2021年12月31日金曜日

大みそか

  年の暮れの風俗もずいぶん変わった。昔はこうだった!といくぶん昔のほうがよかったようなニュァンをこめて年寄りが話すのは、5000年も前のエジプト時代から年寄りの繰り言として変わっていない。しかしつい100年前ほど前までは一世代か二世代の間に風俗(文化、風習、そして文明の利器も含め)はそう大きく変わるものではなかった。ところがこの百年の変化は、革命的といえるほどの大変革である。通信コミュニュケーションの一つだけ取り上げても、小学生のワイんくには黒電話さえなかった。それが今やスマホの時代である。じつのところワイはまだ一世代前のガラケーなのでスマホのすごさはわからないし、いまさらそれを学習しようという気もないが、ともかくこのスマホへの転換はわずか十年余りで起こったのである。

 もう70を過ぎたジジイとしてこの恐るべき風俗(文化、風習、文明の利器)の変化には目を回さんばかりである。もうこの世からおさらばする時が迫る中で、未来を予測しても仕方ないが、歴史好きのワイとしては、未来はどうなるだろうかと、思考の中だけでも未来を思い描いてみたい気もする。しかしだ!歴史は繰り返すとはいうけれど、近年の変化は歴史上いまだかってなかったことが多い。

 朝、十時前の汽車に乗ったら、半分くらいの乗客は東南アジアとみられる若者で占められている。中国語とは違う、抑揚(ある種の声調か)でにぎやかに話をしている。このまま東南アジアや南アジアの若者が増え続ければ早晩、日本は欧州諸国のように移民社会になっていく、このようなことは、日本列島に人が住み着き始めた原始の時代は除いて、歴史上なかったことだ。歴史上初めての多民族共生社会がやがて来ることは予感できるが、それがどのようなインパクトを日本社会にもたらすかもうジジイとしては予測もつかない。

 そして先ほど東新町のアーケードを歩いた。閑散として人はまばら、半世紀前、年の暮れのこのアーケード街は人があふれ、活気に満ちた町であった。映画館が何軒もあり、映画好きだったワイはお正月封切り映画を何本かここで見たものだ。今は映画館どころか、繁盛している店、食堂さえない。これにひきかえ郊外の大型スーパー、ショッピングモールは大盛況である。人の賑わいの中心は大きく移動した。それじゃぁ、今後、近未来はどうなるか?これも近年の(21世紀に入った)変化の大きさを見れば、もう予想もつかない。

 ワイはもう70年近く生きた。日本経済が10%を超える成長の時代、貧しい我が家もおこぼれに浴したし、就職してからもたいして働いてない仕事にもかかわらずそれなりの給料ももらえた。戦争も壊滅的な大災害もなく、なんとかいままで生きて来られたし、現在のところカツカツの年金ではあるけれどもなんとか生きていけている。でも今の若者の未来はどうだろう、バラ色の未来であってほしいとは願うが、先も言ったようにもうワイの頭では予測もつかない。だがここ数年の地球規模的な事件、「新型ウィルスによるパンデミック」「超大国米中の高まる対立」などは、風俗の変化と違い、歴史上何度か繰り返した。どちらも数千万規模の死者を出した。これを考えると若者の未来をバラ色に予測するのはむつかしくなる。

 文明の利器については何度も繰り返すがもう歴史に例のないくらいの新しいものが次々現れた、これは予測もむつかしい。果たして、今、利器と見えるものがさらなる進化を遂げて、それがいつの間にやら利器が凶器となるのではないか、前例のない物質的進歩であるゆえに、そのような危惧も持っている。

 列車の中では半数の東南アジア系の外国人は、仲間と一緒に座り、にぎやかに話をしている、一方、その他の日本人の若者はまるで申し合わせたように、一人うつむき加減にスマホをいじっている。いったい日本の若者はどうなるのだろうと、心配するのは私だけの杞憂だろうか。

 東新町がこんなに閑散としている中、列車から降りた若者(東南アジアも含め)はいったいどこへ行くのだろうか。

2021年12月27日月曜日

最近見てなかったロバ男のようす

  前回のブログは植物だったが今回は動物のロバを紹介します。しばらく見ていなかったロバ男をクリスマスイブの24日に見に行った。初めて見たときはまだ3歳くらいで人間でいうと少年くらいだったがいまはもう満11歳を過ぎるおっさんロバである。生まれてかなり年月が経ち毛並みの様子などからみるともうジイサンロバじゃないかと思っていたが、ネットで調べるとロバの寿命は(一般的だが)25~30年もある。調べるまでは犬と同じで10~13年(平均)寿命かなと思っていたがなんと二倍以上長生きするのだから、ジイサンではなくおっさんが正しい。


 ロバってちょっと物悲しい動物である。西欧中東社会では労役動物として何千年も用いられてきたが、ひたすら重い荷役を負わされ、鞭でひっぱたかれ、死ぬまでこき使われるイメージがある(実際その通りだが)、日本ではロバは珍しいこともあって「ウサギ馬」などとしてかわいい動物のイメージがある。動物園で見ることがほとんどである。まず荷役などには日本では使われず、私の幼児期にロバのパン屋の馬車でお目にかかったくらいだ。

 英語ではロバをdonkeyというが別名assともいい、こちらのほうは「バカ、間抜け」の意味がある。ロバに失礼だが西洋中東では重い荷役を負って同じ労働を死ぬまで繰り返す動物として馬鹿にされているようだ、さらには頑固で融通が利かない性格もそれに預かっている。馬は貴族や騎士に大切にされ、牛などは神の使いなどにされているのとは大違いである。

 このロバを飼っているところはハム・ソーセージ屋である。と言ってもロバを肉をとるために飼っているのではない。ここは野外に広い草場を持ち、バーベキュー広場なども所有しているため、お客様が見て楽しめる愛玩動物として飼っているのである。

 いつも私がロバ男の前に立つとペカタペカタと私にゆっくり近づいてきて鼻を持ち上げ、私に擦り付けるまでに近接する。なでてやると別に喜びもしないが嫌がりもしない。しばらくするとまたゆっくりと私から離れていく。なんかちょっとしたかわいらしさがある。しばらく見ないうちに歳を取ったのか動作がさらに緩慢になっている気がする。少し離れると、急にどさりと寝転がった。こんな動作も今まで見なかった、歳ぃいって体が弱ったのか、それとも退屈で仕方がないから、このような寝そべりを覚えたのだろうか。


 ここにはヤギも飼われているが、こいつは全く可愛げがない。私が近づいて前に立つとタッタッタと駆け足でやってきて頭を下げ角を突き出し私にぶつけてくる。

 この日はクリスマスイブであった。そういえばその関連で「キリストとロバ」を思い出した。ロバは主に荷役に使われるが乗馬にも使われることがある。馬ほど乗りごこちはよくなく、人を乗せるにはかなり厄介な性格、でまた速度も遅いが、中東では乗用に供されることもある。下がロバに乗るキリストの絵画(ジョット作)である。「キリストのエルサレム入城」として有名である。

2021年12月25日土曜日

徳島城公園の木の葉

  風がなくて晴れた冬の日は、寒いとは言いながら散歩には気持ちの良いものである。一昨日は徳島城公園を歩いた。紅葉・黄葉も終わっていて桜をはじめとしてすっかり葉を落とした冬木立がめだつが、暖国四国では常緑樹も多く、その緑の中に寒椿や山茶花の赤が目立っている。また冬はなぜか赤い実をつけた木々が目立つ、雪に南天の赤い実、などは俳句、詩歌の良い素材である。この初冬の徳島城公園にも赤い実をつけた木々が幾本かある。

