明治維新を迎え我々日本人が受けた異文化(西洋新文明)の衝撃は『文明開化』という言葉によって表される。確かに明治初年、武士消滅と廃刀、丁髷切った(ざんぎり頭)、建前の四民平等、の改革はかなりの衝撃を与えた。しかし文明・・というからにはその核になっている物質的なことを見ると、目玉として考えられるのが蒸気船、それからまだ40kmびゃぁしか引かれていない蒸気鉄道(新橋~横浜間)、電信(電話はまだない)、ガス灯と石油ランプ、銀座に走った鉄道馬車、あとは洋装くらいなものか。これでもって物質文明の幕開き、と言われても現代人にはどうもぴんと来ない。
そりゃぁ当たり前、蒸気機関、モルス電信機、ガス灯、石油ランプ、鉄道馬車など、現代人からすれば、これらは博物館展示の遺物で、エジプトのミイラなどと同列の歴史遺物として見られてもしかたない。
ちなみにワイはいま市立図書館のパソコンでこのブログを書いているが、ここへ来るのにまず家から「自転車」をこいできた。そして徳島線の気動車(ディゼルカー)に乗った、これは「自動車」と同じエンジンである。列車の中では、遅い通学の(午前10時半から始まる学校ってどんな学校だ!)坊ちゃん、嬢ちゃんが乗っていて、静かに高機能携帯電話の画面で、なんや知らんが「動画」を見ている。また別の子ぉらは両耳から紐を垂らしている。あれは耳栓型の受話器で「録音した音楽」を聞いているのであろう。そして徳島駅のホールでは日中なのに明々と「電気照明」がともっている。
ここへ来るまでに体験したこの『自転車』、『自動車』、『動画』、『録音した音楽』、『電気照明』、とこの5つを私はとりあげたが、現代につながるこうゆうものこそ、いわば第二の文明開化といえるのである。これが庶民レベルに浸透してきたのが大正時代である。
現代人から眺めると、大正ロマンと呼ばれるものは情緒的なものが中心と思われている節がある。例えば竹久夢二の絵のような、しかし大正時代に生きていた人の身近な夢(明日にも意志と若干の金さえあれば実現するだろう夢)を見ると、もっと物質的・肉欲的なものである。こんどの公休に「活動大写真(映画)を見たい」とか「カフェでコヒを飲みたい」あるいは「蓄音機で流行歌を聞いておぼえて歌いたい」、「西洋料理店たらゆ~とこでトンカツ、コロケ、ライスカレのどれか食べてみたい」などである。若い独身の大正青年なら、好みの異性とそれらを一緒に体験したい。できればそんな場所で気の利いた言葉の一つでも異性に話してみたい、それが大正時代に生きた人の身近なロマンといえるのではなかろうか。
上記に取り上げた大正期の第二の文明開化の5つ、『自転車』『自動車』『動画』『録音した音楽』『電気照明』のなかで、まず個々の庶民の家まで入って広く浸透したのが『電気照明』である。米国では白熱電灯、送電施設は19世紀末には浸透しつつあったが、日本では遅れ徳島市内でも各家庭に普及し始めるのが大正期に入ってからである。ワイの住んでいるところは県西部のかなりの田舎だが電柱が立てられ電線が引かれ家に電燈が点りだした最初は大正7年のことである。
この大正に各家庭に入った白熱電灯の明るさ、そして便利さは大正人を驚嘆させるものであった。石油ランプとは(徳島市井について随想を書いているモラエスによればまだ行灯もあったそうだ)比べ物にならないその眩さ(直視できない灯火など今までなかった)。初めて体験した人が「白昼のごとし」と表現したくらい大正人には明るく感じた。大正期が終わるまでには、この驚嘆すべき電気照明はわが徳島県の「里」の隅々まで行き渡った。しかしあくまで「里」の隅々であることに注意してほしい。山村部(一部を除いて)などの電気の普及は昭和に入ってからである。まして炭焼きの「炭ちゃん」のいる山奥などは昭和30年代でもランプ照明が残っていた。
点光源に近い白熱電灯は眩い光を放射する、そのためか蛍光灯などに比べると照らされたところの明るさと闇の部分のコントラストがはっきりするという性質を持っている。光の当たった部分はやけに明るくなる半面、闇はもっと濃くなる。これは外の闇から白熱電灯の光の漏れる家を見た場合も言える。闇の中にいて、遠くにあるなにか誘われるような光がもれている家を見ると、まわりの闇がいかに暗いかがわかってくる。夜、炭焼きの炭ちゃんの住む山の尾根近くから、遥か下の方に広がる里の部分を見ると、今までは夜の闇で覆われていたのに電気が里に来てからは、三々五々明かりが見える。里の光の群と炭焼き炭ちゃんの住む山の闇との違いを際立たせている。
現実に深い闇の中に鬼が跋扈跳梁するとは言いたくないが、深い闇部分がなにか心理的作用をもたらし、人のこころに魑魅魍魎のイメージを生んできたのは指摘されるところである。アフリカ諸国にいろいろな支援をする団体の理事長をやっていて自身もアフリカの現場を見てきた曽野綾子さんによると、電化(つまり電気が引かれる)が進むと、今までのさばっていた迷信、呪術師(間違った医療行為をやって弊害が大きい)の力が衰え、良い意味で文明化するそうだ。大正期の日本も電燈によって光と闇のコントラストが大きくなるように、里と山(奥)の電化(送電施設)の違いも里と山に大きな落差をもたらした。里では電燈の光が闇を蚕食するにつれ闇部分は狭まり、そこを住処とする鬼の話も次第に話されなくなる。以前は暗い炉辺で話された鬼の話も、電燈の下では現実味を失い、単なる昔話、怖いお伽話として話され、受け取られるようになった。しかし山では、電化されず以前の闇が残っている。だがやがて時とともにそこも電化されるだろう、というのが大正時代の状況である。もし鬼がいるとして、彼らの立場に立って考えたら、住むところを追い立てられ、次第に狭まりつつあるわが鬼の世界、座して死をまつのか、なにか反撃の手は?いっそ破れかぶれの大反撃をしようか、と思うかもしれない。そう考えると、大正期でも鬼滅の刃のようなファンタジー話が生まれるのはあり得る話である。
