二作目の「ボーは恐れている」は分類でいえばどのような映画になるのだろうか、展開の筋が一見ハチャメチャのように見えるため分類しにくいが心理スリラーというジャンルが思い浮かんだ。しかし映画のビラをみると「オデッセイスリラー」と書いてある。聞いたことがない映画の分類である。オデッセイ(帰省)とカッコ表記の説明もある。一種のロードムービーと思われる。確かに離れて暮らしている母親(謎の死を遂げたと連絡がある)のもとに向かう展開がある。しかしあえてオデッセイスリラーと言われているのには、ある意味が込められているとおもっている。
オデッセイ(古代ギリシャ叙事詩・オデュッセイアから)とは多くの試練、苦難の長旅(10年にわたる)の叙事詩のことであるが、それだけではあるまい。ギリシャ神話(叙事詩)にはある複雑な心理傾向を表すオイディプスコンプレックス、エレクトラコンプレックスを持つ主人公が登場する。叙事詩オデッセイもやはり何らかのコンプレックスを有するとみられる主人公が登場している。
成人しても人は父や母に対しては相反する複雑な心理を持っている。過度な親密さや甘えがある反面、反発、怒り、恐れ、あるいは殺意さえも抱く複雑な心理状態である。このボー(主人公の名)も母親、そしてまだ見ぬ父に対しこのようなコンプレックスをもっている。長旅だけでなく、それも含めギリシャ叙事詩にもとづく「オデッセイ」スリラーと表現したのではないか。
ボーは中年のおっさんであるが、きわめて繊細で傷つきやすい心を持っている。それがためだろう心を病んでいる(怪しげぇな精神分析医が出てくるが、これもボーの主観を投影したものだろう)。だから映像ではボーの心象風景が現実のものとなって映る、それは異常な暴力や不条理、狂気が充満する世界である。ボーがそのように認識しているのである。
これは心を病んだボーだけの世界だろうか、いや我々にも実は似た世界が現れることがある。それは睡眠中見る夢、「悪夢」の中である。我々が覚醒中の心の中は、良識、社会性、節度で言い表されるような「抑圧機能」が強く働いている。そのため心の奥にあるボーが持つような、他者(または世界そのもの)に対する恐怖、暗い情動、コンプレックスは抑えられているが、しかし夢あるいは悪夢では違う、抑制や制約は働かず、それらは奔放にあらわれ、この映画のように脈絡なく異常な世界が次々現れる。
最近私が見る夢は悪夢に近く、甘美さもあるにはあるが、あっという間に恐ろしいものに暗転する。それを見た瞬間はおそらくリアルに体現しているのだろうが、やはり夢である。目覚めると儚く薄れるが、いやな感じは後々まで残っている。このような私からすると、ボーの認識を映像化したシーンは一見わけのわからぬものに見えるが、十分共感できる。
さいごに 映画の最終のシーンで、真の闇とも違う極めて薄い光がかすかに瞬くドーム状の中の水面が出てくる、ボーは逃れて(恐ろしい審判の場面がその前にある)ボートに乗って水面に漕ぎ出すが、突然爆発・巨大な水柱があがりボーは終焉する。これはボーの一生の終焉のみならず、宇宙そのものの終焉を象徴しているのではないかと私は見た。そのあとかすかな闇と静寂がかなり長く続く(そのままエンドロールに入る)、それは永遠に続くものと思われる。それは無や死と同じように我々をぞっとさせる。この映画で唯一、誰もがたどり着く現実がおそらくこれであろう。それはいいようがなく恐ろしい。(両作品とも明日3月7日まで北島フジグランシネマで上映)
※ 三月下旬公開の映画に「オッペンハイマ」がある。原爆開発の父と称される科学者を主人公にした映画である。これを次回は見に行こうと思っている。おもっしょかったらまた感想をブログにアップしようと思っています。
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