第一巻を見る限り、時代はもっと古くてもいいなと思っていた。第1話には生業と家族構成が出てくる。炭焼きをして暮らしており、父はいない。母と主人公・竈門炭治郎(未成年)を筆頭に6人の子供がいていわば母子家庭7人家族である。生業が炭焼きならば江戸期、いや中世、古代が舞台だってあり得るだろう。逆に大正時代に炭焼きが職業などというとあまりにもマイナーすぎて、何それ?とツッコミを入れたくなる。ところが、案外そうでもないのである。これからそれについて少し述べたいと思う。
「炭焼き」という仕事はおそらく古代からあるもので何も大正時代特有のものではない。また町に売りに来る行商も古くからある。下は職人尽歌合絵巻に見る京都の町中の柴、炭を売りに来た行商人である。左の女性二人はいわゆる大原女で柴をこのようにして行商している。そして右の男性が天秤棒で担いで打っているのが炭(木炭)である。時代は中世末(室町時代)。炭焼きの生産と販売(行商)は同一人がやっていると思われる。炭焼き男の説明を見ると変体仮名で大きめの文字の方は(炭焼き)「す(壽)み(見)やき(記)」(カッコ内はくずす前の漢字)と読める。小文字の方はこれはセリフで「け(気)さいでさ(佐)いまうた(多)か(可)」、と左の大原女に向かって発せられている。古語だが現代語に直すと「今朝、やってこられたのですか」と呼びかけているようである。
このように炭焼きの仕事、そして町中へ炭を行商に来ることは中世からある。しかし注意してほしいのは、古くから生産されていた木炭とはいえ、明治中頃までは都市部の人々でも木炭を主燃料とする人は少なかったのである。炭売り男の天秤棒に結わえられているのは二把であり、これを振り売りするのであるから、きわめて小口の販売であることがわかる。木炭は火付もよく長持ちし、火力も強いが、高価であり、木炭を各家で使うことは少なかった。それより燃料としては安く、あるいはただ同様で手に入る薪、柴(しば)類、廃材、脱穀後の藁や茎などが主であった。
ところが明治末から大正時代にかけてこたつや火鉢など暖房用として、あるいは改良された七輪(ウチの地方ではカンテキという)などによるより手軽な炊事火力として各家庭では「木炭」の需要が急騰したのである。ランプの使用でもってよく文明開化を象徴するといわれるが、各家庭が木炭を多量に消費し始め、下記のような木炭の暖房・炊事具を使い始めたのもランプ使用に劣らず、簡便さ、その効率の良さ(ランプの場合は光力、木炭は火力の強さ・火持ち)で一種の文明開化といえるだろう。
そのため大正時代に入ると、政府、県、市町村などが音頭を取って木炭生産を奨励しなければならないほど増大する需要に生産が追いつかなくなった。それなら都市ガスやプロパンガスは時代的に早いとしても、石炭使用、特に家庭用石炭製品として「練炭」などをなぜ使用しなかったのか、と疑問もわいてこようが、「練炭」が使われ始めるのは大正も中期になってからで、本格的な普及は昭和に入ってからである。この大正期には各家庭は「炭俵」の単位で木炭を多量に買い、使用していたのである。都市部では無くなった頃を見計らって配達してくれるのが普通の販売形態となった。