電気が各家庭に引かれだして(電線)「電気」が一般化したのが大正時代であったが、市井の一般の庶民には電気はどんなものとして映り、理解したのであろうか。それを述べる先にこの図を見てほしい。
鬼の図といっても何ら不思議ではない。鬼滅の刃にこの種類の鬼が出てきても全く違和感はない。普通の人に「これ、なあぁにや?」と示せば、十中八九「鬼ちゃぁうんぇ」と答えるだろう。これ美術史に詳しい人が見たらわかるが、『雷神の図』(江戸期・俵屋宗達作屏風図)である。でも実際のところか数ある鬼の一種類と見てよいと思う。
大正期になっても庶民にとって「電気」の理解は、江戸期の人々が平賀源内のエレキテルをオランダ渡りの摩訶不思議な奇術と見たものからそう発展はしていない。それは目には見えない、導線を使って瞬時にやってくる、裸線に触れればビリビリと大ショックがあり、場合によると瞬時に心臓が止まって死んでしまう、しかし導線に導かれたそれは家の電気の球に入ると今まで見たこともないような明るさで光り輝く。具体的な仕掛けを見て理解する大正期の庶民にとって、目に見えないこれは理解の埒外である。ただこれを文字にし「電気」とすれば庶民も理解の手助けになる。江戸末か明治初めにエレクトリクを電気と翻訳した人はすごいなぁと思う。初めてこの文字に接するとイメージするのは「電」である。これは「雷電」あるいは「電光」つまりイナズマのことである。「気」は昔から目には見えないがなんか体内、あるいは心、または自然にみなぎる「エネルギ」のようなものであるとの理解はあった。
結局、手っ取りい庶民の理解は、「カミナリさま」と電気はどうも同じらしぞ、電気で玉が光るのはカミナリはんの力じゃ、カミナリがピカっとする力と同じじゃ、という説明がすんなり理解しやすかった。ワイの小さい時の理解も大差なかった、さすが幼児で文字からはカミナリさまはイメージできなかったが、ワイの理解は導線の中をごく小さな巫女(なんで巫女さんとイメジしたかは今だもって不明)さんがたくさん列をなして手にかかげた三方の上にピカピカ光る「電気」をのせて(どうも宝珠としてイメジしたらしい)ゾロゾロと電球の玉までやって来て、宝珠のような「電気」を玉にポイと入れ、光らすというのである。
第二の文明開化のもっとも革新的なものである「電気」の理解に「鬼」のような雷神(カミナリはん)がイメージとしてはいっているのは、現代人からしたら、「おまぃら、アホか!」とでも言いたくなろうが、そもそも現代人でも「電」という文字にカミナリのイナビカリの意味が込められていてそれが電気の語源になっていることを理解する人はあまりいまい、むしろ当時の人が「電気」という新鮮な言葉に接し、言葉から意味を理解しようとしてこのように考えたのは、私としてはごく自然で素直であると思う。現代人が、一世紀前の人は物理的な理解がない、として馬鹿にできることではあるまい。(英語の語源のエレクトリックはこすったら静電気が起こる琥珀を意味するギリシャ語のエレクトロからきているという、琥珀より、日本人のが考えた雷電の方を語源とする電気の方がずっとふさわしい気がするがどうだろう。ちなみに中国・朝鮮語は日本の造語が元である。)
つまり当時の最先端技術である「電気」に鬼(雷神)が結び付いていイメジされていたのである。これファンタジ物語としたら、電気と鬼(雷神)は実は一体で、電気のあるところ(つまり導線を通じ)、鬼もやってくる、というのは考えるられるストーリであり、大正期の電気にまつわる鬼物語ができそうである。
どうも「電気」と「鬼」を結びつけるための牽強付会が過ぎたようである。脱線はここまでで本筋に戻ろう。電燈以外にも摩訶不思議な電気仕掛けの一種とみられていたもので上記の5つの中に「活動大写真」がある。実は原理の中心は機械的なものだが投影機械にアーク灯などを使うため庶民はやはり「活動写真って電気の作用のなんかちゃぁうんかぇ」と思ったようで、初期の活動写真映写館は「電気館」というハイカラな名前で呼ばれたりしていた。
活動大写真のごく初期は見世物的要素が強かったが大正期に入ると常設の活動小屋(今だと映画館)ができるようになった。ここ徳島でも常設の活動写真上映館ができたのは大正初年で「世界館」と「三友倶楽部」がほぼ同時に徳島市に誕生した。活動大写真の影響力はすざまじくたちまち庶民の娯楽の王座に君臨することになる。江戸期からあった芝居と違いモダンで、低廉な木戸銭で入れ、大人から子供まで楽しめた。大正期には映画スターも誕生し、田舎のむさくるしく狭い活動小屋でもあこがれの映画スターを見て楽しめた。大正期の有名なスターは「尾上松之助」(愛称目玉のまっちゃん)、「栗島すみ子」などである。
下は三友倶楽部(活動写真上映館)の宣伝楽隊が眉山下の天神社で休んでいるところである。活動大写真が入れ替わるとき、このように楽隊をだしてブゥカブゥカドンドン、賑やかに街を練り歩きビラなどを配った。そしていつも大人気で大入りが続いた。
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