 大手門を入ってすぐ目につくのが下の常緑で赤い実をたくさんつけた木である。


 ブドウの房を立てたように赤い実がたくさん重なり合って実をつけている。この辺りには数本の(今の時期)赤い実をつける木がある。そのような木で一般的なのは、クロガネモチ(モチノキ科)である。しかし周りにある赤い実の木とはこの木は似ているが大きな違いがある。それは葉っぱが広くて大きいのである。クロガネモチの木の葉は小さく椿の葉より小ぶりである。


 何の木かしらん?と木の周りをくるりと一周するように見ると、反対側に木の名前と解説のプレートが幹にぶら下げられている。


 タラヨウ(多羅葉)という名である。そしてその名と説明が私の頭を刺激した。それはプレートの説明にある「葉に文字が書ける」ということである。紙は紀元ごろの中国の漢の時代に発明されたとされる、じゃぁそれまで文字は紙には書かれていなかったのかというとそんなことはない。紙様(紙ではないが似たもの)のものは中国で紙が発明されるずっと以前から各古代文化圏にはあった。エジプトでは葦の一種であるパピルス紙があり、古代インドにはヤシの一種である葉を加工して作った紙様のものがあった。それを「貝葉」と称した。初期仏教のインドの仏典はこのヤシの葉のを加工した「貝葉」に書かれていたのである。詳しくいうと(下はネットからの引用

「貝葉とは、貝多羅葉の略で貝多羅ともいう。 貝葉は多羅樹(掌状葉のヤシの一種)の葉でこれに書写した記録や経典をも意味する。 古代インドや東南アジア諸国では、紙のなかった頃からこの仲間のヤシの葉に経典などを鉄筆で刻んだ後墨をつけて拭き取る手法で書写していた。」

 この中にでてくる「多羅樹」から、この公園内の木のタラヨウ(多羅葉)は同じものか?と思うかもしれないが、こちらはモチノキ科の木であり、またヤシの葉ほどは広く大きくはない、ただ葉に貝葉紙にように文字が書けるところから、その意味だけの類推からタラヨウ(多羅葉)と名付けられたのだろうとの推測はつく。

 葉を傷つけるとそこがすぐに黒くなりまるでインクで書いたように文字が記される、とあるから、試しに木の根方にあった割ときれいな落葉一枚に、尖ったやはり落ち枝で「モジ」と葉の裏面を傷つけるように書いた。傷つけたときは変色しないが、しかし一分もしないうちに黒変しちゃんと「モジ」という字が黒々と刻印された。



 インドの初期仏典はヤシの葉から加工した貝葉というものに書かれ、膨大な量が蓄積されたが、この貝葉は紙と違い虫害や湿気、風化に弱い、本場インドにおいてもまた同時期中国に伝来した仏典の貝葉はほとんど消滅してしまってない。紙ならば正倉院御物の紙製品などは1500年の時を経ても保存されるが貝葉はそこまで長持ちしない。

 ところがこの仏典の貝葉は極東のこの日本に珍しく残っているのである、保存状態が千年数百年以上良好だったのであろう。それは法隆寺にある貝葉仏典「般若心経」である。文字はもちろん古代インドの文字のサンスクリット語である。ほとんど滅びてしまった初期仏典の貝葉にかかれたお経が日本にあるのである。下がその法隆寺・貝葉般若心経である。


 徳島城公園のこのタラヨウの木はインドの貝葉紙をつくる木(ヤシの一種で多羅樹という)そのものではないが、タラヨウ(多羅葉)と名がついたのは(この木の葉にも文字が書けるという)それに由来することは間違いないだろう。赤い実をつけた木をふと見てその名が多羅葉(タラヨウ)、そして葉の裏に文字が書けるということから、初期仏典の筆記媒体の「貝多羅葉」との関連に気づいたのである。

2021年12月23日木曜日

昨日は冬至

  この辺りは北緯34度くらいの緯度である。たしか赤道は冬至だろうが夏至だろうが昼の長さは変わらないようにきいた。低緯度ほど冬至の昼の短さは影響を受けにくい。しかしこのあたりでも12月に入っては午後4時ともなると太陽はほぼ西の山でに隠れて見えなくなるし、正午ごろの影は長く伸びている。日の光も弱くなっているなと感じる。昨日はうす曇りで日もあまり射さなかったから、この徳島でも冬至らしく一日中黄昏のような雰囲気だった。

 昨日は銭湯、浴場はゆず湯にしているところが多い。夜、蔵本の銭湯にゆず湯目当てに行く。脱衣場から浴場に入ると、かすかにゆずの香りがする。テレビなどで大浴場のゆず湯を見ると、橙色のゆずがプカリプカリとたくさん浮かんでいる映像を見るが、この銭湯の湯船をみたところ浮かんでいるユズはない。湯船につかってみると下のほうに大きな網袋に入ったゆずが沈んでいる。銭湯の主人に聞くと、銭湯の湯船はお湯の循環装置があるので、個々のユズが浮かんでいると、どうしてもお客さんがそのユズを触ったりするからつぶれる。結果、果肉が湯に漏れ出たり特に種などが湯に出ると、循環装置が詰まるそうである。だからこのように目の細かい網袋にたくさんのユズを入れているのだそうだ。でもユズの香、で十分ユズ湯を堪能できた。

 銭湯で時々話をするSさんにもあったので、前のブログに出てきた「快神社」について聞いた。彼の家の近所らしく神社の存在はよく知っていたが、なんのご利益があるか、どのような性格の神社かはしらないといってた。ただ近くの家を氏子と思っているのか、Sさんの家に先代の宮司さんの時は初穂料というかお日待ち料を集めに来たことがあると言っていた。最近はそれもなくなったそうである。むしろ御祭神が猿田彦さんであることなどはワイのほうがよく知っていた。前のブログで推測したように男女和合の神ちゃぁうで?ときいたがそれもよくしらないようだったが、先代の宮司さんはいろいろな神事というか宗教活動をやっているひとだった、と言っていた。

 もしかするとこの神社、わりと近年(といっても明治大正昭和前期)にできたんじゃないだろうか。穴吹にラッキー宮殿(幸運神社とも一般には言っている)というのがある。近年できたものである。なぜラッキー~幸運神社かというと、穴吹の郵便番号が777だからだそうである。ダジャレのようだが、何事も信じることから神は始まる。快神社の「快」もわりと新しく考えられたある信心の「概念」のような気がする。

2021年12月21日火曜日

お散歩

  今日はわりと暖かかったので、午前中から昼にかけて園瀬川堤防を歩き、その後、文化の森駅から佐古駅まで汽車で移動し、今度は佐古山のふもとをてくてく歩いた。

 初夏に歩いたときの園瀬川沿いのアジサイロードは御覧のように枯れた灌木の並木になっている。


 土手に上がると東は津田のほうまで見渡せる、川沿いの土手の斜面には短いシバが植わっているのみだ。向こうに見えるふたこぶラクダの山は津田山だ。


 右の土手沿いに水仙でも植えれば夏はアジサイ冬は水仙ロードとなるのにと思って、土手を降りると道路沿いに花壇がしつらえて合って水仙畑になっていた。いくつかの株には早くも花が咲いている。


 佐古山の麓はよく歩くので見慣れた寺社や谷、山裾の木々花々もおなじみである。今まで何度もブログで取り上げたので今更紹介することもあるまい。もう紅葉・黄葉の時期はすんでいるが、ウルシ類の葉は遅くまで紅葉していてまだ真っ赤な葉をつけている。


