ちょうど50年前の今日、私は地元大学の学生であった。古い木造の校舎で一般教養科目の哲学の講義を受けていた。その時、先生から三島由紀夫が割腹自殺したことを講義の前に聞かされた。今思うと先生はそのニュスに思い入れがあり、なにか学生を前に一言述べたかったのだろうと思うが、一つの犯罪事件に個人的な感想を講義に持ち込むのはいけないと思ったのか、知らせただけで何も言わなかった。私はその講義の時までに三島らのグルプが自衛隊総監室に入り、人質を取り占拠していたのはニュース速報で知っていたが、この講義の時に彼が割腹自殺したことを知った。
当時、三島由紀夫の名前は、まだ若いが大作家という名声を勝ち得ていたこと、高校の現代国語に、ちょっと忘れたがなにか小品が載っていて読んだこと、最近は右翼的な政治団体を作り、いろいろ活動し世間をにぎわせている、程度くらいの認識しかなかった。当時の大学生の傾向としては、私は珍しくノンポリ学生だったので、彼の政治的な主張などは(右だろうが左だろうが)全く興味がなかった。
しかし彼がなくなってのち、なんのきっかけか忘れたが、「金閣寺」を読んだ。その時は私も若く、(自分では)かなり屈折した性格と思っていたので、その主人公に共感しながらよんだ。その後、この「金閣寺」は何度も読み返したが、最初はその主人公への共感として読んだものが、小説の中に「美」や、「歴史の精神」とでもいうようなもの、そして禅宗の「仏教哲学」などがちらちら現れているのを読むようになり、少しばかり深読みができるようになると、彼の作品全般に興味がわき、それからは次々と彼の作品を読んでいった。
結局、50歳までには彼の全集に収録されている作品はすべて読んでしまった。私がある作家のファンになり、全集をすべて読破したのは二人、この三島由紀夫と中上健次だけである。どちらの作家も45歳前後でなくなっているのが共通である。題材の傾向、小説の背景、主題、モチーフ、そして文体、思想、などは全く違うが、言葉ではちょっと言い表せないが、二人は似たものがあると漠然と思っている。たとえが適当でないかもしれないが、ギリシャの芸術や思想の最も奥深い底を流れる二つの潮流、アポロン的なものとディオニソス的なものとでも言おうか、相反するものでありながら、本体と影のように切っても切れないもの、そのようなものを二人の作家には感じた。
彼の文章は独特な修辞、様々な比喩(これがまた美しい)、そして国語辞典の隅をつつかなければ出てこないような難解な漢字熟語、古典文学や古典芸能の教養がなければ味わいが失せてしまう文章など、一般に難解といわれているが、それだけに何度でも味わって読む価値のある作品である。
彼が死んだ直後から、あるいは今になっても、彼の(一般にきわめて政治的な行動とみられている)割腹自殺に至る行動、そして彼の死、について、文学者、評論家があれこれ言ってきた。たとえば「彼の今までの主張、主義から引くに引けなくなって、仲間とともに死を選んだのだ・・云々」、ある高名な推理作家は「彼の文章は生き生きした生活には根ざしていない、きらきらと飾られ美しいが、空疎なものであり、そんなものを書き綴っていけばやがて行き詰るに違いない、彼の自殺は、やっぱり俺のみたとおり一種の行き詰まりだ・・云々」と、右翼的な人以外はかなり否定的なものであった。
しかし、私は、生き残ったものが、三島が生きているときの(また死んでいった)行動をあれこれいうのには全く耳を貸す気にもなれない。彼ははっきり言って「文学の天才である」同じように若くして亡くなった音楽の天才にモツアルトがいる。彼が品性下劣で、道徳的に問題あろうが、金銭的にだらしなかろうが、彼が死んで天才としての名声が鳴り響く中、彼の評価はひとえに彼の「作品」にかかっているし、それのみが後世に生きる我々が知り、味わえばよいものである。彼が現実にどう生きてどう死んだかは私には関心がない。私の三島は作品の中のみである。だから残された三島の膨大な作品についての評論ならいくらでも傾聴する。
三島は国内においては毀誉褒貶が多い、若い人の中には、文豪として認識していない人もいる。彼の偉大な文豪としての名声は国内よりむしろ海外でのほうが高い。日本語が達者で日本文学の研究者として知られるドナルド・キーンさんも彼は一世紀に現れるかどうかのまれにみる天才と評価している。実際はもらえなかったがノーベル文学賞級の作家であったことは海外の方がよく知っている。
先日、図書館で「小説家の見つけ方」という映画のDVDを借りてみた。内容は、ピューリッツァー賞をもらった文豪でありながら世間交わることを嫌い隠遁生活を続ける老作家が、市井の、どこにでもいる高校生、いやむしろ劣等感を抱いている黒人の高校生の文才を見抜き、その著作活動にかかわっていくという話だ。その引きこもった老作家の書斎に黒人の高校生が初めて訪ねたとき高校生の目線とともに書斎のシーンがぐるりと回るが、その多く積まれた文学書の中に、私は三島由紀夫の著作が少なくとも2冊は確認できた。
下がそのDVDと、二冊の三島作品のスチール写真である。英語題だが、「金閣寺」と「潮騒」であることがわかる。このように海外での三島は日本近代文学の代表として真っ先にとりあげられる作家である。(この点、川端や大江などの比ではない)
彼はあのような事件を起こし、割腹自殺したこともあり、青少年に読むことを勧めるのにはためらいがあるかもしれないが、三島文学は日本近代文学が到達した最高峰、金字塔と思っている私としてはどんどん読んでほしいと思っている。
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