前回たどった廃線は、大正時代に存在した。私の祖父の青春時代の話である。昔話に撫養へ行った話を祖父から聞いたことがあるので、おそらくこの路線にも乗ったに違いない。私に昔話として話した時点で、その連絡船と組み合わさった路線はとうの昔に廃線になっていた。祖父の心の中まではわからないが、何か懐かしさを感じるものがあったのだろう。今になって思えば、祖父の昔話をもっとよく聞いておくんだったなと後悔している。
祖父には懐かしかったかもしれないこの(吉成~古川)間の廃線だが、私の生まれるずっと前の話で、その廃線跡を辿り、ところどころここかなと立ち止まって写真を撮っても特に思い入れなどはない。しかし、今日のブログで取り上げる廃線には複雑な哀愁がある。その廃線は国鉄・鍛冶屋原線(板野~鍛冶屋原間6.9km)である。大正12年に開通したが、高度経済成長が始まりモータリゼションの波が急激に高まり列車利用者が減ったため昭和47年に廃線になった路線である。
私が3歳か遅くても4歳まで(昭和29頃)この路線のタミナル「鍛冶屋原駅」のすぐ近くに家がありそこに住んでいたのである。鉄道と並行に走る駅裏の道から少し下ったところに家があったのを覚えている。小さな家だが一戸建てで、そこで父、母、妹の三人で住んでいた。今の言葉で言えば「夫婦と子供二人の核家族」である。わずか3歳だった幼児の私にその時の鮮明な記憶はない、ただ、定かとは言い切れない夢のようなおぼろな記憶が断片的に残っているだけである。
あやふやな記憶らしきものにはいくつかあった、家の台所棚にガラスのコップ、それと同じ棚にラジオがあった、なぜそんなものが記憶に残っているのかわからないがほかの物の認識はない。そして外出するとき(誰に連れられてかわからないが)まだ乳飲み子の妹が縁の手すりにつかまって、アァ~ンとこちらを見て泣いていたこと、また別の記憶では祖父だろうと思うが家に迎えに来て連れていかれるとき家の奥には母がぽつねんと座っていたこと、などわずかである。家の周囲(つまり駅付近)の記憶はただ一つ。それは夜である。たぶん駅裏の家のあたりの夜景だろうと思う。転轍機(ポイント切り替え機)の上についている赤や青のやけに寂しい信号機の明かりが唯一である。
私は事情があって上記の時(3~4歳)以後、そこから10kmばかり離れた祖父母の家に引き取られ、以後祖父母に育てられた。つまり鍛冶屋原駅裏のこの小さな家でのこのおぼろな記憶は、唯一、両親と妹と私の4人の一家団欒の時代があったことをしめすものだ。世の中には片親やあるいは祖父母に育てられる子は多い、そんな中でも幸せに暮らす子も多いが、やはり二親のもとで育てられるのが子供にとって一番いいに決まっている。もう取り戻せない過去ではあるが、その一家団欒の記憶がほとんどないのが残念である。いやむしろ小さすぎて記憶などが全然ないほうがいいかもしれない(妹はようやく乳離れした幼児だったのでこの時の記憶などは全くないだろう)。断片的におぼろな記憶があるだけに、よけいにこの時代を哀切とともに振り返ろうとする、ところが悲しいかな記憶が残るギリギリの幼児だったため、そのおぼろな記憶も大してよみがえってこない。このもどかしさは何とも言いいようがない。
その大切な珠のような貴重な記憶も70年近くも生きると少しづつ風化し、霧消していきつつある。老化、ボケとともに大昔の記憶もなくなっていく。10代や20代の時はもっと記憶も多く鮮明であったのは確実である。というのも、あれは忘れもしない小学校6年生の時だ、やはり昔の楽しかった家庭への懐古がやみがたかったのか、自転車で10km近くある鍛冶屋原の駅裏のその小さな家まで、遠出して見に行った記憶がある。そして実際その家を見つけた。8年以上たっていたがその家は、ちゃんとあった(もちろん別の人が住んでいる)。その行動を今から考えてみると、小学校6年当時の私の記憶は、駅とその家の位置関係、そして家の形などを確実に覚えていたのである。
その廃線の鍛冶屋原駅跡を歩いてみた。
駅だったことを思い出すよすがとなる物は残っていない。昭和47年に廃業ということはほぼ半世紀前である。せめて地形にでも(線路あとの盛り上がった長い丘のようなもの、プラットホムの石造の跡など)と探したが見つからない。お上や当局者が意図して駅の遺構となるようなものを残さなければ栄枯盛衰激しいこの世の中で消滅もやむを得ない。
ただ最近作られたであろう御影石のこのような記念碑が立っていて辛うじてここに昔駅があったことを示している。
この記念碑から北の方角を見ると道路にしては広い場所が広がっている。これはここが昔駅前であったことを示している。広場の隅に消火栓を大きくしたような大昔の赤い郵便ポストが立っているが、もしかすると半世紀前、駅があった時からの遺物かもしれない。
駅舎跡は今は商工会議所と銀行のビルが建っている。鍛冶屋原駅はタミナル駅(終着駅)であったため駅構内は広かったと思われる(多数の線路、引き込み線、蒸気機関車の時代は円形の機関車の向きを変えるターンテブルもあったはずだから当然広い)、今その構内あとは大部分が運送会社とそのトラック駐車場になっている。
記憶では我が家は駅裏(つまり線路がいくつも走る構内の南)の道にあった。まずその場所で間違いないと思われるところに行って写真を撮ってきた。もちろん当時の家はなく新しい家が建ち、整地したため地形も少し変わっていたが、道路より少し低い敷地に建っているのは昔のとおりである。小学校6年の時にも訪れ、記憶を確認していたためわかった。
もう父母、祖父母、みんないない。おぼろなこの記憶も遠からず私とともに消え去るだろう。残るのは廃線の鍛冶屋原駅跡を示す墓標のような碑のみである。私にとってはなんとも哀愁漂う廃線・鍛冶屋原駅跡の探索であった。
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