鬼は殺人・人肉嗜食が本性であり加えて人以上の力や能力を持つ。そんな生き物が増殖し、世を徘徊しては、たまらない。しかし今まで人類は鬼によって滅亡しなかった。一つの例を考えると、ネズミが増えすぎたら捕食者であるキツネなどの天敵が増える。しかし、ネズミが絶滅してしまったら肉食の捕食者も困るので自然はピラミッド型に生き物を配し、ある天敵にはさらに上位の天敵を置いていて、どの種も増えすぎないようにしている。したがってキツネなどの捕食者がネズミを絶滅させることはない。
鬼対人もそうなのか?人にとって鬼は天敵なのか?そうではあるまい。傲慢かもしれないが人は地上の全ての生き物の最も上に君臨する(先ほどの天敵捕食者のピラミッドで言えば頂点)生き物である。これを「万物の霊長」と称する。つまり人の上の「天敵」はいないのである。もし鬼が増えるとしてもその最大の天敵は「人類」以外ない。鬼が増えるのを抑えるのは人間以外ないのである。鬼が人の捕食者となって、人口が、増えすぎたネズミのように鬼によって制せられることはない。むしろ人が鬼の数を制しているのである。
アニメ「鬼滅の刃」ヒーローの最大の目的は鬼になりかかった禰豆子を人に戻すことである。その結果鬼と闘わなければならなくなっている。ヒーローが最終的に鬼の絶滅をめざしているかどうかわからないが、鬼の本性を考えると、人の立場であれば鬼と名の付くものは生かしてはおけないだろう。これは猫がネズミを見ると必ずとらえて食い殺したくなるのと同じである。でも前にも言ったように自然のバランスによって各々の種が絶滅することはない。そのようにして鬼と人は結果的に共存してきたのが明治までだった。
でも鬼の数を制するには、人が鬼の力や能力を超えたものを持たねばならない。鬼の話はたくさん昔からあるが、人は果たして鬼以上の力・能力を持っていたのか、鬼は人と違い超能力のようなものを使っている。アニメ「鬼滅の刃」はファンタジー物だからヒーローに鬼をこえる超能力を与えるのは問題ないが、歴史上に存在した鬼退治の人はみんな超能力を持っていたのか、そんなはずはない。鬼退治する人が剛力の人だったことは間違いないがその人は超能力は持っていない。一方、鬼は妖術に近い超能力を使う、そんな鬼に太刀打ちできるのか?それができたのである。鬼の超能力にはそれをこえる超能力をぶつけるのである。歴史上それは「神仏の力」となる。鬼の腕力にはこちらも腕力、鬼の牙や爪に対しては、こちらは刀剣、弓矢などで戦うが、鬼が見せる超能力は、神の威光の力であったり、経文の力の、こちらも摩訶不思議な力で対抗した。
ところが明治を迎えこの人対鬼・天敵関係の微妙なバランスが崩れだした。鬼の住むところは、深山や闇、迷信深い人のいる里ちかくである。これが急激に狭まったり消滅したりしてきたのである。大正期になると眩い電燈が全国的に広がり、ますます鬼の住むところがなくなっていった。ところがそれに呼応するように人の神仏の信仰心が衰えたのである。このため神の威光の力や経文の力も失せてきたのである。鬼の超能力に対抗できる人の側が神仏に頼る超能力を準備できなくなったのである。それらを迷信として切り捨てるのが「文明開化」であった。
大正期に入り鬼に対して増々淘汰圧力がかかり、勢力が急激に衰えつつあった鬼にとって、人が神仏の超能力を使えなくなったのは、ある意味、起死回生のチャンスであった。なぜなら鬼はまだ超能力が使えたのであるから。アニメ「鬼滅の刃」の鬼退治が厄介なのは鬼が超能力を持っているのにたいし、こちら側は神だの仏だのの超能力は使えないのである。これ平安・鎌倉、いや江戸時代でもいい、その時代は神仏や法力の加護によって、という鬼退治の筋立てができるが、時は大正である。人の側からそれは使えない。