お上の督励もあって山村部では炭焼き窯が作られ、雑木林がその原料として使われ、木炭生産は飛躍的に伸びた、急増した需要は大正期に一つのピークを迎え、高いまま昭和30年ころまで続く。そのため山村部では古来からの「炭焼き」(特殊な職能を持つ人)だけでは当然人手が足りず、秋から冬にかけての農閑期に山村部の農民が兼業として炭焼き仕事に従事したのである。だが窯の設置、原料となる木々の蒸し焼きの仕方、火入れ、蒸し焼き期間、火力熟成の進行に従い変わる微妙な煙の色の確認、そして窯出し、などは兼業の農民などの手におえるものではなく、古来からの職能を持つ専業の「炭焼き」の指導によらねばならなかった。鬼滅の刃の主人公一家の生業はこのような特殊な職能を持つ「炭焼き」であったのである。
このように大正期には木炭は暖房・炊事などの主エネルギーとして大きな需要があったことを考えると、大正期と炭焼き仕事はなんらチグハグで陳腐な組み合わせではないことがわかる。練炭・豆炭(石炭製品)そして都市ガスなどが一般化するのは昭和を待たねばならない(それでも木炭生産のピークは1960年頃までつづく)。竈門炭治郎がせっせと炭焼き仕事に精を出すのは大正期には何ら不思議なことではなく、山村部の主要な、そして政府や村も奨励する重要な仕事であったのである。
竈門炭治郎家は父はいないが専業の炭焼き一家である。上記に述べた様に特殊職能の家といってもいいだろう。山の特殊職能といえば「木地師」が有名である。歴史的に古いいわれを持っているため、当然何代も続く世襲でまた同族意識が強く、農民との交流には一線を画している。炭次郎家の生業の「炭焼き」はやはり木地師のような「特殊職能集団」で世襲制、同族意識、排他的なまとまり、を持つものなのであろうか。それを知る手がかりの一つとして、わが徳島の民俗を叙述した本の「炭焼き」の部を見るとこのように書かれている(金沢治著、日本の民俗・徳島編.1974年版)
『炭焼きは一年中炭を焼いて渡世としている専門家をいう。資本家はそういう炭焼きの一家族を炭焼き小屋を建ててやって原木地に住みこませる。
炭焼きは一年中ほとんど他の人とは交渉しないし、食物も主人(山主)からあてがわれた米・味噌・醤油・塩くらいで栄養状態も悪く、そのくせ多産で、酒を飲むことと夫婦の交わりがせめてもの楽しみという生活をしていて、昭和45年においても美馬郡一宇村の片川にいる炭焼き一家にこんな例がある。人里から10km位はなれた深山で作業し、子どもが中学生年齢のものを頭に五人もあるのにいくらすすめても学校へよこさない。山主はPTAの会長をしているのでいろいろ話してやっても、どうも、子どもが人の集まっているところへでることを恐ろしがるという。』
木地師のような同族のコミュニティーを持つ人々ではなさそうだが、かなり特殊な生活習慣を持つ職業の人であることがわかる。例としてあげた一家は五人の子持ちである。炭次郎一家は六人の子どもがいる。例では学齢期の子どもを学校にやらないと述べている。これより半世紀も昔の大正時代、炭次郎一家の6人の子供たちははたして学校へ行っていたのか気になるところだが、コミックの1巻を読む限り、すぐ殺されてしまったこともあるが、雪深い深山から村の学校へ通学したというような描写は見当たらない。炭焼き小屋のある超僻地で隔絶した生活を営んでいれば、長距離の通学もおっくうとなるし、それ以前に、兄弟同士で自然の中の野性的な遊びに明け暮れれば、他人の大勢いる学校集団に入るのを怖がるのは当り前であろう。炭次郎家の子どもたちも学校へは行っていなかったんじゃないかと思うがどうだろう?
