風がなくて晴れた冬の日は、寒いとは言いながら散歩には気持ちの良いものである。一昨日は徳島城公園を歩いた。紅葉・黄葉も終わっていて桜をはじめとしてすっかり葉を落とした冬木立がめだつが、暖国四国では常緑樹も多く、その緑の中に寒椿や山茶花の赤が目立っている。また冬はなぜか赤い実をつけた木々が目立つ、雪に南天の赤い実、などは俳句、詩歌の良い素材である。この初冬の徳島城公園にも赤い実をつけた木々が幾本かある。
大手門を入ってすぐ目につくのが下の常緑で赤い実をたくさんつけた木である。
ブドウの房を立てたように赤い実がたくさん重なり合って実をつけている。この辺りには数本の(今の時期)赤い実をつける木がある。そのような木で一般的なのは、クロガネモチ(モチノキ科)である。しかし周りにある赤い実の木とはこの木は似ているが大きな違いがある。それは葉っぱが広くて大きいのである。クロガネモチの木の葉は小さく椿の葉より小ぶりである。
何の木かしらん?と木の周りをくるりと一周するように見ると、反対側に木の名前と解説のプレートが幹にぶら下げられている。
タラヨウ(多羅葉)という名である。そしてその名と説明が私の頭を刺激した。それはプレートの説明にある「葉に文字が書ける」ということである。紙は紀元ごろの中国の漢の時代に発明されたとされる、じゃぁそれまで文字は紙には書かれていなかったのかというとそんなことはない。紙様(紙ではないが似たもの)のものは中国で紙が発明されるずっと以前から各古代文化圏にはあった。エジプトでは葦の一種であるパピルス紙があり、古代インドにはヤシの一種である葉を加工して作った紙様のものがあった。それを「貝葉」と称した。初期仏教のインドの仏典はこのヤシの葉のを加工した「貝葉」に書かれていたのである。詳しくいうと(下はネットからの引用)
「貝葉とは、貝多羅葉の略で貝多羅ともいう。 貝葉は多羅樹(掌状葉のヤシの一種)の葉でこれに書写した記録や経典をも意味する。 古代インドや東南アジア諸国では、紙のなかった頃からこの仲間のヤシの葉に経典などを鉄筆で刻んだ後墨をつけて拭き取る手法で書写していた。」
この中にでてくる「多羅樹」から、この公園内の木のタラヨウ(多羅葉)は同じものか?と思うかもしれないが、こちらはモチノキ科の木であり、またヤシの葉ほどは広く大きくはない、ただ葉に貝葉紙にように文字が書けるところから、その意味だけの類推からタラヨウ(多羅葉)と名付けられたのだろうとの推測はつく。
葉を傷つけるとそこがすぐに黒くなりまるでインクで書いたように文字が記される、とあるから、試しに木の根方にあった割ときれいな落葉一枚に、尖ったやはり落ち枝で「モジ」と葉の裏面を傷つけるように書いた。傷つけたときは変色しないが、しかし一分もしないうちに黒変しちゃんと「モジ」という字が黒々と刻印された。
インドの初期仏典はヤシの葉から加工した貝葉というものに書かれ、膨大な量が蓄積されたが、この貝葉は紙と違い虫害や湿気、風化に弱い、本場インドにおいてもまた同時期中国に伝来した仏典の貝葉はほとんど消滅してしまってない。紙ならば正倉院御物の紙製品などは1500年の時を経ても保存されるが貝葉はそこまで長持ちしない。
ところがこの仏典の貝葉は極東のこの日本に珍しく残っているのである、保存状態が千年数百年以上良好だったのであろう。それは法隆寺にある貝葉仏典「般若心経」である。文字はもちろん古代インドの文字のサンスクリット語である。ほとんど滅びてしまった初期仏典の貝葉にかかれたお経が日本にあるのである。下がその法隆寺・貝葉般若心経である。
徳島城公園のこのタラヨウの木はインドの貝葉紙をつくる木(ヤシの一種で多羅樹という)そのものではないが、タラヨウ(多羅葉)と名がついたのは(この木の葉にも文字が書けるという)それに由来することは間違いないだろう。赤い実をつけた木をふと見てその名が多羅葉(タラヨウ)、そして葉の裏に文字が書けるということから、初期仏典の筆記媒体の「貝多羅葉」との関連に気づいたのである。
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