2021年12月16日木曜日

徳島市図書館所蔵ワイが選んだ高齢者主演、お薦めDVD4作品、視聴感想文

  徳島市図書館は県下随一たくさんの映画DVDが所蔵されていて貸し出しに供されている。名作も多いし、またアクションもの、スリラーもの、探偵ものなど様々なジャンルも品揃え豊富である。

 ただ主人公が「高齢者」で老人の人生を扱ったものは少ない。でも以下の4作品はその数少ない老人映画である。老人映画といっても老人だけに見てほしいものではない。若者にもぜひ見てもらいたい映画である。


 主題は「安楽死」である。しかし左にあるように映画の題、DVD用のポスターの雰囲気を見ても、深刻で重大なテーマを扱うような感じを受けない。事実、若干のコメディーの要素というか人間喜劇的な明るさがある。舞台も製作もイスラエルである。イスラエルといえばユダヤ教が国教である、なんか戒律も厳しそうで、安楽死といっても自殺であるから、そこのところユダヤ教ではどのように取り扱っているのか気になるところだ。同じ一神教でもカトリックなどは自殺は神の意志に反し、地獄か煉獄に落ちると脅される、イスラムの場合はどうか知らないが、この映画を見る限りユダヤ教が強く自死を否定するようにはなっていない。この映画が描くイスラエル社会を見ても、合理的精神をもつ老人が多く、日本と同じように高齢者の比率は高くまた高学歴、高知性を持つ老人が多い。宗教的な禁忌を云々するような人はいない。
 だからイスラエル社会の老人とはいいながら(娯楽余暇の過ごし方など)日本の老人社会と共通するところが多い。高齢化社会特有の問題も日本と同じである。また安楽死(積極的も消極的も含め)は非合法であるとことも日本と同じである。
 そのようななか、ある一人の老人が安楽死機械を実用化させたところから映画は始まる。詳しくは見ていただくとして、この映画を見た一視聴者として、安楽死は許され、制度として合法化されるべきかという問題を突き付けられた。一概に安楽死といっても、癒せぬ痛み、延命の望みのない末期の人から、ただ単に、無為の老人生活にうんざりしこの世からおさらばしたい、などと動機は様々である、個々のこういう場合は許され、あるいは認められない、それを制度として設計し、法律化されるべきなのではないか、ということも考えさせられる映画であった。

 この映画はホームレス状態になった老人のロードムービー的映画である。もともと私の好みとしてロードムービーは大好きであるから、おすすめの映画の一つである。老人のロードムービーといえば日本ではどこかの巡礼の旅を思い出すが、舞台はアメリカ中西部である。この主人公の老人は立ち退きで住み慣れた家を追われる。といっても純然たるホームレスにはならない、それなりの貯えもあるし、子供が3人いる。長男の家に一応は引き取られるが、安住できるところではなく、次女、次男を訪問するという口実で、飼い猫一匹連れて中西部に出発する。
 貯えもあり、子供も存在し、老人特有の孤独以外、悲惨さは感じない、旅が進むにつれ、解決というか安らかな境地を見いだせるのではないかと期待しながら視聴できる。
 現実の老人はこうもいかないだろうなぁ、と思いつつ見る、現に私がそうであるように、貯えもなく、子供もいない、そして孤独感にさいなまれている老人は世の中に多い。もしそんな老人たちがホームレス状態になり旅に出たとき、この映画にみるような(ドラマになりうる)ある種の明るさがあるだろうか、と思う。まぁ、そんな見るからに悲惨な、徘徊するホームレス老人などは映画にしても面白いとは思わないだろう。映画としては貧な老人は作品にはならないだろうが、現実、四国八十八ヵ所巡礼には、決まった住所も持たず、金も持たない老人のお遍路さんが幾人かはいる。以前、NHKで「草遍路の爺ちゃん遍路」のドキュメンタリーを放送したがこのじいちゃんがまさにそう、財産も金銭もほとんど持たず、80近い年齢で足を頼りに、野宿、善根の人々のお布施で日々遍路をしていたのである。
 そういえば今日、徳島駅で私かそれ以上の年齢のお遍路さんがベンチで座っていた。真っ黒に日焼けし、白髭ボウボウの爺ちゃんだったが、この人の巡礼生活も草遍路じいちゃんのようなものじゃないのかと思う。ただし、貧なのはいいが、「弱」ではできない。体力、気力、私にはとてもできないだろう。

