2020年11月30日月曜日

夜の鴨島駅前

 鴨島駅前は往年のような賑わいはない。銀座通りはほとんどがシャッターを閉じ店じまい。そして中央通りも半分以上が店を閉めている。日暮れの早い今日この頃、午後6時ともなれば暗く、時折の汽車の到着時以外は、人通りもほとんど絶えてしまう。

 でも今年は下の写真のように電飾を駅前に取り付けた。少しでも華やかにという願いを込めてのことだろうか。しかし人気のない寒い夜、こうやって見ると華やかと言いうよりいっそう寂しさをかき立てるように感じるのは私だけだろうか。


2020年11月29日日曜日

大正時代の廃線跡(阿波電気軌道)を行く

 モラエスはんは、随想や日記などで大正時代の徳島の風俗などを記述してくれている。徳島の土着の人が気づかないようなことを取り上げていたり、また日本人とは違う視点でいろいろ書き残してくれているので、大正時代のことを知るうえで貴重な資料ともなっている。 

 しかし残念なことに出雲に住んでいたラフカディオハンと違って郷土に伝わる昔話(怪談や妖怪話など含む)は彼の随想・日記にはほとんど出てこない。もし彼がラフカディオハンのように徳島の昔ばなしや狐狸妖怪の類の話を書いていてくれれば、昔の徳島の民俗研究としていい資料となったであろうが、なかったことはいくら言っても仕方がない。

 民話・民俗をあまり叙述していないモラエスはんが徳島の数少ない鬼伝説のある鬼骨寺の話を知っていたかどうかわからない。もし鳴門へ出かけてわざわざ鳴門北灘にある鬼骨寺を訪ねていれば、もしや鬼骨寺の鬼伝説も知っていたかもしれないと思うが、鳴門へはモラエスはん、二度ほど小旅行しているが鬼骨寺へ行ったという記録はない。

 ここからはいささかフィクションも含まれてくるが、毀滅の大正時代、モラエスさんが鳴門へ行くにはどうしたらいいか、ちょっとその交通手段を考えてみた。

 「交通手段って?」、「何をアホぉげぇ~たことをゆうとんかいな、国道11号線をまっすぐ、行きゃぁ、ええんでぇ、大正時代で車がなかったら、歩いていったらええんでぇ、朝はようでりゃ、ゆっくり歩いても日のあるうちには鳴門へつくでよぉ」

 と言われそうだが時は大正時代である。行くことはそう簡単ではない。吉野川の本流にはちゃちな木造の賃取橋はかかっているが、渡っても北岸は旧吉野川やその支流が蜘手のように流れていて、何度も何度も中小河川を横切らねばならず、まだ橋が架かっていない川も多い、そのため陸路で行くのは大変困難である。むしろ鳴門まで船を使うほうが便利が良いし、結果として早く着くのである。

 事実、モラエスはんが第一回の鳴門旅行を試みた大正四年、モラエスはんは新町橋のたもと(富田橋付近の可能性もある)から小さな巡行船に乗って鳴門・撫養の文明橋あたりまで行っている。その時、新町橋からどのような水路をたどって鳴門まで行ったか、以前ブログにしているのでそちらのほうを参照してください。(その時のブログ、ここクリック

 モラエス爺さん、第一回鳴門・撫養旅行では、天下の奇勝「鳴門の渦潮」を見学してきた。それから一年ほどたった十月、秋の良い日和のころであるである。モラエスはん、また鳴門への旅行を思い立った。実は前回の旅行でモラエスはん、鳴門への旅はかなり懲りたのである。巡行船はともかく狭い、船室は箱型だがとても立ち上がることなどできない、身をかがめて座っているか、横になって寝るかしなければいけない。空いていればまだしも鳴門航路は大体いつも一般客や商用客で混んでいる。モラエスはんは180cm以上の身長があるので、船内で過ごすのはほとんど拷問に近い。それが3時間もつづくのだ(鳴門まで3時間かかったことがわかる)、最初は船室にいたが、耐えられず、結局モラエスさんは船室の上の(屋根部分だろうか)オープンスペースに(風が吹き曝しだが)自分の居場所を確保し、やっと一息つけたのである。

 鳴門への水路は先の私のブログを見てもらったらわかる通り、北岸では大変複雑な水路を選ばなければならない、水路も曲がりくねっていたり、また狭い水路で水深は浅い、また上には跨ぐように小橋が架かっていたり、暗渠のようになったトンネル状のところもある。巡行船といっても喫水線も浅く、幅も狭く、特に船高は低く作られなければならなかった。そんな船だから満席で大男のモラエスさんが船室で過ごせるはずはなかろう。

 ともかく前年の徳島から鳴門までの水路を辿る旅は非常に不快なものであった。もう二度と行くまいと思っていたはずだが、再び思い立ったのはどうしてだろう。それは今年大正五年に徳島市の対岸から鉄道が撫養まで開通し、鳴門まで行けるようになったからである。7月には営業が始まり、それに伴い、徳島から鳴門までの所要時間が3時間から半分の一時間半に短縮された。何より快適になったのは、前年は鳴門まで3時間も不快な船旅だったのが、鉄道連絡に伴い、船旅は45分になったことである。おまけに新町橋(富田橋始発)から吉野川までの水路は幅も広く、低い橋もなく、広々とした水路を航行し、大河の吉野川横断などは、むしろ川の船旅の風情を楽しめるまでになった。

 さて秋晴れの一日の始まりを思わせるような朝焼けの中、モラエスさんは支度をして家を出た。この年モラエスはんは62歳で当時としてはもう十分老年である。足腰にちょっと不安もあったので、最近、良く付き合っている近所の士族の息子を鳴門の旅に誘った。もちろん費用すべてこちらが負担する。この息子、二十代、容姿はかなりいいほうで、人付き合いもいい男だが、どうも怠け癖があるらしく、家でぶらぶらしているので旅に誘うと喜んで同行するというので二人旅となった。(モラエスの随想を見ると実際、隣にこのような息子はいたようである。中等学校を落第したとか、小学校の教師もしていたとか書いている

 北岸の鳴門までの鉄道開通に伴い、船の便は鉄道の連絡船となる。一日8往復である。モラエスはんは早朝の始発便の連絡船に乗ることにした。モラエス宅の伊賀町から富田浜まではそう距離はない、あるいて十数分もあれば連絡船乗り場だ。いまこの発着場は富田橋たもと国木田独歩の文学碑「波のあと」があるあたりである。


 連絡船は水路航行のポンポン船であるが去年の巡行船より大きい。客室もかなり広く作られている。新造船ではないが、今年の連絡船開業に合わせ、大阪の水路航行船をこちらに運用したようだ。何より良いのは大きな船でないにもかかわらず、一等船室が区切られて存在していることだ。一等といっても固い椅子席で狭いが、詰めるだけ詰め込む下等の畳席と比べれば雲泥の差だ。当然モラエスはんは一等の切符を隣の息子の分とともに購入し一等席に乗り込む。