 よく歩いている割には今まで気づかなかった神社を発見した。小さな神社で有名な大神社・椎の宮さんのすぐ前にある。椎の宮さんは桜、ツツジ園の鑑賞にもいいし、御神水も吹き出ていて、手を清めたりまた持ち帰って飲み水としても用いる。また境内の石段や坂道の続く参道は散歩などにちょうど良い、でそちらの方ばかりに目が向いて今まで椎の宮さんの鳥居前横にあるこの小さな神社を全く見落としていたのだ。


 神社の名前は「快神社」、主神がなにか、どんないわれがあるかもわからない。今ネットで調べたら快神社とかいて「こころよしじんじゃ」というらしい。詳しくはネットでもわからないがご利益は「医薬・健康・子授けの神様 」とあり、主神は猿田彦さんである。猿田彦はアメノウズメ(女神)と対で知られている神様だ。なんか男女和合の神様かもしれない、だから「快」というのがついているのかも、と勝手に推測する。境内に💛マークがあるのも性とか男女和合をイメージする。「快楽神社」の名前なら露骨にそうも思いもしようが「快神社」とかいて「こころよし」と読めば性・男女和合であっても婉曲・優雅に感じる。

 実際のところはどうなんだろう。勝手にワイが性的な推測をしているだけかもしれない、ええかげんなことを書いて宮司さんに怒られるかもしれない。でも能書きに「子授け」もある。当然、男女和合せにゃぁ子はうまれんわな。

 そこから狸谷を通って少し歩けば中央病院にでる。蔵本からまた汽車に乗って石井に向かう。 

2021年12月19日日曜日

昨日の補足写真

  旧持明院(現在の大滝山)には多様な仏さん神さんがいる。お薬師さんを上がると滝の真上にお不動さんがいらっしゃる。


 石段を登り切ったところは観音堂だがそこへ行くまでにお地蔵様、弥勒さま、御大師様の石像が石段に沿って鎮座している。下は弥勒菩薩とお大師さまの石仏。


 また観音堂から少し奥には昔(大正年間)徳島では有名な料亭もあった。今はそれをしのぶものはないが、その料亭前にあったという石割桜のみが残っていて、そのあった場所を示している。


 そこから眉山周遊回廊にでると神武天皇像がある。今まで注意してみなかったが神武天皇のもつ矛先(弓かな)の先端に鳥が止まっているが、これが有名な八咫烏だろうということはこのカラス足が三本あるはずだ。囲いがあってそれ以上近づけないが、正面、右、左から見ても鳥足三本は確認できなかった。


2021年12月18日土曜日

冬ぞさびしさまさりける

 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば(百人一首二十八番より)

 またもや仏教の話から始まるが、逃れられない本源苦として、お釈迦さんは「四苦」を説いた。四苦は苦、苦、苦、苦、である。これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを加え「八苦」とする場合もある。しかし古希を迎えた私の実感からすると私のような年寄りには「四苦」は「貧」「孤」「痛」「弱」ではないかと思う。もちろん高齢者となってもそんな四苦がほとんどない人もいるから本源的な「苦」ではないだろうが。

 私の場合、四苦の貧・孤・痛・弱の中で幸いなことに(未だ)貧・痛・弱の三苦は生を脅かすまでにはなっていない。「痛」は体と心の痛みも含み、「弱」は体力だけでなく知力・記憶も含む、この二苦は最近はかなり大きくなっているが、まだまだ耐えられる。「貧」は文字通り貧乏だがさすが衣食住に窮乏することはない、しかし「貧」でも「貪り」の方がずっと心配である。ただこれも今現在であって、これからこの三苦は次第に大きくなり何時まで生きられるか知らないが我が身のすべてを占めるようになるかもしれない。でも今のところ一番苦しいのはやはり「孤」である。

 昨夕の気温の急激な低下と台風並みの北風はすごかった。唯一の暖房器であるホットカーペットの設定温度を少し上げ、腰回りに電気毛布を巻いたのでそれなりにポカポカ暖たかい。何が音を立てるのか外ではバタンバタン、カラカラと騒がしく、それとともにヒュー、ゴーという風の音もまじり止む気配がない。もう五時半を過ぎれば外は真っ暗、時雨れの暗雲が垂れ込めているのかいつもより暗い。こんななか一人ポツネンといると魂も細り吹き消えそうである。

 こんなひどい天気のなか、ふと思いついたのが、「そうだ、銭湯に行こう、うんと温まろう」、なにもよりによってこんな天気に、と思うかもしれないが、孤独に閉じ込められて家にいるより、外へでて銭湯まで一心不乱に駆けて行く!吹き飛ばされそうな風に孤独も吹き飛べ!がどれだけマシか。

 とはいえわが町に銭湯はない。一心不乱に駆けゆく、っつうても行く銭湯は近くでも蔵本の銭湯である。汽車で行かねばならぬ、時刻表を見ると午後7時43分の徳島行がある。簡素な夕食を済ませ、湯道具をリュックに入れて、寒く台風並みの風の中、家を出る。

 この銭湯、実は4~5年前までは時々行っていた。しかし最近はずっとご無沙汰であったが、先月11月くらいから、週に一度くらいまた行くようになった。なぜって?歳ぃいってやっぱ孤独を少しでも癒すためかな、いやよくわからん、寒さがこたえるようになってまた銭湯へあしがむいたのかな?

 いまでも4・5年前行っていた時の顔見知りもいて、湯船に浸かりながらけっこう長々とおしゃべりする。といってもどこの誰かも知らない、この銭湯だけの顔見知りである。銭湯は体ばかりでなく心も暖め、湯気で舌のすべりも滑らかにするのか、知らぬ同士でも挨拶はもちろん、下世話な世間話にも花が咲く。日によっては誰ともしゃべらぬ日もある中、銭湯へ行けば十分なおしゃべりをする。そして銭湯のおしゃべりはあたりさわりのない、しょうむない内容であるが、しゃべった後、ほのぼのとした満足感がある。

 駅の吹きっ晒しのホームの寒いこと、乗った列車はこの時間帯なのに5両もある、だから乗り込んだ私の車両の乗客は私も入れて3人、寂寥感満載の夜寒孤愁列車。でも、ワイはこれからあったか銭湯に行くんだ。むしろこのコントラストがなぜか嬉しい。

 蔵本駅前には一見華やかに見えるイルミネーションがあるが、赤や黄色の暖色のイルミでもLEDライトの蛍光は冷たい光、こんな風の強い夜寒には華やかさなど全く感じない、むしろ侘しさや冷たさを感じる。

 で、一時間、ゆったりと湯船に浸かったり出たりで体の芯からあたたまる。毎日きているという銭湯での話し相手の(仮に)Sさんもいる、自分でも不思議なくらいこの人とは快活に話ができる。私より十歳下だからもう60歳である。回をまたいでぼちぼち話しを聞くと、彼、京都の有名私大出身だという、年度などから、彼が在学中、ちょうど私も佛教大学の通信教育のスクーリングで一ヶ月びゃぁ京都に短期下宿していた頃、そのころの京都のあちらこちらの見所、食べどころ、遊びどころ、など共通の話題で盛り上がる。

 身も心も温まり、帰りの汽車に乗るため寒い強風の中を歩くが、まったく苦にはならぬどころかすこぶる気持ちがいい。まぁ駅から銭湯まで200m位しかないから、駅ですぐ乗れるよう時刻調整すれば湯冷めもすまい。

