2020年11月5日木曜日

無限列車について(鬼滅の刃より)

 鬼滅の刃のアニメに無限列車が登場する。私の興味をそそる名前である。まず純粋に(なんのイメジも持たずいわば言葉の響き・意味だけ)言葉を聞き、素直に連想的すると、機関車に連結される「客車」が無限に連なっている列車というのをイメジする。だが現実にはなんぼぅ連結が多いとはいっても十数両が限度であろう。機関車の馬力に上限があるがらである。もちろん無限に連なるなど論外である。しかしこのアニメは怪奇ファンタジである。無限に連なる列車を怪奇の一つとして登場させるのはアリであり、無限列車内でさらなる怪奇現象が・・という設定は悪くはない。

 もう一つ無限列車と聞いて無限に連なる列車をイメジするのは、国語的な意味の解釈だけではなく、数学的なある記憶が呼び覚まされることも大いにあずかっている。皆さん、高校の数学を思い出してください。無限に続く数列というのがあったでしょう。微分積分分野の中で扱われたと思うが、私にとってはかなり難解なものでテストベンキョなどでかなり痛めつけられた。だから「無限列・」まで聞くと脳内にビコ~ンと古い記憶の「無限数列」が蘇るのである。客車が連結器で次々と連なって無限に至るのはさしずめ 1+2+3+4+5+…(無限) のような「無限数列」であろうか。(ただし1.2.3…は基数でなく客車の番号の序数となるが)そうなると+記号は連結器にあたる。

 でも地上の有限の距離をどのように無限に連なる列車が走れるのか?しかしアニメはファンタジである。時空が有限に閉じられている必要はない。例えばxy平面座標上に放物線の二次曲線を描くとする。原点0から出発すると放物曲線は閉じられていないため無限のかなたに放散してしまう。このように放散する曲率を持った空間(例は平面だったが立体空間でもありうるだろう)を地上に出現させれば、無限に連なる列車を走らせそうである。

 おそらくそんな異空間は放物線がX軸の一点で交わるように現実の地上ではある一点で交わるのだろう。だから地上の人間にはその一点でしか無限列車は見られないし乗車できないだろう。もしその交わる一点から(駅)乗り込んだとして行き先というか進路はどうなるのだろうと興味がわく、具体的には列車の車窓からどんな世界が見えるのか?先人の作った作品にヒントがある。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や松本零士の「銀河鉄道スリナイン」である。車窓にはこれに描かれているような景色が展開されるのではないだろうか。

 とまぁ、無限列車について私の好き放題勝手気ままに妄想すればこうなるが、実際の『鬼滅の刃無限列車編』に見る無限列車はそんなものではなかった。無限列車についての情報を私が調べられる範囲で見ると、その名前の意味は意外と単純なものであった。百聞は一見に如かず、で下のイラストを見るとその由来がよくわかる。


 なんのことはない蒸気機関車のヘッドマークに「無限」のプレトが掲げられているからである。客車編成も無限ではなく、はっきりは確定はしないが多くても8両以内であるとされている。蒸気機関車のヘッドマーク・プレトは普通はその蒸気機関車の型を示す記号・数字が入っている。それを無限という文字に置き換えたのである。それ以外は外形を見ても普通の(大正時代に走った)汽車と変わるところはない。型番の記号数字のところに無限の文字が入っているが、鉄道オタクが見ると、外形からこの蒸気機関車は「8620」型で、実際に大正時代に走っていたことがわかっている。

 無限列車という名前が魅力的なだけに、なんだ!それだけか!と気落ちしそうだが、いやいや、早計には判断すまい。無限というからには何かもっと違うすごい意味が込められているかもしれない。

 ここで私のアイデアを出そう。蒸気機関車のヘッドマーク・プレトをこのように変えてはどうか

 先に言ったように普通は「8620」というような数字が入るがこれを上記のような分数に変えるのである。これには二重の意味が込められている。一つは「無限」であり、もう一つは「鬼殺し」である。このようにヒントを言えば、数学的センスのある人はすぐわかると思うが、解説するとこうなる。

 この分数、割り切れることはない。1÷3の答えが0.3333333…であるように数字が無限に続くのである。じゃぁ上の分数は? 2564÷99999を計算するとわかるがこれもある数字列が無限に繰り返すのである。それは

0.02564025640256402564…

そう…02564…の数字列が無限に繰り返すのである。この数字列はある文字列に置き換えられる、それは02564「オニゴロシ」である。無限に循環する少数は「鬼殺し鬼殺し鬼殺し鬼殺し・・・」と無限につぶやいているのである。これで上記の分数が「無限」と「鬼殺し」の二つの意味を含んでいることがおわかりいただけたと思う。我ながらいいアイデァじゃないかと自惚れるが、日本全国にたくさんいる鉄道オタクがこのアニメの列車の型番を見抜いたように鬼滅ファンには数学オタクもたくさんいると思うのでこのアイデァ、私のオリジンではないかもしれない。

 さて、「無限」という言葉を「列車」という言葉につなげてこのように解釈してきたが、「無限」という言葉はあまりにも重いため、列車という言葉と結びつけても、無限の言葉の方が極大化し、列車の方はどうでもよくなってしまう、無限の言葉の破壊力とでもいうか、「無限列車」をあれこれ考えていると、結局、列車の方などはどうでもよく、無限のみが頭の中に残り、終わりのない、そして実りのない思考をだらだら続けるようになっていく。この「無限」という言葉の大きな影響力というか破壊力に匹敵する言葉があるとしたら「死」という言葉くらいだろうか。