 当時の連絡船の写真は残っていないが下のような船だったと考えられる(これは大阪の水路を運航していた客船である)



 また郷土の画家・飯原さんが情緒のあふれる当時の連絡船を油絵で描いている。

 吉野川北岸までは所要時間45分、船着き場と隣接している連絡駅には鳴門行の汽車がひかえている。駅名は「中原駅」である。ここで乗り込めば一路、鳴門まで通じている、汽車の所要時間も45分である。連絡船の船着き場と駅は独特の雰囲気がある。この中原駅もそうだったのだろう。ワイの青春の旅を思い出してしまう、学生時周遊券国鉄の旅、終着駅青森駅、一斉に駆け抜ける連絡橋、そして乗り込んだ青函連絡船、函館港に待機している列車、乗客に食べ物や土産を売る行商の人々・・いやそんな遠い例を出さなくても、ワイらの若い時、まだ瀬戸内海に橋は架かっていない、高松駅で宇高連絡船に乗り換えたときのあの雰囲気、そぞろに旅愁を感じるのである、そして連絡船内で食べた宇高名物の「うどん」おいしかったこと・・などなど、かろうじて令和の歳寄りは連絡船の独特の雰囲気を覚えている。

 しかしモラエスはんは若いころ七つの海に雄飛した海の男である、連絡船ごときの船着き場に情緒などは感じない。むしろ何かの手伝いにと同行した隣の息子のほうが、一等船客扱いに舞い上がったか、連絡船波止場の雰囲気に酔ってしまったが、立ち止まってグズグズしている、さっさと列車に乗り込んだモラエスさんが、車窓からこの青年を促す始末となった。

 連絡船客が乗り込めばすぐ出発しようと蒸気圧を上げた機関車が待機している。この駅は連絡船の乗換駅ではあるが、函館駅や宇野駅と違い始発駅ではない。始発駅はもう一つ手前の「古川駅」である。この始発駅・古川は今、吉野川橋の北詰あたりに旧駅舎があった。なぜ連絡船の船着き場が始発駅にならないのだろうか?

 今、この旧古川駅あたりは昭和3年完成の鉄橋(車・人・軽車両用)「吉野川橋」がかかっている。当時はそんな立派な鉄橋はなかったが、明治になって地元有志が資金を募り、吉野川南岸からここまで「木造橋」が作られていたのである。かなり長い橋であったが頑丈なものではなく、洪水にたびたび一部、あるいは大半が流されるちゃちなものであった。それでも渡し舟に頼ることなく吉野川の南岸から北岸に行けたのである。下がその木造の古川橋である(写真と先ほどの飯原さんの絵もあげておく)。水害でよく一部流失するため橋は木造のつぎはぎだらけで時によると、補修が間に合わず、一部船を並べての浮橋の部分もあった。当然、荷重が過度に加わる場合、つまり混みあうとか、過度の重量を持った車などは通行を制限された。また現在と違い、このような橋は賃取橋で通行料がいった。


 大正以前に上図のような木造の橋が架かっていたため、吉野川を渡し舟で渡らなくてもよく、徳島市街から歩いて橋を渡った人は、大正五年に阿波電気鉄道がここの始発駅・古川で鳴門行の列車に乗ることができた。だからこのコースととると全く船に乗らずに鳴門まで行くことは可能で、実際、始発の古川から乗る人も多かったが、徳島市内から行く場合はかなり不便であった。ここまで乗合自動車(バス)が出ていればいいが、乗り合い自動車が初めて徳島を走ったのはわずかこの二年前で、この年になっても市内の乗り合いバスはたった一台、それも南の方の路線を数往復したくらいで市内から吉野川北岸の古川まではいく乗り合いバスはない。そもそも上図のような貧弱な木造橋でそんな重量の乗合自動車を走らせるのは無理であった(ブチめげてしまう)。乗り合いバスやトラックが通れるようになるのは昭和三年の鉄橋・吉野川橋の完成を待たねばならなかった。

 だから鳴門へ行くのにどうしても舟に乗るのが嫌な人は、市内からテクテク歩いて今の吉野本町の堤防まで歩き、そこに架かっている賃取橋の入り口で金を払い長大な(1km以上ある)木造橋を歩いてようやく橋北詰にある古川駅で列車に乗れるわけである。そのようにして市内から歩いて古川駅へいって鳴門行に乗った人もいるにはいただろうが、それより富田浜や新町橋から出ている連絡船で北岸の中原駅まで直行し、連絡列車に乗るほうが時間的にも早いし、また快適であった。

 その路線を示した絵地図があるので見てみよう。これは昭和6年の絵地図であるので、大正12年に開通した池ノ谷~鍛冶屋原線もあるが、鳴門線は今と同じ池ノ谷から東へ分岐している。(昭和6年の吉野川橋はすでに木造橋でなく今と同じ鉄橋となっている、ただし鉄道橋は昭和10年の架設を待たねばならない


この路線を今と比較すると、鍛冶屋原線は昭和47年に廃止されてないが、鳴門線は今も残って営業を続けている。ただし、昭和10年に吉野川に鉄道橋が架かり、佐古から吉成駅まで通じたため吉成から古川の間の路線は廃線となった。上の絵地図の中原駅~古川駅はそのため今はない。

 その吉成から古川までの廃線跡を、ここかな、と見当をつけつつ歩いてみた。その前にググルの地図で昔の廃線跡をあらかじめ予想しておいた。下記の地図がそうである。


 赤い線が廃線跡と推定されている。しかし吉成から中原~古川までの線路は85年も前に廃線になっているのでその跡地の痕跡は全くない。ただ黄色の矢印①②③の地点あたり、黒い線で示している区間は現在の道と一致している。それ以外の区間は田畑や住宅敷地である。そのため廃線跡を辿る(歩く)といっても黄色矢印①②③あたりの道路と、中原駅から古川駅までの赤い破線(ここは現在堤防下道路が走っている)で表示されているところだけである。(この点、旧鍛冶屋原線や旧小松島線の廃線跡は道路になっていたり、記念の遊歩道になったりしているので、辿ることがずっと容易である

 出発!

