モラエスはんを記念して彼の旧宅(大正時代に済んでいた長屋)の前の通りを「モラエス通り」と名づけている。下がその通りの写真であるが正面の小高い山が「勢見山」(せいみやま)である。この山の麓には観音寺や金毘羅神社そして忌部神社がある。
このふもとにある金毘羅神社境内は、モラエス通りの方から行くとかなり急な石段を上った高所にある。そこを登り切り左へ行くと本殿があるが、その手前に展望所がある。その展望所の横の銀杏は、毎年今頃黄金色に色づく。下が今日のその写真。
展望テラスから撮った銀杏。
下を眺めると結構高い。京都の清水寺の舞台と同じか、もしかするとこちらが少し高いかもしれない。
この金毘羅さんの高台の展望所は100年前のモラエスさんの時代からあった。(おそらくもっと古くから見晴らしの良い所として名所だったに違いない)下の写真左はモラエスさんがポルトガルに出したこの展望所からの眺めの絵はがきと、右は現在ここから撮った写真を左右並べている、比べると通りや家並みの様子は(鉄筋やモダン建築は増えたが)そう変わっていないように見える。左は1世紀前(正確には105年ほど前)、右は現代の写真。
この展望所から眺めつつ、ふと、「身投げ」という言葉を思いついた。別に私が世をはかなんで飛び降りを思いついたわけではない。そうではなくて江戸時代から展望のよい名所としてずっと存在していたのなら、幾星霜へた今、何例もの飛び降り自殺があったんじゃないかと頭に浮かんだのである。(高い崖のようなところにある名所は、なぜか自殺の名所にもなることが多いのである)
しかし、と考え直した。飛び降り自殺が目的ならば、高さがいかにも中途半端すぎる。この高さじゃぁ、まず即死はすまい、打ちどころが悪けりゃぁそのまま死ねるが、長時間苦しんだ末か、死ねなかった場合は重い後遺症で大変なことになりそうである。どうも後の方の可能性が高そうである。普通に考えればこの高さで飛び降りはすまい、と思う。私が記憶にある限りここからの投身者などのニュスは聞いたことがない。
だがモラエスはんのいた大正~昭和初期には女性の投身者が結構いたそうだ。思い余ったか、錯乱したか、この高さでも飛び降りたのである。今はそんな不祥で不吉な昔の話をあえてする人はいないが、確かにこの時代、両手で数えるくらいの投身者がいたのである。このすぐ近くに遊郭があったことも女性の自殺者が多かった理由の一つとして考えられるかもしれない。
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