 ふと見上げると時雨れの雲は吹き払われたのか、ほぼ天頂にある丸い月が明るい。そうか、今日は(昨夜)は旧暦の14日、ほぼ満月、月は太陽と真逆の関係で冬至頃にもっとも高度が高くなる。その関係で月はもっとも明るいが、先ほどのイルミネーションと一緒で暖かくなく冷え冷えした冷光である。夏や春のように高度が低く、山並みのちょっと上くらいに出ていれば月もそう孤独な感じを受けないが、天頂にまで上がる12月の月は明るく星々も消し、天頂付近は山も建物もないから、丸い月が小さくいやに孤独に見える。

 「狂風(強風)、孤月を吹き・・」とまで口ずさんだが詩心のない私である、あとが続かない。


 家に帰って布団に入るまでポカポカ感は消えなかった。

 さて、今日(18日)、今、午後8時過ぎ、12月の満月である。見えるかしらん?喫茶店ワイファイでブログを書いているが帰りに見てみよう。

 一晩寝るとまた少し鬱状態、孤独感もヒシヒシ、運動すればいいかもしれんと、寒いが陽射しはあるので昼過ぎ持明院跡(今は大滝山)を歩く、薬師寺~観音堂~神武天皇像~眉山周遊路~天神さん~阿波踊り会館

 大滝山の由来となった滝は今はチョロチョロ、黄色い花はモラエス花というらしい。


 天神さんでは大きな牛の像を見る、そういえば来年はうし年だ。


 天神さんの高台から下を見ると七五三を祝った男の子二人がお母さんに連れられてかえるところ

「ワイもあんな孫が・・」

 いや、それはいうまい、自らの「業」によって今の自分があるのだ。因果応報は来世にあらず、すべてこの世で果たされるのだ。

2021年12月16日木曜日

徳島市図書館所蔵ワイが選んだ高齢者主演、お薦めDVD4作品、視聴感想文

  徳島市図書館は県下随一たくさんの映画DVDが所蔵されていて貸し出しに供されている。名作も多いし、またアクションもの、スリラーもの、探偵ものなど様々なジャンルも品揃え豊富である。

 ただ主人公が「高齢者」で老人の人生を扱ったものは少ない。でも以下の4作品はその数少ない老人映画である。老人映画といっても老人だけに見てほしいものではない。若者にもぜひ見てもらいたい映画である。


 主題は「安楽死」である。しかし左にあるように映画の題、DVD用のポスターの雰囲気を見ても、深刻で重大なテーマを扱うような感じを受けない。事実、若干のコメディーの要素というか人間喜劇的な明るさがある。舞台も製作もイスラエルである。イスラエルといえばユダヤ教が国教である、なんか戒律も厳しそうで、安楽死といっても自殺であるから、そこのところユダヤ教ではどのように取り扱っているのか気になるところだ。同じ一神教でもカトリックなどは自殺は神の意志に反し、地獄か煉獄に落ちると脅される、イスラムの場合はどうか知らないが、この映画を見る限りユダヤ教が強く自死を否定するようにはなっていない。この映画が描くイスラエル社会を見ても、合理的精神をもつ老人が多く、日本と同じように高齢者の比率は高くまた高学歴、高知性を持つ老人が多い。宗教的な禁忌を云々するような人はいない。
 だからイスラエル社会の老人とはいいながら(娯楽余暇の過ごし方など)日本の老人社会と共通するところが多い。高齢化社会特有の問題も日本と同じである。また安楽死(積極的も消極的も含め)は非合法であるとことも日本と同じである。
 そのようななか、ある一人の老人が安楽死機械を実用化させたところから映画は始まる。詳しくは見ていただくとして、この映画を見た一視聴者として、安楽死は許され、制度として合法化されるべきかという問題を突き付けられた。一概に安楽死といっても、癒せぬ痛み、延命の望みのない末期の人から、ただ単に、無為の老人生活にうんざりしこの世からおさらばしたい、などと動機は様々である、個々のこういう場合は許され、あるいは認められない、それを制度として設計し、法律化されるべきなのではないか、ということも考えさせられる映画であった。

 この映画はホームレス状態になった老人のロードムービー的映画である。もともと私の好みとしてロードムービーは大好きであるから、おすすめの映画の一つである。老人のロードムービーといえば日本ではどこかの巡礼の旅を思い出すが、舞台はアメリカ中西部である。この主人公の老人は立ち退きで住み慣れた家を追われる。といっても純然たるホームレスにはならない、それなりの貯えもあるし、子供が3人いる。長男の家に一応は引き取られるが、安住できるところではなく、次女、次男を訪問するという口実で、飼い猫一匹連れて中西部に出発する。
 貯えもあり、子供も存在し、老人特有の孤独以外、悲惨さは感じない、旅が進むにつれ、解決というか安らかな境地を見いだせるのではないかと期待しながら視聴できる。
 現実の老人はこうもいかないだろうなぁ、と思いつつ見る、現に私がそうであるように、貯えもなく、子供もいない、そして孤独感にさいなまれている老人は世の中に多い。もしそんな老人たちがホームレス状態になり旅に出たとき、この映画にみるような(ドラマになりうる)ある種の明るさがあるだろうか、と思う。まぁ、そんな見るからに悲惨な、徘徊するホームレス老人などは映画にしても面白いとは思わないだろう。映画としては貧な老人は作品にはならないだろうが、現実、四国八十八ヵ所巡礼には、決まった住所も持たず、金も持たない老人のお遍路さんが幾人かはいる。以前、NHKで「草遍路の爺ちゃん遍路」のドキュメンタリーを放送したがこのじいちゃんがまさにそう、財産も金銭もほとんど持たず、80近い年齢で足を頼りに、野宿、善根の人々のお布施で日々遍路をしていたのである。
 そういえば今日、徳島駅で私かそれ以上の年齢のお遍路さんがベンチで座っていた。真っ黒に日焼けし、白髭ボウボウの爺ちゃんだったが、この人の巡礼生活も草遍路じいちゃんのようなものじゃないのかと思う。ただし、貧なのはいいが、「弱」ではできない。体力、気力、私にはとてもできないだろう。

 これは前者の老人よりもっとリッチな人たちである。高齢になって住む環境を考えたとき、私もそうであるが、温暖といわれる四国の冬でもすごすのはきつい。常春とまではいわなくても常夏の南海の楽園でのんびり過ごせたらいいだろうなと思ったりする。浄土教の極楽の描写を見ると、気候は秋ではなくもちろん冬でもない、初夏かさわやかな夏の日の蓮の咲く水辺という環境である。
 この老人たちはイギリス社会でリタイヤした人々である。イギリスの冬はこのあたりよりもっと気温が低く、日光に乏しいから、明るい南国にあこがれるのは日本以上にわかる。
 それで行くところはインドであり、高級ホテルで(もちろん賄い付きである)の長期滞在、ホントのところは期限のない残りの余生を最後まで過ごす計画である。企画者はインドのホテルのオーナーの息子である、良いことばかり書いてあるホテルの呼び込みのパンフレットと現実との違いも映画の面白さの一つとなっている。
 日本でも今、リッチな老人、具体的には多額の退職金や年金のある老人は、コじゃれたホテルのスウィートのような賄い付き老人マンションに入居して余生を過ごす人が多いと聞く、セルフネグレクトになりやすい独居老人には、食事つき清掃付のホテル暮らしはうらやましいかぎりである。しかしその望みがかなえるのはン千万の補償前金、月々高額の年金を受け取るまさにリッチな老人だけである。ワイらはホテル暮らしのような老後生活は金銭面で無理である。
 そういえば何十年か前、この映画にあるように日本のリッチな老人も東南アジアで老後を優雅なホテルあるいは別荘で暮らすという企画があり実現されそうなニュースを聞いたことがあるが、その話、その後どうなったのだろう、実現したのかな。
 今、日本は3Kの労働に若い人が従事したがらない、そのため人材不足から東南アジアから研修生という名目で現地の若者を労働力として入れている。そのようにしつつ、前記のように老人だけ東南アジアにまるで交換のように移住させるのは、相手の国に対しずいぶん失礼だと思うが、日本の老人の東南アジア移住は進んでいるのだろうか。
 この老人の南国移住も、高級ホテルになんどは住めないが、南アジア(ネパールやインド)といった国に老人が自分で勝手に移住して庶民レベルで暮らすことは、貧な老人にも出来そうである。なにせ南アジアの衣食住は贅沢しなければずいぶんと安上がりである。日本ではわずかな年金収入でも、南アジアでの庶民レベルの生活は充分出来そうである。しかしこれも貧はいいが「弱」ではできない、健康で活力のあふれたジイチャンでなければ出来んだろう。ワイは無理じゃな。でもお釈迦さんの故郷インドで終末期の老後を過ごすのはワイとしては夢に見るほど魅力的ではある。