 「無限」などというと何か難しい言葉のように聞こえるが、実は幼児でも「無限」の言葉の意味に触れている。ただし触れた瞬間、ハッとして身を引いたりするが。幼稚園の時、あるいは小学校の時、こんな言葉遊びをしたことはないだろうか、

 「みんなの中でなぁ~、いっちょ大きい数字を言うたもんが勝っちゅう遊びしょぉ~、」

 この遊び、大きな数字を覚えるのにはいいかもしれないが、子どもでもこのあそびは、実は勝ち負けのないそれこそ無限に続くループに入ることにすぐ気づく。いくら相手が大きい数字を言ったところでそれに幾らかの数字をくわえれば必ず相手より大きい数字を作ることができる。どんどん言い合いをしても際限のない勝負がつづくと思った瞬間、その「際限のない」むこうには「無限」があることに子どもながら気づき、この遊びもやめてしまう。

 この「大きい数字言い合い勝負」に出てくる「無限」は子どもを恐れさせるものではない。しかし次に述べるような、子どもの頭に浮かんだ「無限」はもうどうしようもなく恐ろしいものである。

 幼児期こんな経験はないだろうか、なかなか寝付けない時、あるいはふと目が覚めたとき、「人は死んだらどうなるのだろう?」「誰かちゃんは、楽しい天国に行くといってたな、そうだと楽しいな」、幼児は天国がある、あるいは死後に行く世界があると漠然と信じている。しかし、幼児仲間で少数であるが、こんなことを言う子がいる、「死んだら、もう終わり、夢をも見ない深い眠りがずっと続くっちゅうこっちゃ」、これを言ったのがたとえ一人であっても、その声が小さいものであっても、それはまるで澄んだ水の中に一滴落とされた墨汁のように幼児の頭に黒々と広がっていく。

 夢をも見ない深い眠りが永遠に続くことは言いかえれば、無限の虚無である。このゾッとする深遠な無限・虚無は耐えられないような恐怖を子どもにもたらす。本能的にここまでで子どもは身をひるがえし、その深遠な淵を回避する。思考は停止し、すぐ賑やかで楽しい幼児生活に引き戻される。しかし一度触れたその暗い深遠は「無限」というものであらわされる一面を持っていることにちゃんと気づいているのである。このような幼児期の体験は私だけの特殊なものではないだろう。かなり一般的に言えることである。

 小学校の5年か6年の時、アメリカのテレビドラマで医師が主人公の『ベン・ケーシー』が放送されていた。そのオープニングに毎回でてくるシーンがあった。まず冒頭、黒板がバァ~ンと出てくる。何も書かれていない。そしておもむろに白墨(チョーク)を持った手が出てきて、黒板に白墨で記号を書き始める。最初は(男、というナレーションが入る、以下同じ)、次に(おんな)、(誕生)、(死亡)そして最後は (無限)と書かれて終わる。~誕生~死亡~無限。この黒板上に表されたものはまさに幼児期に触れた死亡のあとに訪れる無限の顔を持つ虚無をあらわしたものであるとおもい、やはりなぁ、と死のあとに無限を持ってくるのに納得した。

 無限の話はここまでにして、無限列車のモデルとなった機関車がわが徳島公園に展示されているのでその写真と説明をあげておく。これが公園に野外展示されたのは私が大学一年だったのでよく覚えている。この公園を横切って大学へ行っていたのと、野外展示のすぐ横に旧県立図書館があって毎日のように利用していたために野外展示は目に入った。それからちょうど50年、半世紀たっても同じ位置に展示されている。


 この列車の説明板を見ると鬼滅の刃の無限列車のモデルとなった「8620」型であることがわかる。


 機関車の方はわかったが客車の方はどのようなものであろうか。下はアニメから見た内部の様子である。これを見た瞬間懐かしさがこみあげてきた。というのもわが徳島線では前記写真のように昭和44年まで「8620」型機関車は走っていたが、それにけん引される客車の内部はこのようになっていたのである。だからこのような内部を持つ客車に私は高校三年まで乗っていたのである。ほとんど木造りと思われる内部インテリャ、垂直の背もたれの固い座席、そして天井にあるのはぼんやりとしか照らさない丸いランプシェド、どれも見覚えがあり郷愁を誘うものである。


 しかし口うるさい鉄道オタクに言わせると機関車は確かに大正時代のものであるが、これにけん引される客車は、外部・内部の形を見る限り、これは昭和に入ってから導入された客車であるという。この昭和の客車はもう自動連結になっているが大正時代の客車の型はまだピン止めの連結であったそうである。だから厳密にいうと客車は時代考証(大正期)に合わないことになる。

 そこでわが徳島の大正時代の列車の写真がないか探すと、遠景写真だが見つかった。これは雪の日、鮎喰川鉄橋を渡る列車である。見ると五両編成の客車を牽引している。機関車と客車の間がずいぶん空いているのは貨物を載せていない無蓋の台車のみの車両を3両ほど前に連結しているためである。これを見ると各客車どうしの間は自動連結器で繋がれてはいなくてもっと古いピン止めの連結器であることがわかる。


このような明治・大正期に実際に走った客車の内部は、昭和生まれの私は知らない。しかし絵画や写真などで当時の列車内部を偲ぶことはできる。下は赤松麟作・油絵「夜汽車」である。白黒写真では醸し出せない古い時代の客車の内部の様子、それも夜汽車、が描かれている。もし忠実に時代考証に沿えば鬼滅の刃の客車内部はこのようなものであったと思われる。

 詩情というか、古き良き時代のロマンを感じさせるような作品である。次回はその大正ロマンと鬼滅の刃についてブログを書こうと思っている。

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