 これは前者の老人よりもっとリッチな人たちである。高齢になって住む環境を考えたとき、私もそうであるが、温暖といわれる四国の冬でもすごすのはきつい。常春とまではいわなくても常夏の南海の楽園でのんびり過ごせたらいいだろうなと思ったりする。浄土教の極楽の描写を見ると、気候は秋ではなくもちろん冬でもない、初夏かさわやかな夏の日の蓮の咲く水辺という環境である。
 この老人たちはイギリス社会でリタイヤした人々である。イギリスの冬はこのあたりよりもっと気温が低く、日光に乏しいから、明るい南国にあこがれるのは日本以上にわかる。
 それで行くところはインドであり、高級ホテルで(もちろん賄い付きである)の長期滞在、ホントのところは期限のない残りの余生を最後まで過ごす計画である。企画者はインドのホテルのオーナーの息子である、良いことばかり書いてあるホテルの呼び込みのパンフレットと現実との違いも映画の面白さの一つとなっている。
 日本でも今、リッチな老人、具体的には多額の退職金や年金のある老人は、コじゃれたホテルのスウィートのような賄い付き老人マンションに入居して余生を過ごす人が多いと聞く、セルフネグレクトになりやすい独居老人には、食事つき清掃付のホテル暮らしはうらやましいかぎりである。しかしその望みがかなえるのはン千万の補償前金、月々高額の年金を受け取るまさにリッチな老人だけである。ワイらはホテル暮らしのような老後生活は金銭面で無理である。
 そういえば何十年か前、この映画にあるように日本のリッチな老人も東南アジアで老後を優雅なホテルあるいは別荘で暮らすという企画があり実現されそうなニュースを聞いたことがあるが、その話、その後どうなったのだろう、実現したのかな。
 今、日本は3Kの労働に若い人が従事したがらない、そのため人材不足から東南アジアから研修生という名目で現地の若者を労働力として入れている。そのようにしつつ、前記のように老人だけ東南アジアにまるで交換のように移住させるのは、相手の国に対しずいぶん失礼だと思うが、日本の老人の東南アジア移住は進んでいるのだろうか。
 この老人の南国移住も、高級ホテルになんどは住めないが、南アジア(ネパールやインド)といった国に老人が自分で勝手に移住して庶民レベルで暮らすことは、貧な老人にも出来そうである。なにせ南アジアの衣食住は贅沢しなければずいぶんと安上がりである。日本ではわずかな年金収入でも、南アジアでの庶民レベルの生活は充分出来そうである。しかしこれも貧はいいが「弱」ではできない、健康で活力のあふれたジイチャンでなければ出来んだろう。ワイは無理じゃな。でもお釈迦さんの故郷インドで終末期の老後を過ごすのはワイとしては夢に見るほど魅力的ではある。

 そのインド映画である。インド人は墓を作らない、火葬にした後その遺灰はガンジス川に流されるのである。インド人の聖なる川ガンジスに対する思い入れは非常に強い、輪廻転生を信じ、天上界に再生を願っている、そのためには遺灰はガンジス川に流さねばならないのである。バラナシーにあるガンジス川の岸辺には露天の火葬場が設けられている、そこで火葬すれば遺灰はすぐに川に流せる、そのため多くの遺体がここに運ばれてくる。

 インド人の考えるもっともすばらしい人生の終わり方は、死期が迫ったら、このガンジスのほとりにある終末を迎える家『解脱の家』で最後の日々を過ごし、そこで死を迎え、遺灰となりガンジス川に流されることである。「解脱の家」は病院でもホスピスでもなく、静かに自らの生を終える「家」である。
 主人公のジイチャンには立派な家があり息子も孫もいる、そんなことから成功した人生を送ってきたことが推測される、大きな病気にとりつかれているとも思えない、周囲はまだまだジイチャンの死は遠いと思っているのに、ジイチャンが自分は「解脱の家」に行き、そこで生を終える、といったことからこのドラマは始まる。
 多くの家族に囲まれ、幸せな家庭を捨てて「死出の旅路」に出ることは今の日本では考えられないが、インドではそれが理想的な生き方として今も十分な価値を持っている。そしてそれを実践する人も多い。インド人は古くから人生を、学生期・家住期・林住期・遊行期の4つに分類している。最後の「遊行期」は何もかも捨てて解脱(安らかな死)を迎えるため旅立つ時期としている。今の日本では考えられないと言ったが、仏教を通してインド的な考えに共感を覚える日本人は多い。映画を見終ってもこのインドのジイチャンの死生観に私は違和感は覚えなかった。

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