一方、オペンハイマの内面も映画の見どころである。離婚、相手の自殺と配偶者をめぐっての彼の家庭的な苦悩も描かれているが、そんなのはまぁ誰にでもありうることでどうでもよい。やはり一番の関心は原爆製造に手を貸した科学者としての、さらに言えば「原爆の父」と称賛されるまで上った彼の苦悩である。
最初はそのような苦悩はなかったはずである。映画でも描かれているようにユダヤ人の彼としてはナチスより一刻も早く原爆を完成させねばならないと使命感にあふれていた。それが都市部で使われた場合、前例のない悲惨なことになるのはわかっていたが、しかし彼はこう言っている、「原爆が完成すれば、戦争がなくなる」、国家どころか人類をも消滅しかねない可能性を秘めた原子爆弾の完成で、それを持てばむしろ戦争を抑止できると考えてのことであろう。後の「核抑止理論」に結び付く考えである。
しかしそれは原爆ができあがるまでの言い訳にすぎなかったことがわかる。確かに原爆製造にかかわった科学者はオペンハイマを含めて、「威嚇のために、敵方の無人の場所で使うべきだ、少なくとも民間人の居住地では使うべきではない」との考えが多数で、政府に上申もするが、いったん完成すれば科学者たちのそんな思惑をこえて兵器として実戦に位置づけられていく。やはりな、という感想である。それはオペンハイマもわかっていたはずである。
科学者も含めアメリカ軍・政府にはこのような言い訳もあった。「原爆を使うことにより日本の降伏が早まれば、地上戦での我が国の兵士の死傷を数十万単位で減らせられる。そもそも卑怯なだまし討ちである真珠湾攻撃で戦争を仕掛けたのは彼らである。相当の罰(つまり原爆)を受けてしかるべきである。また降伏が早まれば彼ら日本人だって死傷するのを抑えられるではないか。」
原爆完成前であってもオペンハイマも含めた科学者の良心の疼きはあったはずである。科学者も原爆使用の決定に参与させよ、という動きもあった。しかし事実でも映画でもそのような意見があるだけで、決定権は軍および大統領に帰属することははっきり示されている。いったん完成してしまえば科学者の良心だの思惑だのは無視され軍・大統領の手に原爆は委ねられるのである。どうしても原爆使用することに科学者の良心が許さないならば、アインシュタインのように初めから開発にかかわるべきではなかった。しかし関わったがゆえの様々な苦悩があるから、その人々を取り上げ、それを映画として作れば、それは深みのある作品になるのである(アカデミー賞を受賞した)。
映画のクライマックスは1945年7月16日の原爆爆発実験の成功である。体を揺さぶられるような光と音の大迫力の爆発のシーンである。日本人の一人としてそれを見た時
「あぁ、もう広島の運命は決まった、一直線に死と破壊へむかっていく」
と悲嘆にとらわれる。しかし日本人の間には「いや、そうではあるまい、この7月16日から8月6日まではまだ間がある、もし日本がその間にチャッチャと早く降伏を受け入れてさえいれば、広島の悲劇はなかったんちゃうか。回避できたんじゃ。」ちゅう意見がある。しかし映画をよく見てほしい(キリシタハ・ノラン監督もアメリカ側の人でありながらよくこのように描いてくれたと感心するが)、映画では(事実でもそうだ)大統領・軍の確定的な意向は、1⃣ 必ず原爆は日本に使用すること、それも二発(一発は衝撃を与え無条件降伏を迫るため、二発目はまだ戦争継続すればさらなる原爆使用されることをわからせるため)、2⃣ 都市は広島、小倉、長崎、新潟など決めてあること、そしてここが重要なところだが、3⃣ 日本に使用するため投下されるまでは降伏を引き延ばすこと、である。3⃣ については異論がありそうだが、映画ではかなりはっきりとその意向が描かれている。
原爆で降伏が早まり結果としてアメリカ人や日本人のさらなる死傷が抑えられたという説についても、映画の中では疑問を呈した描かれ方もしている。戦後しばらくはアメリカでは受け入れられなかったような描き方である。現代日本人からは、この映画に対し原爆の悲惨さの描かれ方が物足りない、あるいは反核をもっと強調すべきである、との意見もあるが、私はそうは思わない。反核のプロパガンダ映画なら確かに物足りんだろうが、原爆開発者の、開発したがための紆余曲折の人生を描くドラマとしてはこの映画のような描写で十分であると考えている。
爆発の火球に巻き込まれなくても2km圏内にいる人は爆発の光を浴びるだけで表面温度は数千度に達するのである。皮膚は瞬時にめくれ上がり重度の火傷をおう、そして次に来る衝撃波で形あるものは破壊されるのである。ふつうの想像力を働かせるだけでその悲惨さはわかる。映画でもオペンハイマが想像のイメージとして、強烈な閃光を浴びた人々の皮膚がめくれあがり炭化するほどの火傷を負っていくのが映像化され、足元には完全に炭化した人の死骸らしきものも転がる。また直接ではないが広島の惨状の映画を見るシーンがあるが、ナレーションの声で、火傷や身体的損傷は負わなくても数日から数週間の間に健康とみられていた被爆者がバタバタと死んでいくとの説明がある(放射能被害である)、オペンハイマの原爆とかかわった生涯を描くドラマとしては、原爆の悲惨さは充分伝わっている。
この映画で私の印象に深く残ったセリフが二つある(シーンとしては三つになる)。そのセリフの一つは映画の前半部での物理学者の言葉、大意は「結局、宇宙での生起は、エネルギーと確率(&統計)である」、この言葉「神はサイコロを振らない」と対置の関係にあるのか?何のことかよくわからず見逃してしまいそうなところではあるが、最近、宇宙の行方とエントロピーについての本をいくつか読み、それについて考えている私としては見逃しにできないシーンである。この意味は何なのか、それは宇宙論的な宿命を内包しているのか、この映画でのその言葉の位置づけは何なのか、すぐにはわからない。ワイの足りない頭でもちょっと考えてみたい。
そして第二のセリフは、「われは死なり、世界(宇宙)の破壊者なり」の言葉である。これはインド古代の聖典「バガバッド・ギーター」(韻詩)の一節からの引用である。映画の中ではこのセリフは二度発せられている。最初のシーンはなんと!(オペンハイマが)性交中(いや前後かな、ともかくその一連のシーンで)にサンスクリット文学の話をし、そこからこの言葉が出てくるのである。その体位ちゅうんが、これまたいうのも恥ずかしながら気色エエんが、素っ裸で女性が騎乗位(上)になりながら(下はもちろんオペンハイマ)お互いの性器を結合させてエクスタシーに達しようとしているのである。前後の違いはあるが、大胆な体位での性器の結合、そして我は死なり・・、というインド古代聖典の引用は、ワイには、その映画のシーンが、ヒンズー教の男神で女神とともに性交して一体になっている神像をイメージさせた。ヒンズー教にはこのような男女結合神像がたくさんある。
0 件のコメント:
コメントを投稿