 そのインド映画である。インド人は墓を作らない、火葬にした後その遺灰はガンジス川に流されるのである。インド人の聖なる川ガンジスに対する思い入れは非常に強い、輪廻転生を信じ、天上界に再生を願っている、そのためには遺灰はガンジス川に流さねばならないのである。バラナシーにあるガンジス川の岸辺には露天の火葬場が設けられている、そこで火葬すれば遺灰はすぐに川に流せる、そのため多くの遺体がここに運ばれてくる。

 インド人の考えるもっともすばらしい人生の終わり方は、死期が迫ったら、このガンジスのほとりにある終末を迎える家『解脱の家』で最後の日々を過ごし、そこで死を迎え、遺灰となりガンジス川に流されることである。「解脱の家」は病院でもホスピスでもなく、静かに自らの生を終える「家」である。
 主人公のジイチャンには立派な家があり息子も孫もいる、そんなことから成功した人生を送ってきたことが推測される、大きな病気にとりつかれているとも思えない、周囲はまだまだジイチャンの死は遠いと思っているのに、ジイチャンが自分は「解脱の家」に行き、そこで生を終える、といったことからこのドラマは始まる。
 多くの家族に囲まれ、幸せな家庭を捨てて「死出の旅路」に出ることは今の日本では考えられないが、インドではそれが理想的な生き方として今も十分な価値を持っている。そしてそれを実践する人も多い。インド人は古くから人生を、学生期・家住期・林住期・遊行期の4つに分類している。最後の「遊行期」は何もかも捨てて解脱(安らかな死)を迎えるため旅立つ時期としている。今の日本では考えられないと言ったが、仏教を通してインド的な考えに共感を覚える日本人は多い。映画を見終ってもこのインドのジイチャンの死生観に私は違和感は覚えなかった。

2021年12月3日金曜日

災害は忘れないうちに何度でもやってくる

  寺田寅彦だったと思うが、「災害は忘れたころにやってくる」といったが、ワイが70年生きてきた経験から言うと「災害は忘れないうちに何度でもやってくる」じゃないだろうか。日本列島はおおむね温暖な気候、全山地をおおう緑、きれいな水に恵まれ、世界の他地域と比べても自然環境はダントツに恵まれていると思う。あんまり極楽浄土すぎて、他地域とバランスが取れないと創造の神は思ったのか、日本に火山噴火と地震をあたえたものとみられる。

 今朝、起き抜けのニュースで山梨で震度5の地震を報じ、三時間後にはうちらも揺れる地震があった、今度は和歌山震源の震度5だ。どちらも震度5でもランク下の「弱」であり被害もなかったが、ワイらの地域で一番心配するのは、南海道大地震である。世紀をまたいで何度も起こっている。今世紀はまだ起こっていないのでそう遠からず起こることは確実である。この連発の地震がその予兆でないことを祈っている。

 火山噴火、こちらはうちら四国は火山がないので安心する人もいようが、万年単位の時間で見れば、日本列島の半分が火砕流と火山灰の厚い堆積で壊滅に見舞われたことがある。歴史時代になってからはまだ列島の壊滅的噴火は経験していない。何せ万年単位であるから。だがこれも直近に絶対起こらないとは断言できない。

 コロナ下の日本でそんなことが起こるのは考えたくないが、国が傾くほどの大地震・大噴火はいつでも起こりうることは考えておきべきである。

2021年12月2日木曜日

境内の銀杏

  外は北風が強く、気温も上がらない、いよいよ冬の到来だ。北国や雪国の人からしたら、この暖国・四国の冬が何が寒かろう、にと笑われるだろうが、そうはいってもここでずっと暮らしている年寄りにはやはり冬は寒い。

 昨日、車を持っている友達に会ったが、お互い歳もよく似ているので寒いときはどうしても不活発になる、「今日はサブイから、そとであるくんわ、いやじゃな」で、喫茶店で世間話をする。しかし長々と茶店にいるわけにもいかんので、「ドライブでもするでぇ」ちゅうことで少し走った。太平洋側の冬のいいところは、サブゥても、風がガイに吹っきょっても、日差しは陰ることなくたっぷりある。窓を閉め切った車の中は温室のようで、運転している友達には悪いが日が当たる助手席はヌククて気持ちがいい。

 近まの田園地帯を走った、田や野草の原、遠くの雑木林を見ていると初冬の風景だなと思う。広く見渡せる田園を走っていると、ところどころに背の高い黄金色に輝く木がある。銀杏の木だ。銀杏の黄葉は北風にも最後の踏ん張りを見せている。銀杏については昔、たぶん新聞のコラムか何かでこんな話を聞いたことがある。たぶん木屋平村とおもうが

「11月の末か、12月の初旬、初霜が下りた朝、まだ黄金色の葉っぱをたくさんつけていた銀杏は、その日の朝日を浴びると、申し合わせたように一斉に落葉が始まり、冬木立となる、後には一面の金色の絨毯とその真ん中に一本立つ葉を落とした銀杏の木がのこる」

 いやぁ、なんとロマンチックで劇的な落葉だろう、見てみたい、とおもいつつ果たせぬまま、車の中でそのことを思い出した。

 「あっちこっちの寺社に銀杏の大木が見えているが、どこか見事な銀杏を見にいけへんでぇ」

 友人も賛成してくれたのでそちらへ車を進めることになったが、はて、どこがいいだろう、過去にいろいろな場所で銀杏の見事な黄葉をみたが、その場所が思い出せない。探しながら車でウロウロするのも大変なので、近くで行きやすい五番札所地蔵寺の銀杏を見に行った。



 地蔵寺の駐車場から東を見ると、なんとこの地蔵寺の銀杏より丈の高い銀杏が一町ばかりの距離にあるではないか、たぶん神社の境内だろうと、地蔵寺の銀杏を見た後、歩いて見に行くと野神社の銀杏だった。


 中学一年で初めて英語を習ったとき、「秋」の同義語として二つの言葉を習わなかっただろうか?一つはautumn、もう一つはfall 、アメリカではfall が一般的と聞く、だれでも推察できるように、秋に葉が「落ちる」の現象をイメージしてfall になったようだ。

 日本でも凋落の秋、といういい方があるし、「秋」と書いて「時」・トキと読ませたりする。いよいよ亡びの秋(トキ)がきた、などとの言い方は英語のfall と通じるものがある。