 大正五年の開業時もこの位置にあったであろう「吉成駅」を出発


 分岐の線路が中断し、錆びたまま放置してある。大正五年の分岐線路ではないだろうが、旧中原~旧古川駅方面は方向としてはこちらに分岐している。


 下の写真で、ちょっとわかりにくいが少し盛り上がった線路跡をずっと伸ばしてみると道路となっている(送電線鉄塔の左)。これが上の地図で示した①黄色の矢印あたりの道路である。


 この道路は県道・北島応神線の下を抜けて続いている。


 この県道下のトンネルを抜けて、振り返って撮影した写真が下である。この辺りはほぼ大正五年開業の旧線路跡とみてよい。


 そして下は、上の地図の黄色矢印②を通り過ぎて振り返り、北向きに撮影した写真、この辺りから、道路と廃線跡が一致しないため辿れ(歩け)なくなる。赤信号あたりから右に(畑の中)曲がっていると推定されるため、歩くのは無理となる。


 途中(地図上でも示されている)、別宮八幡神社があったのでお参りする。


 再び③あたりで道路と廃線跡が一致する。下が③から、旧中原駅があったであろうあたりを撮影した写真。道は左にカーブしているがカーブミラーをずっと進んだあたりが中原駅と推定される。


 連絡船船着き場と中原駅(推定)の間は今は高速道路と吉野川堤防ある。高速道路下を抜け、堤防に上がると広々とした吉野川が広がる。この辺りに連絡船の船着き場があったのだろう。


 先にも言ったようにこの連絡船乗り場の中原駅は始発ではない。さらにターミナルの古川駅まで線路は伸びている。この中原駅からは堤防沿いに線路が走っていたと思われる。下は中原駅と古川駅の中間点あたりの堤防下道路、左の藪のあるあたりだろう並行に旧線路が走っていた。

 

 そして今の吉野川橋北詰の少し手前、四国大学(写真左)があるあたりが始発・古川駅があったあたりであろう。

2020年11月27日金曜日

二度楽しめる蜂須賀桜

 ソメイヨシノのような桜木の鑑賞は一年に一度、それも花の盛りか散り初めで、美しいのはせいぜい一週間内外であろう。

 花の季節とは半年違いの秋は紅葉や黄葉が木々を美しく彩り、目を楽しませてくれるが桜木は落葉樹であるにもかかわらず、早々と葉を落とし、また残った葉も病葉のようでちっとも美しくない。

 その中で早咲きの「蜂須賀桜」は今、色づいて落葉しつつあるが、けっこう鑑賞に堪えられる。下は昨日の蜂須賀桜並木の写真である。春は桜花、秋は色づく落葉、二度楽しめるようだ。 

2020年11月26日木曜日

徳島、歴史的建造物が少ないと聞いてはいたが、毀滅の大正時代さえ・・

  わが徳島県で最古の歴史建造物といえば、室町時代に建てられた「丈六寺山門」であろうか。これはよその県と比べても、最古というにはいかにも新しいといわねばならない。奈良にある飛鳥時代の法隆寺ほど古いものはなくても、最古というからには平安、鎌倉時代の建造物が残っていてもよさそうなものである。古いものを残したがらない県民性なのかなとも思ってしまう。

 毀滅の大正のブログを書いていて、わが県に残る大正時代の建造物を探していたが、これも見つからない。わずか100年びゃぁしかたっていないのに市内を探しても、大正時代の建造物が見つからないのである。ワイがチンマイとき昭和30年代前半ころ、は木造の古い民家、あるいは町屋、長屋のようなものでも大正期に建てられたものはまだ存在していた。しかしそれらは老朽化が進み、台所・風呂、便所なども旧式であるため、昭和40年をこえると次々と取り壊されていった。

 当時としたらまだ半世紀もたっていない大正期の老朽民家なんど、なんの価値もないものと思われていたのは仕方がない。昭和40年頃は大正のボロッちい家などは保存すべき価値(特に民家は)はなかった。しかし一世紀以上たち大正期の建物がほとんど消滅してしまった今、歴史的建造物としての価値が出てきた。どんどん取り壊される中、古いものに固執する人、固陋と言われても古いものが好きな人が一人くらいいて、大正期の民家を今に残したのが一軒や二軒あってもよさそうなものだが、大正期の現存する民家は絶滅してしまった。

 今徳島で、比較的近似の時代の近代的歴史建造物を探すと、県庁と牟岐線の鉄道を挟んでレトロな洋館建・三河邸があるが、あれは昭和4年の建物で大正期ではない。他、レトロなビルディングも(旧銀行や商社)も幾つか残ってはいるがこちらも昭和7~9年ころの建物で残念ながら大正期の建物ではない。大正期の毀滅のブログを書き始めてから、あっちゃこっちゃ大正期の建造物を探したが、民家や長屋、町屋などは市内ではどうも見つかりそうもないのであきらめた。

 結局市内で毀滅の大正期の建造物といえるのはこの二つしかないんじゃないのかとの結論に達した。もし市内にほかに大正期の建造物を知っておられる方がいればお教え願えればと思っております。

 その1(居住できる建物ではない)、徳島佐古配水場の赤煉瓦建築


 正面入り口の門、鉄柵は大正期の建築を再現している。ただし配水場本体の赤煉瓦の建物は昔のままである。

 反対から見た赤煉瓦配水場、若い坊ちゃん嬢ちゃん方がこの横を通ってもき、やはりレトロな雰囲気を感じるのか、いつ建てられたかは知らなくても、立ち止まってみたりスマホで撮影したりしている。

 その2
 建造物といえるか疑問だが、徳島公園内に静態保存されている蒸気機関車「8620型」も製作年、使用年とも大正期だ。これは鬼滅の刃・無限列車のモデルとなった機関車である。

 これ以外に、市内に何か大正期の建造物があればぜひお教えください。

2020年11月25日水曜日

今日11月25日は

  ちょうど50年前の今日、私は地元大学の学生であった。古い木造の校舎で一般教養科目の哲学の講義を受けていた。その時、先生から三島由紀夫が割腹自殺したことを講義の前に聞かされた。今思うと先生はそのニュスに思い入れがあり、なにか学生を前に一言述べたかったのだろうと思うが、一つの犯罪事件に個人的な感想を講義に持ち込むのはいけないと思ったのか、知らせただけで何も言わなかった。私はその講義の時までに三島らのグルプが自衛隊総監室に入り、人質を取り占拠していたのはニュース速報で知っていたが、この講義の時に彼が割腹自殺したことを知った。

 当時、三島由紀夫の名前は、まだ若いが大作家という名声を勝ち得ていたこと、高校の現代国語に、ちょっと忘れたがなにか小品が載っていて読んだこと、最近は右翼的な政治団体を作り、いろいろ活動し世間をにぎわせている、程度くらいの認識しかなかった。当時の大学生の傾向としては、私は珍しくノンポリ学生だったので、彼の政治的な主張などは(右だろうが左だろうが)全く興味がなかった。