「神出鬼没」という言葉がある。空間をワープして瞬間移動するようにパッと消えパッと出現することであるが。鬼滅の大正期の状況は、神仏の力は存在しないにもかかわらず、鬼はまだ存在していて鬼は「神出鬼没」できたことである。アニメ「鬼滅の刃」でもこの鬼の神出鬼没ぶりがあるから見ていて面白いのである。超能力の中でもこの「神出鬼没」が最大の鬼の武器である。
さて、現実を考えてみる。人の裸の力は鬼とくらぶべくもなかったが、明治期以降、馬力を生み出す源として、蒸気機関、内燃機関を発明し、人はその力を利用するようになった。そうなると鬼に勝る馬力を手に入れることができる。鬼滅の鬼・無限列車のモデルとなった8620型蒸気機関車の馬力は650馬力である。大正期には電燈で明るくなったばかりでなく、人は腕力でも鬼をしのぐものをいろいろ発明していった。殺傷武器については、第一次世界大戦のあった大正期、もう鬼でさえ怖気をふるうような殺戮兵器が人によって生み出されている。完全に人間が勝っている。
腕力でさえ、大正期には数千馬力の機関が生み出され、完全に鬼をしのいだ。しかし神出鬼没はまだ鬼の専売といってよく、人には無理であった。ところで神出鬼没といってもホントに間髪を入れずパッと消え隔たった場所にパッと現れる必要はない。神出鬼没の内実はSFのワープではない。人の能力ではありえない速度で、自分の思う場所に移動したり、あるいは空中を素早く飛んだりすることが神出鬼没であると見てよい。非常に高速で移動できるものは19世紀に鉄道がうまれたが、レールの上を走るもので、地図で言えば一枚の地図の上に一本の線が引かれその上のみの高速移動で、「自分の思う場所」に高速で移動できるものではない。
ところが大正期には「自動車」が実用化される。原理的にはこの大正の自動車と今の(令和)の自動車と変わってはいない。今の自動車移動の状況を見ると、ほぼ各家の戸口から戸口へ自家用車で行ける。明治期の高速移動の手段が鉄道だった時は地図上の一本の線の上でしか移動できなかったのが100%とまではいわないにしてもそれに近いくらい、家々の玄関口まで自動車で高速移動できてしまうのである。つまり地図上で線だったものが面になり、自分が行こうとする家まで自家用車で乗りつけられるようになったのである。
この自動車移動の初めが大正である。まだ自家用車は無理にしてもタクシーが実用化されたため都会の主な町内までは乗り込めるようになったのである。これをもし平安、鎌倉、いや江戸期でもそうだがその時代に生きた人が、この現代の、各家々の玄関まで高速で移動できる状態を見たらなんと思うか、それこそ鬼か天狗の所業の、まさに「神出鬼没」と思うに違いないのである。そして大正期には人が得たその神出鬼没ぶりが、最後に鬼や天狗のみに許されていた領域まで拡大したのである。それは大空、つまり空中を自由に飛び回るということがそれである。
これで原理的には人は鬼と同じような神出鬼没を手に入れ完成させたといえる。地上のいたるところへ、そして大空を自由に飛び回るという、鬼の所業を。ただ車と違い、飛行機は自由に飛び回っても、思うところへのは着地は、今のところできない、しかし、やがてそうなる可能性は指摘されるところである。かなりな重量積載のドローンの性能が上がれば、人ひとりそれこそ戸口から、別の家の戸口まで空中移動できるのではないだろうか。
自動車、飛行機が華々しく庶民の目に触れる形で登場し、実用化に進んだのが大正時代である。ファンタジーではあるが、最後の鬼の反撃がこの大正期だったのは、鬼の最後の能力の「神出鬼没」までが、人に侵された時期でもあるのは興味深い。これ以降も地上、そして空中で、人の移動スピードはどんどん速まるのである。
大正期、空中に飛び回る能力を初めて見せた人が徳島の小松島にいた。先日小松島へ行ったついでに彼の業績を刻んだ記念碑を見てきた。
下がその碑、初飛行したのは地元出身の「幾原知重」氏。
操縦席の幾原氏と彼の愛機(複葉機なのが時代を感じさせる)
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