2021年11月30日火曜日

晩秋最後の散策

  ここのところの朝夕の気温の低下、寒い風にさらされていると初冬の雰囲気だが、昨日は山の紅葉・黄葉を求めて山を散策したのであえて晩秋の散策としたい。

 幸いなことに風もなく日中はたっぷり陽のさす穏やかな天気だった。歩いたのは以前にも行ったことのある徳島市入田の山寺「建治寺」である。県道沿いにある入田郵便局横から入る登山道を歩いて約一時間余りの散策である。


 以前来たときは鐘楼の横の紅葉の色が際立ったいたのだが、時期を外したのか、それとも今年の気候の加減かあまりさえた色ではなかった。


 ご本尊は金剛蔵王権現さまであるが、四国三十六不動尊の寺でも有名で、本堂の上り口にはお不動さんの眷属・波羅波羅童子がお迎えしてくれている。


 この童子横を石段で降りると広場になっており、不動尊石仏の前で柴燈護摩の儀式が行われる。


 開けた山の中腹に(頂上に近い)あるため眺めがよい。徳島平野とその真ん中を流れる吉野川が見える。


 少し東に視界を向けると徳島市内が見える。蛇行して流れる鮎喰川も見えている。


2021年11月23日火曜日

二人の遭遇

  寂聴さんが亡くなった訃報を聞いて、追悼の念もあり、何かを読もうと思ったが小説はちょっと敬遠するものがあったので、徳島に関する「随筆集」を読んだ。その随筆集の中に意外な記事を発見した。よく私のブログで取り上げていたあのモラエスさんと寂聴さんは遭遇していたのである。モラエスさんは徳島に住んだ外国人(当時は異人さんと呼ばれていた)ではあったが、生まれはポルトガルで1854年、日本でいえば嘉永7年、まだ江戸時代である。寂聴さんは生まれは1922年、大正11年である。同じ徳島の文学者と言いながら、時代が70年近くも違うため、交流はおろか遭遇もなかったものと思っていた。しかし彼女の随想文、題は「青い目の西洋乞食」として、彼女が小学校一年の時の思い出としてモラエスさんとの遭遇の話を書いているのである。

 モラエスさんは享年75歳、昭和4年・1929年になくなる、寂聴さんは1922年生まれ、最晩年に逢ったと思われるから彼女は7歳になるかならずである。当時、モラエスさんは伊賀町の長屋に住んでいた。対する彼女はまだ小学校一年生、家は今とほぼ同じ位置西大工町の仏具店である。校区は新町小学校、モラエスさんは伊賀町の実家から追慕の女性だったおヨネ、コハルの墓のある潮音寺に詣でるのが毎日の日課だった。潮音寺は今のロープウエイのある阿波踊り会館のすぐ横である。伊賀町から眉山山麓の道を真っ直ぐとると新町小学校を抜け、墓のある潮音寺に着く、ということは新町小学校に通う寂聴さんとまさにクロスする。当時としては珍しい外人さんである。毎日通うモラエスさんを見ることは幼い子供の好奇心をそそったに違いない。男の子はからかい囃したてたようである。毎日のように墓参するモラエスさんには何回もであったであろうが、寂聴さんは初めて会った時の印象を次のように述べている。

蝙蝠の低く飛ぶ晩春の黄昏時、モラエスさんは墓参りの帰り潮音寺の土塀のどこかから出てきたのであろうが、幼い私はまるでその人が地の底から湧いて出たように感じた。その異様な姿に(ドテラを着てデンチュウを羽織り、鳥打帽をかぶり、アイヌの長老のような髭モジャだった)、たぶん噂は聞いていて「西洋乞食」という言葉を思い浮かべた。大きな体のその人は放心したように、ゆっくり歩いていた、息をつめて見つめている私には気づかず、青い目に物悲しい色をたたえ、歩き続けていた、年老いた異人さん貧しげな姿が物哀れであり、歩くのに思わず手を取ってあげたいようなはかなげなものを感じた、つけていった私に気づくふうでもなかった、そして小学校を通りすぎ瑞巌寺の門前までついていった、そこは伊賀町へ曲がる横丁がある、そこでふっと、異人さんは振り返った、ぎょっとして立ちすくんだ私に目をとめ、じっと青い目で見つめたが、私が泣きそうに力んでその顔を見つめていると、にっこりして、ふかくうなずいた、何か言いかけたが、私は急に怖ろしくなって、身をひるがえし、我が家の方へかけ戻った。とある。

 寂聴さんとモラエスさんの遭遇したときは昭和4年の晩春である、ということはモラエスさんはそれから二ヶ月もたたず自宅で孤独死を迎えている。(孤独死が発見されたのは7月1日である)徳島の文豪二人のはかないつかの間の遭遇であった。

 白塀に囲まれた墓地が潮音寺のおヨネ・コハルの墓のあるところ、塀の終わるところを右に曲がれば新町小学校、そして伊賀町へと続く。


 下の写真、山へ向かって進めば潮音寺、左へ行けば新町小学校の道、その角の小公園にモラエスさんの記念碑がある。小学校一年生の寂聴さんが潮音寺から出てきたモラエスさんに逢ったのはこのあたりかも知れない。この後方の大通りを少し左に(紺屋町の方へ)進むと今も(寂聴さんの里)瀬戸内仏具店がある。


 寂聴さんの作品はただ一つ、時代小説で鎌倉時代の宮廷の女性が書いた古典・日記文学「とわずがたり」を基にした「中世炎上」を読んでいただけであった。たった一つしか読んでない作品で彼女の文学全体を評価するのはどうかと思うが、その作品は私には強烈な印象を与えすぎて、そのほかの作品は読む気がうせてしまった。むしろそれに刺激を受けて原典ではどうなっているのだろうと、古典文学「とわずがたり」のほうに興味が出て、そちらのほうを読んだ。「小説・中世炎上」で強烈な印象を与えたのは性的な描写であった。小説の最後のほうにある、かっては愛し愛された人の末期の病床の場面の描写である。

 臨終の院(上皇)が二条の手を取り、「さ、別れをしてやっておくれ」と(院が二条の手を)夜具の中に引き入れていく、二条はされるままに手を寄せていくと、柔らかな小鼠のような手触りの懐かしいものに触れた時、院の頬にあるかないかの微笑がさした。そして翌日、院は崩御するのである。

 柔らかな小鼠、とは男性器(チンポ)のことである。チンポを鼠に例えるのは一つの例を除いて知らないが、三島由紀夫の小説の中にその一例がある。三島は、水死したネズミのような性器が股間にぶら下がっている、との比喩を用いているが、これはどちらかというとみじめな男性器の描写であろう。しかし寂聴さんの描写は同じネズミでもものすごくエロティックな表現となっている。女性から見た愛しい男性のチンポは「柔らかな」「小鼠のような」「手触りの懐かしい」ものである。私も大胆な性描写の小説を読んだりするが、それはほとんどが男性の作家である。小説中、女性の立場に立った性描写にしてもそれは現実には決して女性の肉体にはなれない男性作家が想像して書いたものである。だから女性作家によるこの描写は真実味がある。彼女の男性遍歴、性の経験がこのようなうまい表現になったのだろう。

 女性作家によるそのような性的な描写を別に嫌悪したわけではないが、どうも寂聴さんの小説は私には向いていないと思い、そのあとは読んでいない。

2021年11月19日金曜日

徳島公園の晩秋

  徳島公園の下にみえる芝生広場、様々な種類の木が植わっているが、真ん中に銀杏の木が一本ある、上部はかなり葉を落としているがそれでも真っ黄色に色づいている。この場所、春はこの銀杏の老木の横にある豪奢な枝垂れ桜の満開が目を楽しませてくれる。