 しかし彼がなくなってのち、なんのきっかけか忘れたが、「金閣寺」を読んだ。その時は私も若く、(自分では)かなり屈折した性格と思っていたので、その主人公に共感しながらよんだ。その後、この「金閣寺」は何度も読み返したが、最初はその主人公への共感として読んだものが、小説の中に「美」や、「歴史の精神」とでもいうようなもの、そして禅宗の「仏教哲学」などがちらちら現れているのを読むようになり、少しばかり深読みができるようになると、彼の作品全般に興味がわき、それからは次々と彼の作品を読んでいった。

 結局、50歳までには彼の全集に収録されている作品はすべて読んでしまった。私がある作家のファンになり、全集をすべて読破したのは二人、この三島由紀夫と中上健次だけである。どちらの作家も45歳前後でなくなっているのが共通である。題材の傾向、小説の背景、主題、モチーフ、そして文体、思想、などは全く違うが、言葉ではちょっと言い表せないが、二人は似たものがあると漠然と思っている。たとえが適当でないかもしれないが、ギリシャの芸術や思想の最も奥深い底を流れる二つの潮流、アポロン的なものとディオニソス的なものとでも言おうか、相反するものでありながら、本体と影のように切っても切れないもの、そのようなものを二人の作家には感じた。

 彼の文章は独特な修辞、様々な比喩(これがまた美しい)、そして国語辞典の隅をつつかなければ出てこないような難解な漢字熟語、古典文学や古典芸能の教養がなければ味わいが失せてしまう文章など、一般に難解といわれているが、それだけに何度でも味わって読む価値のある作品である。

 彼が死んだ直後から、あるいは今になっても、彼の(一般にきわめて政治的な行動とみられている)割腹自殺に至る行動、そして彼の死、について、文学者、評論家があれこれ言ってきた。たとえば「彼の今までの主張、主義から引くに引けなくなって、仲間とともに死を選んだのだ・・云々」、ある高名な推理作家は「彼の文章は生き生きした生活には根ざしていない、きらきらと飾られ美しいが、空疎なものであり、そんなものを書き綴っていけばやがて行き詰るに違いない、彼の自殺は、やっぱり俺のみたとおり一種の行き詰まりだ・・云々」と、右翼的な人以外はかなり否定的なものであった。

 しかし、私は、生き残ったものが、三島が生きているときの(また死んでいった)行動をあれこれいうのには全く耳を貸す気にもなれない。彼ははっきり言って「文学の天才である」同じように若くして亡くなった音楽の天才にモツアルトがいる。彼が品性下劣で、道徳的に問題あろうが、金銭的にだらしなかろうが、彼が死んで天才としての名声が鳴り響く中、彼の評価はひとえに彼の「作品」にかかっているし、それのみが後世に生きる我々が知り、味わえばよいものである。彼が現実にどう生きてどう死んだかは私には関心がない。私の三島は作品の中のみである。だから残された三島の膨大な作品についての評論ならいくらでも傾聴する。

 三島は国内においては毀誉褒貶が多い、若い人の中には、文豪として認識していない人もいる。彼の偉大な文豪としての名声は国内よりむしろ海外でのほうが高い。日本語が達者で日本文学の研究者として知られるドナルド・キーンさんも彼は一世紀に現れるかどうかのまれにみる天才と評価している。実際はもらえなかったがノーベル文学賞級の作家であったことは海外の方がよく知っている。

 先日、図書館で「小説家の見つけ方」という映画のDVDを借りてみた。内容は、ピューリッツァー賞をもらった文豪でありながら世間交わることを嫌い隠遁生活を続ける老作家が、市井の、どこにでもいる高校生、いやむしろ劣等感を抱いている黒人の高校生の文才を見抜き、その著作活動にかかわっていくという話だ。その引きこもった老作家の書斎に黒人の高校生が初めて訪ねたとき高校生の目線とともに書斎のシーンがぐるりと回るが、その多く積まれた文学書の中に、私は三島由紀夫の著作が少なくとも2冊は確認できた。

 下がそのDVDと、二冊の三島作品のスチール写真である。英語題だが、「金閣寺」と「潮騒」であることがわかる。このように海外での三島は日本近代文学の代表として真っ先にとりあげられる作家である。(この点、川端や大江などの比ではない)


 彼はあのような事件を起こし、割腹自殺したこともあり、青少年に読むことを勧めるのにはためらいがあるかもしれないが、三島文学は日本近代文学が到達した最高峰、金字塔と思っている私としてはどんどん読んでほしいと思っている。

2020年11月24日火曜日

鬼伝説 鬼滅の刃から考える

 第一巻しか読んでいないが、ジジイとしてはこのコミック本、「鬼退治」の話の一種として受け取った。日本各地にある鬼の伝説はほとんどがそれ(鬼退治)に類する。中にはエエもんの鬼や、改心して悪から足を洗う鬼もいるが、それは鬼退治という主筋が進行する過程で、派生的に生まれたもので、退治される鬼の本質は変わらない。そもそも鬼は存在自体が「征伐され退治されるモノ」という宿命を負っているのである。

 なぜそんな因果な宿命なのか?それは「悪」の権化だからである。人も時として悪をなす。見逃される小悪もあるだろうし、指弾され自らの命をもって償わなければならない大悪もある。種類程度はさまざまである。人のなす悪で最大の、いわば究極の「悪」を抽出し煮詰め、結晶させ、それを受肉させたのが「鬼」である。なんのことはない人のこころ中にある極悪を投影したのが「鬼」となるのである。

 許されない大悪をなした人を、人ではあるが「○○鬼」と呼んだりする。「殺人鬼」「食人鬼」、あるいは「鬼畜の所業」と呼んだりもする。鬼は人の世の存在の埒外、どことも知れぬ異界からやってくる別種の生き物のように思われているが、そうではなく極悪をなした人を映す鏡の反対側に鏡像として、対称的位置に存在しているのである。

 だから鬼が生きるに必要で最も重要なのは、人がなしうる最大の悪行、「見境のない大量殺人」、そして「人肉嗜好」(つまりおいしく人肉を食べること)をすることである。これが鬼の存在意義といってもいい。これなくしたら「鬼」ではなくなる。このような生き物は「人類」と相いれる存在ではなく、必ず退治されねばならぬのである。

 次にその鬼退治について見ていこうと思う。


 全国的に知られ、大人から幼児まで知っている鬼退治と言えば「桃太郎」の話が有名である。絵本などで取り上げる桃太郎の鬼退治の話は単純であるが、オリジナルはもっと複雑なものではなかったか。そもそも桃太郎誕生の元となった「桃」、あれは邪気を払う霊果とされている。その桃から生まれるというのはなにかの誕生秘話がありそうである。親代わりの爺さん婆さんが桃太郎を育てるのもサラッと流しているが、成長期の教育は一番大事である、いったいどんな成長秘話、あるいはエピソドがあったのかわからない。また鬼が島へ出かけるにあたっての携帯食料「きび団子」を持っていくが、これも何かいわくがありそうである。助っ人の犬、雉、猿が次々現れるが、その絡みの話は端折られている気がする、それぞれに小ドラマがあり、それら動物が鬼退治に参加する意味づけがあるのではないか、・・などなど、決して単純なストーリーではない気がする。このように考えて話を膨らませると鬼滅の刃ほどではないが、結構な巻数の桃太郎鬼退治コミックになるのではないだろうか。

