中世では日本でもヨーロッパでも占いは大流行りである。今でこそ「占い」なんどは、出まかせを言って迷信深い人を引っ掛ける怪しげぇ~な商売くらいにしか思われてないが、中世日本、中世欧州では全く違っていた。西洋の「占星術」は中世欧州で最も学問的権威の高い「パリ大学」でその研究が行われており、大真面目に天文現象が地上に及ぼす効果を信じており、それを読み解くのが学者の仕事とされていた。
中世欧州を襲い、人口の二分の一から三分の一を屠った「黒死病」(ペスト)の原因について、パリ大学医学部が1345年3月20日に宝瓶宮で起こった木星、火星、土星の三重合にあったとする公式声明を出している。(最高権威のパリ大学が公式にですぞ!)
日本でも同じである。太政官の律令官制(つまり政府の公式役所)には「陰陽寮」というのがあってそこの頭(かみ)博士が天文地象、天体の運行などを観察し、それを陰陽理論によって解釈し、その吉凶を太政官に報告したのである。中世においてはヨーロッパはパリ大学の医学部、日本は太政官陰陽寮、どちらもこれ以上の権威はないといいうほどの公式な、星の運行とその人間界への影響に関するコメントを出していたのである。
古典の中でも親しみ深い、『大鏡』にこんな記述があるのを知っておられる方も多いと思う。時は平安時代中期、陰陽寮の頭はあの有名な安倍晴明である。大鏡の中でも最もスリリングな政変は、だまされて天皇の位を降りることになった花山天皇の出家騒動であろう。出家の寺に向かう天皇の牛車が深夜の都大路を通った時、安倍晴明の家の前を通りかかった。すると家の中から安倍清明が手を打つパンパンという音が聞こえ、外の大路にも聞こえるように
『帝おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでに成りにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束せよ』
実は後の研究でこの清明が観察した「天変」は二つの星の「合」木星と土星がきわめて接近することであったことがわかっている。中世ヨーロッパは三重の星の「合」が黒死病の大災厄をもたらしたが、日本でも木星と土星の二重「合」は帝の位が変わる凶変だったのである。
大鏡では安倍晴明は花山帝の牛車が通るときにあたかもこの「合」を観察し、急いで奏上の準備にかかったとされているが、これは歴史物語「大鏡」のフィクションであり、ホントは安倍晴明は毎夜の観察から木星、土星の大接近をずっと前から知っており、もちろん陰陽の頭として早くに報告していた。この清明の奏上した天文現象を「凶」としてとらえ、帝が位を降りるように、圧力の一つとして藤原氏が使ったというのがどうも真相のようである。その陰謀に安倍晴明も一枚かんでいたという説もある。
さてそこで、今日12月21日である。今日の夕刻、その木星・土星大接近が起こる。昔、安倍晴明が観察した「木星・土星大接近」は、寛和2年(西暦986)夏であった。二つの遊星大接近の間隔は天空上角度で0.7°といわれている。ところが今日の木星・土星大接近はこれよりずっと近寄った(ほとんど重ならんばかりの)わずか0.1°である。もし平安時代、安倍晴明の観察した二つの遊星の「合」(「犯」ともいう)が「凶事」なら、それをはるかに上回る今日の木星・土星の大大接近は「大凶」ということになる。
今、寒くなりコロナがますます勢いづいてきている。欧州ではコロナの変異種が出現したという。中世パリ大学は游星の天空上での「犯」(合)が疫病を引き起こしたといっていた、今夕のこの遊星の「犯」(合)が、コロナという疫病の蔓延と一致しているのはなんやら不気味である。
下は午後5時40分ごろの西の空、木星と土星がきわめて接近しているのがわかる。
少し経つと二つの星はきわめて接近したのかほとんど重なったように見える。
しばらくたつと二つ星は西に沈み、午後7時前には西の山に没した。このようなごく間近の木星・土星の大接近は400年ぶり、普通の大接近でも次に起こるのは60年以上先という。
なにごともなきゃぁええが・・・
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