 この反対側の藩祖の銅像のある周りにも銀杏の木が数本ある。こちらはまだ落葉も本格的ではない。晩秋の黄色味を帯びた陽光をうけて、見事な黄金色に輝いている。


 少し近寄ると、プゥ~~ンと強烈な匂いが鼻をつく、畑にまく肥しと同じ匂いだ。知る人ぞ知る、これは銀杏の味が熟して落ちて、それから香ってくるものである。近寄ると下一面隙間もないびっしりとその実が落ちている。踏みつぶしながら近寄るのをためらう。

 しかし、銀杏の実ってにおいの元である果肉を洗い落とし、硬い外殻を割ると翡翠色の柔らかい実が得られる。これ、すごくおいしく、貴重な食材となる。ごくたまに茶碗蒸しなどの底でお目にかかり一粒たべるが、殻付きの実を炒って供せば、ピィスタチョやアモンド、クルミなど以上に素晴らしい酒のあてのナッツになるのだが、ここではそんな銀杏の落下した熟実をとって食材にしようという人はいないのか、落下した実が絨毯のように広がっている。やはり実の匂いに辟易するのだろうか、そういえばほかにも素手でこの熟実をつかむと手が荒れると聞いたが、ともかく食材にするには厄介なのだろう、採取する人は今のところいない。銀杏は雌雄異株であるため、最近は街路樹には雄の木を植えているそうだから、実をつける銀杏も減っているようである。

 そうそう、永井荷風さんの小説を読んでいて知ったのだが、この銀杏の葉っぱ、本に挟んでおけば紙魚(紙を喰う害虫)の予防になるということだ。予防効果はともかく銀杏の落ち葉は柔らかく、あまりない扇形をしているので、葉として栞に用いるのはなかなかいいと思う。

2021年11月14日日曜日

徳島市図書館の街角散歩ツァーに参加して

  毎年一度しかない上記のツァーに参加した。二年ほど前にも一度参加したことがある。その時の主題は、モラエスさんと徳島城跡、だった。今回は「興源寺界隈を訪ねて」である。いつもは定員15名なのだがコロナ下ということもあり10人に絞っていた。

 興源寺は阿波の藩主蜂須賀家の菩提寺であり、代々の墓がある。説明ガイドはボランティアの人である。藩祖から順に説明してくれたが、だいたい知っていることばかりだった。


 興源寺へ行く途中にある神社や寺も説明してくれたが、その中で私が全く知らなかったのがこれ、「お七延命地蔵尊」。お七はご存知の八百屋お七である。江戸の娘だが何のゆかりでこの徳島に?と思ったがガイドさんの説明によれば、義理の母親が阿波の人だったところから万福寺境内に供養の意味で作られたそうである。ただ昔からのお七地蔵は(銅製だったのだろう)戦争中に供出させられ、下にみるお七地蔵はその後再興されたものである。


2021年11月12日金曜日

初冬の風情

  三日前は宵から未明にかけて時雨とは思えぬほどの大雨となり、渇水期にもかかわらず江川も鮎喰川もみぎわまでまけまけ一杯に流れている。しかしその後、一昨日も昨日もそして今朝も天気は時雨もよい、日が射すかと思えば曇り、雨もパラパラ、まことに初冬らしい定めなき天気となった。

 初冬を区切る行事といえばわが徳島では昔は(ワイが20代のころ貞光あたりの山のほうではまだその行事があった)「おいのこさん」がそれにあたる。旧暦10月の最初の亥の日である。子どもが各家をイノコ槌を手に回り、お菓子などをふるまわれる行事である。これは欧米のハロウィン祭りに似ている。時期もよく似ている。初冬を区切るといったが江戸時代はこの日(神無月の亥の最初の日)はまた「こたつ」を出す(開く)日でもあった。欧米でも万霊節(ハロウィンの翌日)が済めばもう冬の到来と思われたのであるから、まさにハロウィン=おいのこさん=冬の到来であったわけである。ただ近年おいのこさんはほぼ絶滅してしまったため、強いて考えればハロウィンが初冬の到来の区切りとなる。

 今年の旧暦10月の最初の亥の日(昔のこたつ開き)はいつか調べると今年は太陽暦では昨日となっている。ワイんくではもう先月の中ごろから唯一の暖房具ホットカァーペトを出しているから今よりも寒かった江戸時代にはずいぶん寒くなるまで暖房なんどは我慢したのである。

 江戸時代だけでなくワイの子供の時はまだ「炬燵」という暖房器具があった。何やら難しい漢字だが旁は巨と達でキョ、タツと読み、あと扁が「火」だから、そう覚えば書くことも難しくない。この「炬燵」は今の人がコタツという言葉を聞いてイメージする暖房具とはおそらく違っている。ワイの(70歳以上)年齢くらいにならないとおそらく「炬燵」は正しくイメージされない。

 子供のころジイチャン、バァチャンの寝床の布団の中にはこのようなものがあった。

 我が家のものとはちょっと違っているがおおむねこのようなもので間違いない。中の素焼きの円筒には灰が入っており、その中に木炭というより、消し炭の「燠」(おき)が半ば灰に埋もれて入っている。そして四方が開いたカワラケの容器に入れ、それを布団にいれ寝るときの暖房にするのである。

 そしてこれに木枠をつけ、布団を被せれば置き炬燵となり、座って下半身を温める暖房器となる。いま電気コタツはこれが原型となる。したが昔の本来の「置き炬燵」

 しかしこれを使ったのもワイの小学校低学年ころまでで、その後は床を真四角に一段下げて、底部に練炭火鉢をいれ、練炭の掘り下げコタツとなった。またジイチャン、バァチャンの寝具の中も豆炭アンカから、すぐ電気アンカとなった。しかし練炭の掘り下げコタツはワイが高校を卒業するまで使われ、そのあと電気コタツとなった。



時雨降るとき、コタツでゴロンと横になりうたたねするのはまことに気持ち良い。歌舞伎あるいは文楽で有名シーンで「時雨の炬燵」(心中天網島)というのがある。はっきりしない意志の弱い男が時雨の炬燵の中でグズグズしているという設定だが、何となくわかる気がする。(左図は文楽より心中天網島・時雨の炬燵

 時雨降る中コタツでウトウトしていると子どもの時、やはりコタツでうたたねしていた時の気持ちの良い感覚がよみがえってくる。そんなとき60余年の時は須臾の間であったような錯覚を覚える。祖母の「そんなところでうたたねしてると風邪ひくでよ」という声が聞こえてきそうである。時雨とはよく言ったものである。「時」が雨のように降るのであろう、降りこめられたコタツのなかでつい昨日のように甘い子供の時の夢を見る。

※ 数日前、気象庁が南米沖でラ・ニーニャ現象(海水温の異常)が起こったと言っていた。これが起こると日本の冬は寒冬、多雪傾向となると付け加えていた。久しぶりに昔の冬らしい冬となるのか。

2021年11月4日木曜日

季節感

  うす曇りということもあろうが日中の弱日を見ていると季節は晩秋に向かってすすんでいるんだなあと思う。しかし気温は高いようで、外を歩いても秋冷が身に染みるということはない。昨日、市内で映画ロケ地周りをしたがシャツ一枚になっても汗が出てきた。これも地球温暖化の影響なのだろうか。