 桃太郎の話はおとぎ話的な色彩が強いが、本格的な鬼退治で有名なのは「大江山の酒呑童子の話である。これは以前、ブログにしているのでそれを見ていただいたほうがいいだろう。

 大江山酒呑童子の話ここクリック

 酒呑童子の話は、都(京都)に近く、いろいろな古典文学や能(能では題は大江山)などに取り上げられ、また映画にもなっているので有名である。しかしよく似た話は全国各地に数多くある。いちいち取り上げればきりがないので、その中から一つ、わが徳島(阿波の国)にある鬼退治伝説の話を紹介する。

 阿波の国の最北端、瀬戸内に面した北灘が舞台である。ここにその名も「骨鬼寺」という寺がある。その寺伝に伝わる話である。

 この地にはいつからか親子4匹の鬼が住み着いて近隣の村人らに害をなしていた。たまたま浄土宗の開祖・法然が讃岐配流を命じられてこの地へ流れてきた。鬼たちは当然、法然を襲おうとしたが、逆に法然に仏の道を諭され、今まで自分たちが犯してきた所業を悔い、浄土に生まれ変わるべく崖から身を投げた。村人たちはそれに感じ入り、鬼の遺骨を境内に埋葬し、寺号も現在の鬼骨寺へと変えたと言われている。

 寺伝では上人に諭されて、所業を悔い投身自殺とある、たしかに悔いたこともあるだろうが、空気を吸うように極悪をなさねば生きれぬ鬼にとって仏心が生まれ悪をなすことができぬようになれば、もう鬼の身としては生きられなかったのだろう、あの世での転生しか選択がなかったと思われる。法然さんは宗教的な聖人であるから武力は用いていない。武力に代わるものとしての有難い説法である、それを受けての鬼の回心であるから、これも鬼退治の伝説の一種と考えられる。

 下が鳴門市北灘にある鬼骨寺山門


 この寺にはその時投身自殺したと思われている(?)鬼の骨、角、爪、歯、なんだろう?よくわからないが、鬼の遺骨の一部とされるものが寺宝として大切に保管されている。下の写真がそれらしい。


 次に二種類の鬼をあげておく、鬼滅の刃に登場する鬼はもちろん前者である。

 下図は百鬼夜行絵巻の鬼であるが、他の大勢いる妖怪の一つにしか過ぎない。異類異形の妖怪とはいえ、有情(うじょう)・生きもの、であるから喜怒哀楽もあり、間違いや失敗を犯す存在である。もちろん鬼もそうである。そのためかなにかしらんこの赤鬼、ユーモラス感がただよう。

 鬼の極悪を平気でなすことができる性質は、地獄の獄卒にふさわしい。「地獄の鬼」は上の妖怪の仲間の鬼ではなく、ひたすら亡者を苛むことに特化した鬼である、一説には地獄へ落ちる人の「悪業」が凝り固まって地獄の鬼になるという。そのため何の情も持たず(有情・生き物、ではない)、淡々と地獄の業苦を亡者に負わせる、ユーモラス感など微塵もなく、ゾッとするような醜悪な顔かたちをしている。

2020年11月23日月曜日

今年はこんなだから、菊人形はないが、代わりに

  私が生まれるずっと前から「鴨島の菊人形」は有名だった。(チンマかったので全国的にか地域限定かはわからないが)子どもの頃は「有楽座」という芝居小屋とアミューズメントパクを兼ねたような娯楽施設で菊人形が大々的に行われた。私の家の近くということもあり、秋が来て菊人形が始まると、周り一帯が華やかになった。単なる菊人形展示ばかりではない。「十二段替えし」などと称して、舞台上に菊人形を上げてお芝居をするのである。

 舞台で菊人形がお芝居をするって?どうするの?と思われようが、舞台上でドさ回りの劇団一座が普通のお芝居をするのである。そして見せ場、歌舞伎だと「見え」を切るところだろうか、つまり最高の見せ場がくるとストップモーションするのである。その時が来ると、パッと舞台が暗転し、次にライトがついたときは菊人形が「見え」の格好で型を切っているのが舞台上に演出されるのである。その切り替わる菊人形による見せ場が12場面あるのが「十二段替えし」である。観客はパチパチと拍手して盛り上がっていたのを覚えている。

そればかりではない、菊人形の展示場でも、電気仕掛けで動く菊人形が必ず一つのブースにはあった。覚えているのは酒呑童子の菊人形である。美男子の酒呑童子が盥ほどもある酒杯を両手で掲げ、顔を隠すようにグッと飲み干すとその間に顔が一回転して(酒杯で見えない隙に)鬼の顔に代わって、酒杯が下ろされるとそれが現れるのである。奥まったくらいブースにあることもあり、一人で見るのは怖かったのを覚えている。

 近所のごく小さい子というばかりではあるまい、たぶん、入場の係の人と私の祖父が知り合いだったこともあるだろう、菊人形が始まれば毎日のようにタダで入って中で遊んだ。(当時、大人は130円くらいの入場料がいった、これは映画館より高かった

 毎朝、開場の時刻前に「煙火」があがった。ポ~~ンと上がりバァ~~ンと炸裂したあと、煙火の中には落下傘が仕込まれていて、その落下傘が堕ちてくるのだが、下にはひらひらと大きな長方形の紙がぶら下がっていて「有楽座・鴨島大菊人形」とかかかれた宣伝文句が書かれていた。これは有楽座のまわり、ただし風があると結構遠くへ飛んだが、地域の子どもにとってこれを競って拾うのが登校前の日課であった。子どもでも大きくて腕力のある子がだいたい獲得していたように思う。もちろん大人が拾うのも多い。これを有楽座に持っていけば何か記念品ももらえたのも獲得合戦に拍車をかけることになった。

 下がその有楽座、正面上方には『楼門五三桐』の石川五右衛門だろう菊人形が飾られている。


  その有楽座も私が小学校三年の冬に焼けてしまった。その後も跡地は菊人形会場として利用されたが往時の繁栄は取り戻せなかった。それから60年以上たち、菊人形は吉野川遊園地、そして町役場広場(+駅前広場)と会場を変えつつも存続してきたが、次第に先細って来た。

