2021年11月4日木曜日

季節感

  うす曇りということもあろうが日中の弱日を見ていると季節は晩秋に向かってすすんでいるんだなあと思う。しかし気温は高いようで、外を歩いても秋冷が身に染みるということはない。昨日、市内で映画ロケ地周りをしたがシャツ一枚になっても汗が出てきた。これも地球温暖化の影響なのだろうか。

 桜は黄や赤の病葉となりかなり葉をおとしたが、まだ紅葉と落葉の季節には早いようである。曼殊沙華が咲いた時から感じていたが季節はどうも遅れがちになっているようだ。その一つだろうかキンモクセイの香り始めるのが今年はずいぶん遅いような気がする。花は小さくて目立たないが強烈な芳香はキンモクセイが咲いたことを強く意識させる。昨日ロケ記念碑のそばでも強く匂っていた。やはりすぐそばに丈の低いキンモクセイが小さな花をたくさんつけていた。

 モクセイは主に香りでもって人に官能的に作用し、どちらかというと魅惑的な気分をもたらす。これと反対に視覚では舞い落ちる枯れ葉などを見ると秋の哀愁というかモノ悲しさをそこはかとなく感じる。嗅覚と視覚では秋の雰囲気がずいぶん違う。(マッタケなどに食欲をそそられるのも嗅覚である)。では五感の中でもう一つ重要な聴覚はどうか?秋といえば虫の音を思い浮かべる。しかしどうしたことか、最近はコオロギの鳴き声をとんと聞かない。歳ぃいってコオロギの音に老化した耳が反応しないのだろうか。それとも環境の変化の影響だろうか。

 哀切をおびたもの悲しいコオロギの音は晩秋の寂しさを一入感じさせるものであった。子どもに詩心はわからなくともなんとなくわびしい気持ちになったものである。小さいころの我が家は陋屋と言っていい住まいであった。障子はいたるところ破れ、土壁も部分部分が崩落し、壁土が落ちたところから竹の格子がみえた、また開放的な縁の下もあって、家じゅう隙間だらけだった。そのため夜、家の中でもコオロギの音を聞いた。寝ていてリーリーとなくコオロギの音は、夜が深々と更けわたりほかの物音が途絶えるなかよく聞こえた。日中でも雑草に覆われた家の敷地のそこかしこでもコオロギの音は聞こえた。深まりゆく秋にここを先途と鳴くのだろうか。一年に満たないはかない命の終わりはもう迫っている。

 有名な秋の詩に ポール・ヴェルレーヌ/訳:上田敏 『落葉』がある。

秋の日のヰ゛オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し

 ヰ゛オロンとはバイオリンのことであるが、コオロギの哀切を帯びたなき声を聴くとヰ゛オロンとはコオロギの音ではないのか、とこの詩を思い出す。秋のヰ゛オロンの音はコオロギの音にふさわしい。

 今日、私の親しい人が手術を受ける。遠く離れ何にもしてあげられないがせめてお祈りをと、滝のお薬師に手術の無事と病気平癒をお願いする。お参りする前後、パラパラと雨が通り過ぎた。仏様の大慈大悲の涙雨か、願いをご受納くださった徴であると思っている。

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