このように大正期、盛んになった炭焼き業、それに中心的にたずさわるのが特殊職能の人「炭焼き」一家、子どもたちはおそらく満足に通学も出来ず、兄弟同士のみで過ごし、遊ぶ毎日、炭焼きは生産もするが、里に運んで売りにも行く、述べたように大正時代、都市部では飛ぶように売れただろうが、しかし世間知らずの炭焼きは、山主、問屋、里で必需品を買う店などに木炭を持って行き、そこで中間搾取されただろう。木炭の普及、大量需要の割には収入は乏しい。
そんな貧しい炭焼き一家の子どもから生まれたファンタジーヒーローが鬼滅の刃の竈門炭治郎である。このようなスーパーパワーを持った人など現実にはいない。しかし、絶世の美形の人(美男、美女)は現実に存在しえる。明治・大正期になると写真が残されているのでこのような美形は確認できる。例えば映画のヒーローにしたいような美形男性が山村僻地の貧乏人一家の子だくさんの中の一人からみいだされることがままある。炭次郎のようなスーパーパワーのヒーローは現実にはいなくても、美のヒーローは現実に存在する。僻地で、貧乏で、子が多く、生活が苦しい一家から美しい一輪の花が咲きでるのはあり得ないロマンではない。
しかし炭次郎の話の発端はロマンどころかむごいある出来事から始まる。鬼による一家全滅である。大正期になっても、現実に山村僻地に隔絶に近い生活を営む一家が全滅するような災厄に襲われることは多々あった。北海道だが、開拓のため隔絶している一家をヒグマが遅い一家のほとんどが喰い殺されるという陰惨な出来事も明治大正期の話だ。また大正期に流行ったスペイン風邪がたまさかの里人との接触でこのような一家の一人に感染すると結局一家すべてが罹患し全滅したという例はたくさんあった。また土砂崩れ、山火事にあうと助けあう隣人がいない山村の一軒家の場合、一家全滅になるケースもある。大正期に鬼が一家を惨殺というのはあり得ない話だが、鬼をこのような「災厄」に置き換えると、結果は同じ一家全滅の悲惨である。
このように考えると「炭次郎」、「大正期」、「炭焼き」は私の頭の中ではうまく結びつくのである。
我が木炭の思い出エピソド
昭和20代生まれの私は明治生まれの祖父母に育てられたからか、いや単に貧しかったからかもしれないが、同年代の子どもよりは古い生活様式や古い器具の中で育てられた。その中から炊事用具(煮炊き)、暖房具を思い出してみると。記憶に残っているもっとも小さい頃は、竃(クドといっていた)があり、燃料はまだ薪だった。竃の横には火吹きだけや渋団扇が置いてあり、火付きの悪い薪に風を送った。ずいぶん目や喉を刺激する煙がたくさん出た。その点、同じように我が家で使われていた木炭を使用するカンテキ(七輪)は煙でず、火持ちもよく、下の空気取り入れ口の開閉の加減で火力もある程度調整できたので、竃よりずっと合理的な煮炊き用具だった。他にも木炭は火鉢(常に鉄瓶がかかっていた)にも使われていたのはよく覚えている。
暖房具としては素焼きの「こたつ」があり、上記図の左にある通りのものが我が家にあった。二重構造になっていて、内部に木炭をいれた。我が家ではその上から木枠を乗せ、布団をかぶせれば足をいれて暖をとるいわゆる炬燵となった。私が記憶に残る小さい時の(幼稚園から小学校低学年)燃料はこのように、薪、木炭だった。小学校の高学年の頃になると、木炭から練炭、豆炭に代わった。木炭の戦後の生産のピークは昭和30年と言われているので、田舎の我が家もそれより少し遅れて木炭を次第に買わなくなり、練炭、豆炭が主となり、やがて電気釜、プロパンガスとなった。
幼児の時の木炭の記憶は「炭俵」にある。土間の隅においてあり適宜取り出して使っていた。それにいたずらで手を突っ込んで真っ黒になった覚えがある。その俵、藁か葭簀でできていると思っていたが、今回ブログを作るにあたって調べると、なんと枯れたススキの茎を集めて編んでいたそうである(山村農家の副業として)。郷土史を調べるとわが町で、一般家庭が「炭俵」単位で買い、木炭を多く消費するようになったのは、大正の中期であるとあった。わが町の南山を一つ越えた山村、阿川から炭焼きさんが行商に来るようになってからである。大正期に、全国的に木炭の需要増大から木炭が不足し炭焼きが盛んになったのと期を一にしている。
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