 そして今年は思いもかけぬコロナ災でとうとう中止を余儀なくされた。まことに残念である。そんな中、個人の有志が自前で菊人形をつくり、町内中塚の国道192号線沿いに展示している。主題は「サザエさん一家」のようである。


2020年11月22日日曜日

大正の鬼滅 神出鬼没

   鬼は殺人・人肉嗜食が本性であり加えて人以上の力や能力を持つ。そんな生き物が増殖し、世を徘徊しては、たまらない。しかし今まで人類は鬼によって滅亡しなかった。一つの例を考えると、ネズミが増えすぎたら捕食者であるキツネなどの天敵が増える。しかし、ネズミが絶滅してしまったら肉食の捕食者も困るので自然はピラミッド型に生き物を配し、ある天敵にはさらに上位の天敵を置いていて、どの種も増えすぎないようにしている。したがってキツネなどの捕食者がネズミを絶滅させることはない。

 鬼対人もそうなのか?人にとって鬼は天敵なのか?そうではあるまい。傲慢かもしれないが人は地上の全ての生き物の最も上に君臨する(先ほどの天敵捕食者のピラミッドで言えば頂点)生き物である。これを「万物の霊長」と称する。つまり人の上の「天敵」はいないのである。もし鬼が増えるとしてもその最大の天敵は「人類」以外ない。鬼が増えるのを抑えるのは人間以外ないのである。鬼が人の捕食者となって、人口が、増えすぎたネズミのように鬼によって制せられることはない。むしろ人が鬼の数を制しているのである。

 アニメ「鬼滅の刃」ヒーローの最大の目的は鬼になりかかった禰豆子を人に戻すことである。その結果鬼と闘わなければならなくなっている。ヒーローが最終的に鬼の絶滅をめざしているかどうかわからないが、鬼の本性を考えると、人の立場であれば鬼と名の付くものは生かしてはおけないだろう。これは猫がネズミを見ると必ずとらえて食い殺したくなるのと同じである。でも前にも言ったように自然のバランスによって各々の種が絶滅することはない。そのようにして鬼と人は結果的に共存してきたのが明治までだった。

 でも鬼の数を制するには、人が鬼の力や能力を超えたものを持たねばならない。鬼の話はたくさん昔からあるが、人は果たして鬼以上の力・能力を持っていたのか、鬼は人と違い超能力のようなものを使っている。アニメ「鬼滅の刃」はファンタジー物だからヒーローに鬼をこえる超能力を与えるのは問題ないが、歴史上に存在した鬼退治の人はみんな超能力を持っていたのか、そんなはずはない。鬼退治する人が剛力の人だったことは間違いないがその人は超能力は持っていない。一方、鬼は妖術に近い超能力を使う、そんな鬼に太刀打ちできるのか?それができたのである。鬼の超能力にはそれをこえる超能力をぶつけるのである。歴史上それは「神仏の力」となる。鬼の腕力にはこちらも腕力、鬼の牙や爪に対しては、こちらは刀剣、弓矢などで戦うが、鬼が見せる超能力は、神の威光の力であったり、経文の力の、こちらも摩訶不思議な力で対抗した。

 ところが明治を迎えこの人対鬼・天敵関係の微妙なバランスが崩れだした。鬼の住むところは、深山や闇、迷信深い人のいる里ちかくである。これが急激に狭まったり消滅したりしてきたのである。大正期になると眩い電燈が全国的に広がり、ますます鬼の住むところがなくなっていった。ところがそれに呼応するように人の神仏の信仰心が衰えたのである。このため神の威光の力や経文の力も失せてきたのである。鬼の超能力に対抗できる人の側が神仏に頼る超能力を準備できなくなったのである。それらを迷信として切り捨てるのが「文明開化」であった。

 大正期に入り鬼に対して増々淘汰圧力がかかり、勢力が急激に衰えつつあった鬼にとって、人が神仏の超能力を使えなくなったのは、ある意味、起死回生のチャンスであった。なぜなら鬼はまだ超能力が使えたのであるから。アニメ「鬼滅の刃」の鬼退治が厄介なのは鬼が超能力を持っているのにたいし、こちら側は神だの仏だのの超能力は使えないのである。これ平安・鎌倉、いや江戸時代でもいい、その時代は神仏や法力の加護によって、という鬼退治の筋立てができるが、時は大正である。人の側からそれは使えない。

 「神出鬼没」という言葉がある。空間をワープして瞬間移動するようにパッと消えパッと出現することであるが。鬼滅の大正期の状況は、神仏の力は存在しないにもかかわらず、鬼はまだ存在していて鬼は「神出鬼没」できたことである。アニメ「鬼滅の刃」でもこの鬼の神出鬼没ぶりがあるから見ていて面白いのである。超能力の中でもこの「神出鬼没」が最大の鬼の武器である。

 さて、現実を考えてみる。人の裸の力は鬼とくらぶべくもなかったが、明治期以降、馬力を生み出す源として、蒸気機関、内燃機関を発明し、人はその力を利用するようになった。そうなると鬼に勝る馬力を手に入れることができる。鬼滅の鬼・無限列車のモデルとなった8620型蒸気機関車の馬力は650馬力である。大正期には電燈で明るくなったばかりでなく、人は腕力でも鬼をしのぐものをいろいろ発明していった。殺傷武器については、第一次世界大戦のあった大正期、もう鬼でさえ怖気をふるうような殺戮兵器が人によって生み出されている。完全に人間が勝っている。

 腕力でさえ、大正期には数千馬力の機関が生み出され、完全に鬼をしのいだ。しかし神出鬼没はまだ鬼の専売といってよく、人には無理であった。ところで神出鬼没といってもホントに間髪を入れずパッと消え隔たった場所にパッと現れる必要はない。神出鬼没の内実はSFのワープではない。人の能力ではありえない速度で、自分の思う場所に移動したり、あるいは空中を素早く飛んだりすることが神出鬼没であると見てよい。非常に高速で移動できるものは19世紀に鉄道がうまれたが、レールの上を走るもので、地図で言えば一枚の地図の上に一本の線が引かれその上のみの高速移動で、「自分の思う場所」に高速で移動できるものではない。

 ところが大正期には「自動車」が実用化される。原理的にはこの大正の自動車と今の(令和)の自動車と変わってはいない。今の自動車移動の状況を見ると、ほぼ各家の戸口から戸口へ自家用車で行ける。明治期の高速移動の手段が鉄道だった時は地図上の一本の線の上でしか移動できなかったのが100%とまではいわないにしてもそれに近いくらい、家々の玄関口まで自動車で高速移動できてしまうのである。つまり地図上で線だったものが面になり、自分が行こうとする家まで自家用車で乗りつけられるようになったのである。

