2024年3月20日水曜日

新聞記事から

  今日は春分の日、この日は曇りや雨が統計的に多くなる時期になるが、今年は強風、そして晴雨定まらぬ日で、晴れていたかと思うと、急に横殴りの雨になる。また気温も低く、かなりの悪天だった。駐輪場にとめてあったワイの自転車も強風でひっくりこけていた。どっか行こうかなと前日は考えていたが昨夜の気象予報をみて悪天が予想されたので、どこへも行かなかった。春分の日を行楽にと思っていた人には気の毒な日となった。

 で、どないしょんかいなちゅうと、ぬくくて快適な図書館にいた。読書と言いたいが、おおかたポケェーとしていた。最近そのポケェーが多くて、冗談なしに痴呆が進んでいるようだ。今日も知人と話をしていてつくづくとそれを感じた。前は人の名前が思い出せなかったが、最近は名前ばかりか固有名詞もド忘れして出てこない。今日も、小松島にあるスウパアのイイトインは無料供給の緑茶やほうじ茶が紙コップで飲めるサービスがあるが、何度も行ったそのスウパの名前が思い出せない。「ええっと、ほれ、あれじゃよ、なんつうたかいな、セブンでもないし、あぁ、思い出せん」、結局、しばらくして思い出した。ああそうじゃ、キョウエィじゃ、なんと!こんな今まで何度も利用して名前もなじみになっていたその名前をド忘れしたのである。トホホどころか、いよいよ危ないわっ。

 春分の日は昔は、一年にたった三度(元日、春分、秋分)しかない休刊日だった。最近はこの日は休刊日ではないが、月一度は休刊日があるようになった。もしかすると将来はもっと休刊日多くなるっちゅうか、逆に発行日が少なくなるかもしれない。近年、紙媒体のメディアは滅びるんちゃぁうか、との危惧があるが、若い衆を中心にどんどん紙離れが進んでいる。四日前に四国JRの時刻表が改定になったが、もう駅ごとの、顧客にたいする紙の時刻表の配布はやめた。スマホでどうぞちゅうこっちゃ、そのスマホで若い衆は漫画を見るようになった、分厚い少年漫画週刊誌もやがてなくなるんちゃうだろか。いよいよ紙媒体メディアの黄昏か?

 本日の図書館の新聞コーナーはジジたちでにぎわっている、ワイもその一人じゃ、やっぱ、ジジには紙媒体メディアの王道、新聞が一番じゃ。ジジっつうても最近はスマホを持ち(ワイはまだガラケェじゃが)操作も手慣れたもので、指でチャッチャとタッチし、必要な情報画面を呼び出し、読んでいるが、やはりパサパサ、ガサガサと広げ、読む新聞がエエのか各全国紙を閲覧し、次々と回し読みしている。

 では今日の新聞紙面から

第一面

 一面トップは「日銀金利上昇に転ず」、最近の一面に多い政治と金の不正なんど読む気も失せるが、経済はそれに比べると関心を持たざるを得ないが、金利上昇で、どん底生活のオイラの生活がどないなるやら、よ~わからん、もう儲けるような仕事もできないワイとしたら、金利上昇が賃上げとどのように関連するかは、どうでもよい。それより金利上昇で物価がどなんなるやらが心配だが、まちごうても物価は下がることはあるまい、年金もあがるまい、ということで、「金利上昇」、ふん、そんなもんどうでもええ、どうせ窮屈な生活が続くだけじゃわ。という心境である。

スポーツ面

 ちょっと癒される紙面である。我が県の高校球児が一回戦突破である。勝ったのは愛知っちゅうから強豪校の輩出する県ではないか。また対戦相手は強打者のニキータ(白系ロシア人)がいる、実際、飛ばないといわれる改訂になったボールとバットでホームランを打ち、全国紙のニュースになったほどの選手である、それを擁するチームに11対4での勝利である。単純にうれしい。(そんなのいないが)まるで孫の活躍をみるジジの心境である。

 いやぁ~、凛々しいねぇ、晴れの舞台だから全員、丸坊主の散髪したて、青々した頭もすがすがしい。ちょっと古い言葉だが、大和へのこ・・いやちごうたわ、もとい、「大和おのこの晴れ姿」、すばらしい。


定番人生相談コーナ

 このコーナー、ほとんど娯楽面に等しいんじゃんないかと思う。深刻な相談なんだから、と思いつつも、なんかニヤッと笑いながら読んでいる自分がいる。今日のある全国紙の相談コーナーから、60代の夫からの妻に(同年代)対する悩みである。

 「要するに妻が悪妻である。性格がキツイ上に、夫も含めあらゆる人の悪口のタラタラ、である。それは次々と繰り出してきて止まらない、夫が注意すると激高して手が付けられなくなる。40年一緒に過ごしてきたがこの先もと、おもうと苦しくなる。いいところもある妻であるが、どうすればよいのだろうか。」

