昨日、滝薬師の前を通りかかると、堂内から十三仏の真言が声高らかに聞こえてきて、続いて太鼓の音とともにまた別の真言が聞こえてきた。ああそうだ。今日は8日、護摩祈祷の日である。十三仏は不動明王に始まり、虚空蔵菩薩に終わる仏はんである。御祈祷になぜその十三仏の真言を唱えるかの説明もいろいろ言われているが、そんなことは実はどうでもよい。護摩壇でメラメラ燃え上がる祈祷の炎とともに、声高らかに真言を唱える僧の行為そのものが信者にとってはありがたいのだ。祈願者も一心不乱になれば、法悦に入り、いわゆる宗教的エクスタシーを得られるかもしれないし、もちろん心願も容易にかなう気になれる。呪文のようなマントラを夏のセミのように間断なく唱え、そして本尊前の盛大な炎、強く漂う魅惑的な香の匂い。このような宗教的演出は千数百年の歴史がある。日本では密教系宗派が主にそれを担っている。
現代人は宗教を容認している人でも、やはり宗教は高尚でなければならないと思っている人が多い。現世利益的な、効能ばかりを強調する、祈祷系の宗教は低次なものとうつるようだ。だがそんな人でも、心の中に、こうあってほしい、そうなってほしい、という願いや希望を抱かぬ人はいまい。御祈祷を信じる人も同じである。ただ信じる人は、一心不乱に願うその心のエネルギーをなにか形にして、あるものに向ければ成就への道が開けると思っているのである。そういうと超自然現象肯定者や神秘主義者と思われるかもしれないが、そんなたいそうなものではない。「願い事」を強く思い、それが心いっぱいに満たされたとき、思わず「あるもの」に向かって合掌したり、首を垂れるのは自然なことである。
そうならおのれ一人で静かに行えばいいことではある。もちろんそのような祈祷もある。し、とやかく言うことではない。だが人は魅惑的な宗教儀式にあんがい強く惹かれるものである。願い事を派手なパホーマンスにのせてやることで、宗教的というのがいやなら、心としてもよい、その心に満足感を得るのである。護摩祈祷などは盛大にボンボン火を燃やし、真言を高らかに唱えるため、なにか、人の持っている目には見えない祈祷のエネルギーが、火炎やマントラのように、目に見え耳に聞こえる形としてあらわれ、本尊の前で湧出するように思える。いかにも効きそうである。例えが適当でないかもしれないが、効かないと思って飲む薬より効くと思って飲む薬の方が、効果が大きいのとよく似ているかもしれない。
そのためか真言密教の護摩祈祷は、今の世でも結構人気がある。最近の寺は檀家離れが進み、また無宗教の葬儀が増えているため収入が先細っている中で、この「護摩祈祷」はいい収入源である。今はどうか知らないが大昔は、祈祷のお坊様は、まず美声の持ち主であることが第一番、そして美男ならなおよい、とされたのは頷けることである。
通りがかっただけなので堂内に入るのは遠慮した。外から太鼓の音と真言が流れているのを動画撮影した。十三仏を唱えた後なので太鼓の音は聞き取れるが真言は先ほどより声量も小さくなり、何を言っているのか外からはわからない。
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