 この自動車移動の初めが大正である。まだ自家用車は無理にしてもタクシーが実用化されたため都会の主な町内までは乗り込めるようになったのである。これをもし平安、鎌倉、いや江戸期でもそうだがその時代に生きた人が、この現代の、各家々の玄関まで高速で移動できる状態を見たらなんと思うか、それこそ鬼か天狗の所業の、まさに「神出鬼没」と思うに違いないのである。そして大正期には人が得たその神出鬼没ぶりが、最後に鬼や天狗のみに許されていた領域まで拡大したのである。それは大空、つまり空中を自由に飛び回るということがそれである。

 これで原理的には人は鬼と同じような神出鬼没を手に入れ完成させたといえる。地上のいたるところへ、そして大空を自由に飛び回るという、鬼の所業を。ただ車と違い、飛行機は自由に飛び回っても、思うところへのは着地は、今のところできない、しかし、やがてそうなる可能性は指摘されるところである。かなりな重量積載のドローンの性能が上がれば、人ひとりそれこそ戸口から、別の家の戸口まで空中移動できるのではないだろうか。

 自動車、飛行機が華々しく庶民の目に触れる形で登場し、実用化に進んだのが大正時代である。ファンタジーではあるが、最後の鬼の反撃がこの大正期だったのは、鬼の最後の能力の「神出鬼没」までが、人に侵された時期でもあるのは興味深い。これ以降も地上、そして空中で、人の移動スピードはどんどん速まるのである。

 大正期、空中に飛び回る能力を初めて見せた人が徳島の小松島にいた。先日小松島へ行ったついでに彼の業績を刻んだ記念碑を見てきた。

 下がその碑、初飛行したのは地元出身の「幾原知重」氏。



 操縦席の幾原氏と彼の愛機(複葉機なのが時代を感じさせる)


2020年11月20日金曜日

土日にあること そしてなぜかマンチェスタとリバプル


 藍場浜公園に何やら臨時の建造物が作られているようだ。

 「何ごっや?なんや、桟敷のようにみえる、いや桟敷そのものじゃ」

 まだ、トンテンカン作っていた左官のお兄さんに、これなにぇぇ?てきくと明日、明後日の土日、ここで阿波踊りをするらしい。

 「なんで、この時期に?」

 っつぅ疑問がわいてくる。今ブログを作っているのでネットで知らべると「阿波踊りネクスト開催」とかいうらし、開催趣旨はタラタラと書いてある。このコロナ禍のなか、効果や結果が重要なのであって、前書きや能書きは読む気がしない。大事なことは、ここでドンチュドンチュと「連」が阿波踊りをすること、密にならんように観客は5000人収容の桟敷を隣り合う席三つあけて900人にすること、その他いろいろ感染対策を書いてある。観覧席のチケットは無料で予約制だが、スマホを持っとらなんだら初めから対象外らし、スマホなんか持ってないワイなんどはそもそも見る資格もあらへん。

 市内の最も中心地の藍場浜である、どんちゃかどんちゃか阿波踊りをすると大勢が見に寄ってくるかもしれん、どれくらいが野次馬として集まって来て、どれくらいの人が(チケット無しに)垣間見えることか。多くはあるまい。ようするに、見たいなぁ、と思っているのに見れない人が徳島県人のほとんどである。

 「いったいやる意味は?」

 徳島県人のほとんどが見ることができないような阿波踊りを今やるのはなぜ?ゴーツーキャンペェインなら、壊滅的被害を出している旅館、土産物、その他観光関連産業が潤うからわかる。しかし、この阿波踊り、コロナで困っている事業主が潤うのだろうか?それはない。

 コロナで落ち込んだ人心を鼓舞するため?それにしてはごく一部しか参加できないのでそれはほとんど効果がないだろう。むしろ、見たかったのにチケットないし、ガドマンに、のぞき見していて、密になるからと、野次馬として追い払われかねへん。こうなりゃ、鼓舞するどころか、見れなかった恨みの種になりかねん。

 歴史を見てみると、特別な祭り、風流踊り、などは、大きな災厄が過ぎ去った後、神に感謝、あるいはそれこそ人心を鼓舞する意味で、男女子供区別なく老いも若きも全住民参加型で大規模に行われるものである。前提は「大きな災厄が去った後」で「神に感謝、人心鼓舞」の全員参加型の祭・踊りである。

今、大きな災厄が去った後か?むしろ日々、最大感染者を更新中じゃないのか。来年、あるいは悪ければ再来年までじっと辛抱し、災厄が過ぎ去った後、たまりにたまったマグマを放出するように全員参加、狂喜乱舞の大阿波おどりを開催してもいいんじゃないか、そっちの方が阿波踊りの始原の本質に近い気がするが。まぁ、お上のすることにワイらごときが批判出来へんし、お上にはアホなワイの思いもつかない深謀遠慮があるに違いない。

もひとつ、土日には徳島線をトロッコ列車が走る。ここ数日、気温が高い日が続いているのでそんな天気だと気持ちよかろうと思う。この運行は来月まで延びたそうだ。

 世界で初めての蒸気鉄道が走ったのはイギリスで1825年といわれている。もう200年近く前だが、この初期鉄道の銅版画や絵画(写真はまだ実用化されていない)を見ると、初期の鉄道の客車はまさに「トロッコ」そのもの、もちろん無蓋で雨が降ったら傘を差したそうだ。



 雨ならいいが、先頭の機関車の煙突はまだ火の粉のフィルター装置がついていない時代のもので、盛大に煙とともに火の粉を振りまいたそうだ。それがトロッコに乗っている満艦飾に飾り立てた正装の紳士・淑女の上に落ちたものだから、流れる景色を楽しむどころか、みなさん、自警消防団に早変わりし、燃え上がる帽子や衣服の消火に大わらわだったそうだ。思わず笑ってしまう初期鉄道のエピソドである。

おまけだよぉ~~ん

 200年も昔に、産業革命を成し遂げ、蒸気機関車の鉄道を走らせ、高速輸送時代の先鞭をつけたイギリスはすごいなぁ思う。それにしても初期鉄道の客車がトロッコ列車というのは面白い。この土日に走るわが徳島線のトロッコ列車も、はるか昔に先祖返りしたともいえる。

 ところで上の初期鉄道でパステルカラーのような絵の方は、世界初の商業的営業路線で、マンチェスタ~リバプル間が開通し、その間を走ったものである。そのマンチェスタ・リバプルと聞いてある懐かしい歌が蘇ってきた。♪~マンチェスタ~♪~リバプル~ホニャララ~♪~ 私がまだ高校生だったころ深夜放送なんかでよく流れていた。フォークと違いまねして歌うようなことはなかったが、メロディはちょっと哀愁を帯びているのにリズムは体を揺するような楽しさがあり好ましかった。