 桜は黄や赤の病葉となりかなり葉をおとしたが、まだ紅葉と落葉の季節には早いようである。曼殊沙華が咲いた時から感じていたが季節はどうも遅れがちになっているようだ。その一つだろうかキンモクセイの香り始めるのが今年はずいぶん遅いような気がする。花は小さくて目立たないが強烈な芳香はキンモクセイが咲いたことを強く意識させる。昨日ロケ記念碑のそばでも強く匂っていた。やはりすぐそばに丈の低いキンモクセイが小さな花をたくさんつけていた。

 モクセイは主に香りでもって人に官能的に作用し、どちらかというと魅惑的な気分をもたらす。これと反対に視覚では舞い落ちる枯れ葉などを見ると秋の哀愁というかモノ悲しさをそこはかとなく感じる。嗅覚と視覚では秋の雰囲気がずいぶん違う。(マッタケなどに食欲をそそられるのも嗅覚である)。では五感の中でもう一つ重要な聴覚はどうか?秋といえば虫の音を思い浮かべる。しかしどうしたことか、最近はコオロギの鳴き声をとんと聞かない。歳ぃいってコオロギの音に老化した耳が反応しないのだろうか。それとも環境の変化の影響だろうか。

 哀切をおびたもの悲しいコオロギの音は晩秋の寂しさを一入感じさせるものであった。子どもに詩心はわからなくともなんとなくわびしい気持ちになったものである。小さいころの我が家は陋屋と言っていい住まいであった。障子はいたるところ破れ、土壁も部分部分が崩落し、壁土が落ちたところから竹の格子がみえた、また開放的な縁の下もあって、家じゅう隙間だらけだった。そのため夜、家の中でもコオロギの音を聞いた。寝ていてリーリーとなくコオロギの音は、夜が深々と更けわたりほかの物音が途絶えるなかよく聞こえた。日中でも雑草に覆われた家の敷地のそこかしこでもコオロギの音は聞こえた。深まりゆく秋にここを先途と鳴くのだろうか。一年に満たないはかない命の終わりはもう迫っている。

 有名な秋の詩に ポール・ヴェルレーヌ/訳:上田敏 『落葉』がある。

秋の日のヰ゛オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し

 ヰ゛オロンとはバイオリンのことであるが、コオロギの哀切を帯びたなき声を聴くとヰ゛オロンとはコオロギの音ではないのか、とこの詩を思い出す。秋のヰ゛オロンの音はコオロギの音にふさわしい。

 今日、私の親しい人が手術を受ける。遠く離れ何にもしてあげられないがせめてお祈りをと、滝のお薬師に手術の無事と病気平癒をお願いする。お参りする前後、パラパラと雨が通り過ぎた。仏様の大慈大悲の涙雨か、願いをご受納くださった徴であると思っている。

2021年11月3日水曜日

昭和16年・徳島を舞台にした映画のロケ地を回る

  昨日、県立図書館の視聴覚ライブラリで昭和16年制作(マキノ雅弘監督)『阿波の踊子』という映画を見た。時代劇で、徳島ではおなじみの阿波十郎兵衛が家老の悪巧みによって処刑された後、その弟が阿波に帰ってきて家老を討つ話である。しかしお堅い勧善懲悪の筋ではなく、若い娘の恋情あり、道化たキャラの滑稽なシーンもふんだんにあり、また映画の最後のクライマックスは怒涛のように踊り狂う阿波踊りがあり、その踊りの渦の真ん中で仇が討たれる。その踊りのシーンはけっこう長く、これでもか!というくらいたっぷりと阿波踊りを見せてくれる。この映画の野外ロケのほとんどが当時の徳島で撮影されている。映画の徳島城下は江戸時代の町並み設定ではあるが、実際は80年昔の徳島の町並みをそのまま使っている。

 昭和16年4月にロケをした、ということはこの年の12月に真珠湾攻撃で大東亜戦争が始まるからその直前である。戦争前だからまだこのような娯楽性の高い時代劇が作られたのであろう。野外ロケが多いが、当時の市街地の家はまだ藩政時代の情緒を残す木造の町屋である。しかしこの時の徳島の市街は約4年後の徳島大空襲でほぼ焼けてしまっている。それとともに藩政時代を髣髴とさせる町屋も消滅してしまった。今、時代劇の町屋のシーンで、町並みがそっくり使えるところは脇町のごく一部の通りくらいのものだろう。現代の徳島の市街地をそのままに時代劇なんどは撮影できるはずもない。しかし、戦災前の徳島市街地では違和感なく時代劇の町屋の野外ロケができるところがあちらこちらに存在したのである。

 能書きたれはこのくらいにして、それでは市街地の野外ロケシーンを映画から見てみよう(一部ではあるが)

 

 橋のシーンが二か所出てくる。同じ橋を別のアングルから撮ったのかと思われようがよく見ると橋の形態が違っている。最初の橋は平橋であるのにたいして次に出てくる橋は真ん中が高くなる太鼓橋である(曲率は緩いが)。

 さてそこで今日はこの橋のあった場所を探して町をうろつくことにした。もちろん80年も昔の橋が今残っているはずもないが、川や山まで消滅したわけではなく、この二つの橋のあった場所には今でも新たな橋があるはずである。

 手掛かりは遠くに見える山である。川は護岸工事をしたりして岸やあるいは流路も少し変わるかもしれないので当てにはできない。そこで80年たってもまず変わらぬ山の形をみてロケ場所を特定することにした。最初の橋の向こうに見える小山はどう見てもこれは城山に間違いないということは助任橋か?さっそく行って眺めてみた。

 助任橋北詰より


 似ていそうだ、すると一つ目の橋は助任橋か、次に福住橋に行って城山の方を眺めたがビルの陰で城山が見えない。


 次に福島橋の方へ回った。途中には護岸の松並木などがあり、松並木の近接シーンだと今でも時代劇のロケ地として使えそうだな、と思いつつ、松並木の尽きるあたりまで来るとこんな石碑があった。

 なに!「阿波の踊り子」と彫ってある。これって昨日見た映画の題じゃ!裏を見ると


 な、な、なんと!昭和16年ここでこの映画のロケをした記念ではないか。ということは上の二つの橋の一つは昔の福島橋である可能性が高い。映画のシーンではこれ


 しかし福島橋に立ち城山の方を見るがビルにさえぎられて城山が見えない。


 ググルマップの立体図で福島橋あたりの上空から城山を見ると下のようになる。


 城山の形の見え方からしてまず最初の橋は福島橋に違いないと思った。じゃぁ二つ目のこの橋はどこだろ?


 わからないので、ここで橋めぐりは中止して図書館へ帰り、文献で昭和16年のロケ地を調べてみた。するとこのロケの阿波踊りは福島橋と徳島橋の間で行われたとある、え?徳島橋?聞いたことない、どこにある橋やろ?徳島橋を調べると、聞いたことのないはずである。この橋どころかその下を流れる川ともども消えてしまっていた。つまり大規模に埋め立て川の流路全域が無くなっていたのである。その川の名は『寺島川』、下図のように流れていた。見えにくいが文化センター・青少年センターの裏にあるJR牟岐線の線路がほぼ寺島川にあたる。そして中洲市場あたりで新町川と合流する


 徳島橋は青少年センターから鉄道線路の跨線橋を跨いで市役所に行く陸橋のあたりにあった。いまその跨線橋の上に立ち、眉山を眺めるが、ドデカい市役所ビルに隠され眉山はほとんど見えない。


 徳島橋があったあたりからググルマップな鳥瞰図を見るとこのようになる。遠景に見える眉山の左になだらかに下る稜線が二つ目の橋のバックにある山の形と似ているように思う。