロシア、中国である。

 なんで自由・民主・人権のような基本的なものをこの二国は国民に認められないのだろう?一党独裁、支配特権の維持、広大な国を無理に一つにまとめるため、などがその理由じゃないかと言われている。G7諸国もそれらのことはわかっているつもりである。ただ漸進的によりよい方向に進めば、と期待されていた。その実、G7諸国でも日本、ドイツ、イタリアなどは第二次世界大戦で敗退するまでは結構強権的に振る舞っていたが現在は自由・民主・人権が尊重される国になっている。ロシア、中国もやがて改善してくれればと気長に待つつもりでいた。2000年代初めはロシアもG7に加わり一時は「G8」の一国であった。ところが逆に進み出した。クリミア、コーカサス、シリアへ侵攻はするわ、国内ではプーチンはますます強権的になってきている。中国も辛抱強く待っていたら改革開放の80年代、自由、人権、民主が根付き強まるかと思やぁ、天安門以降は見ての通り、習近平はんが現れて自由、人権、民主はますます弱まり、国家の強権的支配が強まっているように思われる。

 少しづつ漸進的に改善するだろう、ちゅう期待は当分この二国に関しては持てそうにない。

 ロシア、中国はなにかもう歴史をつらぬいて、そのように強権的になる文化、風土、国民の精神というもの、「国柄」「国体」と呼べるかもしれないが、そんなものが数百年来流れ続けているのだろうか。

 ここでG7、ロシア、中国の歴史的な政治風土を見てみることにする。あんまし遡りすぎてもなんやから、そうやなぁ、あ、この間、ブログで日本とロシアの出会いを書いた、大黒屋光太夫はんや、その人が日本に帰ってきた時は西暦1792(寛政4年)だが、その時点のG7、ロシア、中国を見てみよう。

 まずG7(アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、日本)を見る(カナダはアメリカと同じと見なしてよい)の1792

 アメリカ、フランスは独立戦争、革命後の「共和政体」である。憲法もあり、形の上(憲法上)ではほぼ理想的な民主・自由・人権が書かれていた。

 イギリス、国王が統治はしているが議会(下院)が強く、制限選挙ではあるがブルジョアが力を持ち、政体は責任内閣制、裁判制度、地方自治もしっかりと制度化されており、18世紀末の世界においてはかなり自由で民主的な国であった。

 さて問題はドイツ、イタリア、日本である。この三国は共通するところがある、それは1860~70年にかけていずれも国家統一がなり、その後憲法が制定され国がスタートしたと言うことである。そういうと、この三国ずいぶん自由、民主が後れたんやぁなぁと思われるかもしれないが、それにはかなり疑問符をつけて、まずその三国の1792年を見てみよう。

 これまた三国には共通するところがある。それは全く中央集権的な政体ではないと言うことである。悪く言うと「封建的」、よく言えば「地方分権的」、つまりドイツ、イタリア、日本は細切れの「小国」の集合体である。日本はその「小国」を「藩」とよぶが幕府が「藩」の内政に口を挟むことは原則としてなく、内政は藩の自由裁量である。ドイツ、イタリアの小国家群(都市も含む)も同じようなものである。それが概念の上で「ドイツ国」「イタリア国」「日本」と大まかにくくられ一つの国として認識されていた。どこにも中央集権的で強権的な政府はなかった。おまけにその上にドイツの場合神聖ローマ皇帝、イタリアの場合ローマ法王、日本の場合は天皇が小国連合体である国の上位に無力ながら位置していたので、ますます集中的で一元的な統治などからはほど遠かった。これらの国では独裁や強権は嫌われ、多数の集合体の合議、一致が重んじられた。これらは後のことを思えば、自由、民主が育つ栄養度の高い土壌になるものではなかろうか。

 1792年のロシア、中国

 ロシアはエカテリーナ女帝の治世、表面上は啓蒙君主ではあるがその実、専制君主、ロシア正教会の首長でもあるツァーリは神聖なものとされ、皇帝一人が強権的に統治し、中央の力は強く、皇帝の命令は絶対であった。本来はオスマントルコ帝国領土であるクリミアを戦争を仕掛けぶんどったのもこの女帝であった。農奴制があったため、ドイツやイタリアに比べても自由、民主の広まりは遅く、憲政、議会ができるのも20世紀に入ってである。

 中国は中華皇帝のもっとも華やかなりし時代、乾隆帝の御代、皇帝の権力は強く、地方長官もすべて皇帝からの任命を受ける、絵に描いたような一君独裁、専制政治、憲法ができるのは20世紀になってから、その後皇帝が倒れ共和国と称するものができても選挙をとおした議会が今日に至るまでないのはご承知の通り。

 ドイツ、イタリア、日本はアメリカ、イギリス、フランスと比べると民主・自由・人権の実質的な施行・施策は少々おくれた。しかし世界には多くの国がある中でこれらの国が続けたのは歴史的な国柄というのが大きく影響しているのではないかと私は思っている。小国分立の地方分権だが大枠ではまとまっている。そして世俗権力の上にさらに上位の権威、ドイツの場合神聖ローマ皇帝、イタリアは法王、日本は天皇があるのも偶然の一致ではないだろう。権威も権力も一身に集中した独裁者は生まれにくい。

 そう言うと、いや日本は征夷大将軍の専制だったという人がいるが、テレビの水戸黄門などの時代劇じゃあるまいしそんなことはない。1792年は寛政年間、老中筆頭は有名な松平定信、将軍は家斉、その家斉が恣意的に政治を行うことなどない。老中らが構成する閣老会議を定信が主催して重大な決定をしていた。将軍はそれを認め公布する、この幕府の制度、ほとんど村の寄り合い制度のようなもの(実際幕府の制度は「庄屋仕立て」といわれる)、衆で議し、村の年寄りたちが主宰して決める、専制、独裁など生まれようがなかった。この年寄りたちが幕府では老中と呼ばれ、藩では家老とか中老とか呼ばれる。

 ドイツ、イタリア、日本はいずれも多くの封建諸侯が分立し、権威も幾つかある分権的な時代を経てきている、これらの国々がアメリカ、イギリス、フランスについで民主・自由・人権が根付いてきたというのはそのことが大きいのではないかと思っている。

 かたやロシア、中国は数百年来の皇帝専制の国柄である、伝統といってもいいそれをスパッと切ってG7諸国のようになるのは難しいのだろうな。

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