 この曲、いつの間にかテレビ、ラジヲ、レコドでも聞かれなくなり、すっかり忘れていたが、このブログを書いていて、歴史上有名なマンチェスタ~リバプル間初営業開通という言葉でこの曲を急に思い出した。なんという題か忘れたがネットとは便利なもので調べるとすぐわかった、その名も同じ「マンチェスタとリバプル」である。

ヨウツベにザ・ビーナツの歌があったので共有して貼り付けておく。なつかしいなぁ~💛

2020年11月19日木曜日

勢見山の展望所と銀杏

  モラエスはんを記念して彼の旧宅(大正時代に済んでいた長屋)の前の通りを「モラエス通り」と名づけている。下がその通りの写真であるが正面の小高い山が「勢見山」(せいみやま)である。この山の麓には観音寺や金毘羅神社そして忌部神社がある。


 このふもとにある金毘羅神社境内は、モラエス通りの方から行くとかなり急な石段を上った高所にある。そこを登り切り左へ行くと本殿があるが、その手前に展望所がある。その展望所の横の銀杏は、毎年今頃黄金色に色づく。下が今日のその写真。


 展望テラスから撮った銀杏。


 下を眺めると結構高い。京都の清水寺の舞台と同じか、もしかするとこちらが少し高いかもしれない。


 この金毘羅さんの高台の展望所は100年前のモラエスさんの時代からあった。(おそらくもっと古くから見晴らしの良い所として名所だったに違いない)下の写真左はモラエスさんがポルトガルに出したこの展望所からの眺めの絵はがきと、右は現在ここから撮った写真を左右並べている、比べると通りや家並みの様子は(鉄筋やモダン建築は増えたが)そう変わっていないように見える。左は1世紀前(正確には105年ほど前)、右は現代の写真。


 この展望所から眺めつつ、ふと、「身投げ」という言葉を思いついた。別に私が世をはかなんで飛び降りを思いついたわけではない。そうではなくて江戸時代から展望のよい名所としてずっと存在していたのなら、幾星霜へた今、何例もの飛び降り自殺があったんじゃないかと頭に浮かんだのである。(高い崖のようなところにある名所は、なぜか自殺の名所にもなることが多いのである

 しかし、と考え直した。飛び降り自殺が目的ならば、高さがいかにも中途半端すぎる。この高さじゃぁ、まず即死はすまい、打ちどころが悪けりゃぁそのまま死ねるが、長時間苦しんだ末か、死ねなかった場合は重い後遺症で大変なことになりそうである。どうも後の方の可能性が高そうである。普通に考えればこの高さで飛び降りはすまい、と思う。私が記憶にある限りここからの投身者などのニュスは聞いたことがない。

 だがモラエスはんのいた大正~昭和初期には女性の投身者が結構いたそうだ。思い余ったか、錯乱したか、この高さでも飛び降りたのである。今はそんな不祥で不吉な昔の話をあえてする人はいないが、確かにこの時代、両手で数えるくらいの投身者がいたのである。このすぐ近くに遊郭があったことも女性の自殺者が多かった理由の一つとして考えられるかもしれない。

2020年11月18日水曜日

秋のバス小旅行 その2

  直前まで決まらなかったのはバスの発着本数の少なさにある、都会のバス路線と違い超田舎のバス路線など、一時間に一本でもあるのはまだいいほう、それは幹線主要国道のそれも通勤通学時間帯のみ、ふつうは、数時間に一本、路線によっては午前一本しかない場合もある。だから午前中海浜に逍遥するといってもそんな本数の少ない路線だと昼過ぎまでに戻ってこれない。

 だが鳴門公園行きは11号バイパスを通り、なんといっても天下の国立公園、名にし負う渦潮観光のスポットである。1時間に1本はある。そこで鳴門公園にいくことにした。ここは下まで降りれば磯になっていて、目前に潮の流れを見ることができ、奔流となって恐ろしいくらいに勢いよく流れている。

 すいているのかと思いきや、11号を走る路線バスということもあり頻繁に乗り降りもあり、満席に近い、そのうちの半分以上は鳴門が近づくまでずっと乗っているので、私と同じように鳴門公園へ行くんか知らんと思っていたが、「大塚美術館」でほとんど降りてしまった。

 バスの終点は「鳴門公園」となっている。どこまで連れて行ってくれるんかな、奔流がまじかに見られるスポットから遠かったら困るな、心配したが、「茶園展望所」の真下まで運んでくれた。

 まず茶園展望所に行き、天下(?)の絶景を眺める。



 ああ!この茶園展望所の岩と松の形、半世紀も昔とほとんど変わっていない。松ってある程度大きくなったら成長しないのかしらん、ともかくこの松そして岩、半世紀たっても同じような形をしているようにおもえる。

 20年に一回くらい吉川英治の時代小説(ここ徳島が舞台になった)「鳴門秘帖」がドラマ化されたり映画になる。その時、俄然注目を浴びて、ここも(その舞台となった)とりあげられる。そのたびに観光スポットとして注目を浴びていたが、最近は取り上げることも少なく、下の写真の「鳴門秘帖」の記念の石碑もすっかり色が褪せてしまって文字も読み辛く何がなんやらわからなくなっている。


 そこから10分くらいかけて石段を下に降りると、鳴門海峡の早い潮の流れがすぐ目の前に見える磯に降りられる。期待したが、うっかりしていた。潮には干満があり、なんと今はいっちょ流れが遅い時で、流れは見られなかった。でもまぁ、ぜっかく来たのだから動画に撮影した。

  

  徳島バスタミナルに引き返したのが12時半過ぎ、ここまでは徳島バスを利用したが、昼からはもっと本数の多い徳島市バスを利用して(ただし当然市内で遠くへはいけない)野山を逍遥することにした。丈六寺の紅葉みにいこか、五滝あたりで分かれ滝でも見よか、と思ったが、帰るバスの時刻を調べると都合悪い。結局、野山を逍遥して程よい時刻に帰りのバスのある一宮路線を利用することにした。

 一宮の山城散策である。山城の高さは、先日いった小松島の日の峰山くらいなので怪我後の足慣らしにはちょうど良い。

 途中、少し上ったところに経筒出土地がある。この左方に昔は「神宮寺」があったそうだ。


 紅葉もきれいに色づいていた。


 中世の山城なので遺構として残っているのは「空堀」や「石垣」、「土塁」の跡くらいである。下は本丸の石垣跡。



 本丸からの眺め、秋の晴れた日ではあるが、紀伊水道までは見渡せなかった。


 まだ奥には見るべきところがいくつかあるのだが、時間の制約よりも、結構険しい坂もあるので剣呑なことはやめて引き返した。少し時間あったので登り口にあった「札所」」にお参りした。