 離婚したいということは言っていない、いいところもある妻と言っている。なんといっても40年連れ添ったのである。そう深刻な相談か?と思いたくなる。相談室の回答の要旨はこうである。

「夫もそれに対し、激したり、また辛辣に言ったり、説教もだめ、笑顔で接し、優しく妻に対してふるまうのがよい」

 なるほど。そうできればいいがなかなかなぁ、でも派手に夫婦喧嘩してもなぜか別れず、一緒にいる夫婦も多い。冷めてあきらめか、とも思うがそうでもない、夫婦のことは他人にはうかがい知れないところがあるもんなぁ。ワイだったらどない言うじゃろ、「良妻をもてば幸せにはなれます、しかし悪妻を持てば(有名な悪妻持ちのソクラテスのように)アンタ、哲学者になれるよ」とでも答えよう。

文化面

 業界紙や学会紙は別として全国紙で一番インテリげぇな人の読む新聞と言えば「NK新聞」か。経済面だけでなく科学に対してもするどい論評や斬りこみがある。術語(専門用語)も多い。そのNK新聞の文化面といえば学術論文ほどではないが、少なくとも岩波や中公新書の教養書くらいの論述文章が載っている。

 その今日の文化面の記事、日本語の医学用語とその難しさについて、である。いたって真面目で学術的な記事なのだが、読んで思わず、桃色ににやけてしまった。出だしは、医学の日本語つまり漢字の難しさを言っている。確かに人体にたくさんある骨、大骨から小骨に至るまで難しい漢字が充てられているのは知っている。専門家(医者)以外は知らない人体の漢字も多い。しかしこのように医学用語、人体の骨や器官など日本語としての漢字があるため、欧米圏以外では異例ともいえる母国語(つまり日本語)で医学専門教育ができるのである。

 これは江戸期に解体新書など著した杉田、前野良沢など蘭学者がオランダの医学書を翻訳するにあたって苦労して作った医学用語漢字が基礎にあって、それを明治になって本格的に制定したものである。

 そして記事は次にその医学漢字をどうして作ったかにうつる。そこからがおもっしょい!例として挙げたのが「膣」である。欧米語では「ヴァギナ」という。これは(マメ科植物のさや)、または(刀のさや)を意味する、これを女体のアソコにあてたのである。解説ではそこまではいわんが、チ〇ポを剣と見立て、それが収まるのが鞘だから、女体のアソコが「さや」になるのは、なるほど語源としてすっきりしてわかりやすい。しかし露骨さを避けるとすれば同音の莢でも同じ意味にもとれる(これは私の発展的解釈)。

 (記事に戻ると)江戸期の蘭学者は室をサヤという意味にした。しかし室では一般的過ぎて多くの用語に用い、ヴァギナと特定できにくい、そこで月(にくづき)をつけて「腟」にした。しかし女体の漢字に詳しい男性諸君はご存じのように、女性器のチツは「膣」と書く、現代では穴かんむりの(皆さん、穴かんむりですぞ、穴ですぞ、興奮しないように)膣と書く。しかし(これは私には初耳だが)江戸期からの伝統か医学会は現代でも「腟」と室になっているそうだ。いや~ベンキョになるわ。

 また読み方も、江戸期は「シツ」と「チツ」の二通りの読み方が並行してあったそうだ。という字は古来から中国にあったが、意味は「肉が生じる」という意味だ、だから本来は女性器をさす漢字ではない。それを江戸期の学者は女性器のヴァギナにあてたのだが、深読みすると意味深な言葉だ。(ワイの解釈だが)ヴァギナにペニスがおさまりインジェクションするとやがてヴァギナの奥の子宮から胎児、つまり「肉が生じる」から古来の意味とも重なる、なんちゅうすごい造語だ。

 そんな変遷もあり、今は一般の標準印字体ではが充てられる。

 いやぁ、これ淡々と学術的に論じているが、読み手からするとかなり原始的な情動を揺さぶられる事態となりゃすまいか。男子高校生にこんな文を読ますとどうだろう。ペニスを収める鞘が女性器「膣」の語源で、「腟」という文字もある。こんな言葉を聞いただけで股間がギンギンになったのがワイらの時代の高校生だった。辞書で膣で始まる言葉を調べ、「膣炎,膣外射精,膣痙攣,膣口,膣性交,膣前庭」などなど、目にするだけで大興奮して射精しかねん勢いだった。しかし今の高校生はどうやろ、スマホでそれ以上の写真動画を見ているかもしれん、いや中には身近に経験してみたのもおるかもしれん、こんな学術記事に興奮なんぞせんやろ、ちなみに興奮した高校生のワイも今やジジイ、股間のイチモツは溺死した子ネズミの死骸のようにピクリともせずぶら下がっとるだけやわ。

 いやぁワイからしたらおもっしょい文化面の記事やったわ。

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