2022年6月30日木曜日

明日は何の日 その1


 明日は7月1日モラエス忌である。昭和4年になくなって今年が94回忌である。おそらく明日は寺町の潮音寺で仏式の法要が営まれるのではないか。モラエスさんが仏教に帰依したか(言い換えれば仏教徒・ある宗派の信者)どうかはわからない。でも自分が死んで仏式による葬式を営む人がいればそれは拒まないと行っている、また遺骨はオヨネ、コハルのの眠るそばに仏式の墓を建ててほしいと行っている(だから潮音寺に彼の墓はある)、そして位牌は顔見知りでモラエスのすんでいる長屋に托鉢に来ていた尼が住職の北山の東海寺にある。

 仏教はキリスト教と違い洗礼や入信式のような明確な入信儀礼がないのが仏教の諸派の特徴である。我々だって檀那寺はあり、葬式、法事などは仏式で行っているがきちっとした儀式をして入信したという自覚はないであろう、なんとはなしに先祖から同じ宗派に属しているから信徒と言えば否定するものではないという消極的な仏教信徒である。モラエスさんの自身の葬儀に対する態度は普通の日本人のそれに似ている。

 モラエスさんについて仏教に帰依していたかどうかはおくとしても仏教について造詣は日本人以上に深かった。彼のかいた日記や随想などを読むと仏教の教えの大きな柱の一つである「無常観」についての彼の考えはおおいに私の心を揺さぶる。勢見山を散歩中ふとみた山懐にいだかれた赤煉瓦の煙突、それは火葬場だがそれを見た時のかれの感想、これについては以前ブログに書いた。残念ながらそのブログ(ヤフーブログ)だったが突然打ち切りになり消え去ることになったが、なんとか本文と動画のみはこちらのブロガーに移し替えた(そのブログがこれ、ここクリック、写真は見られない)

 そして彼の長屋の玄関に飾っている額縁のある日本画、それには薄い水彩で草花と蛍が描かれている、モラエスは単純にはそれを見ない、その絵には一見気づかないようだが水面に一匹の蛍が落ちて小さな波紋を立てている。全体的には日本の情緒あふれる美しい日本の草花と虫の絵だがモラエスは見逃しはしない。その一匹の蛍にしてみれば水面に落ちてもがいているのはまさに断末魔の苦しみである。しかしそんな小さな虫の生死など関係ないように絵全体は静寂さに満ちあふれている。水に落ちた蛍の小さな波紋は蛍の小さな死とともにさらに深し静寂の中に溶け込んでいく、何事もなかったように。この非情感!無常観!はどうだ。日本人でも気づかないような仏教的な視点を彼はもっているなと気づく。

 最晩年の彼は、付き合いもほとんどなく、困難な歩行もものとせず日課となった潮音寺のオヨネ、コハルの墓参りをする。打ち解けるもののいない異国で孤独で死を迎えつつある彼を思うと心が痛む。独居老人である私も人ごとではなくまさに明日の自分だと感じる。文筆活動もほとんどなくなり時折ポルトガルにいる妹、知人に絵はがきを出すだけとなる。

 精神だけで死を迎えられたらどれだけいいだろう。どんなに苦悩しても精神だけですむなら少なくとも醜さはなくなるだろう。しかし精神だけでは死は迎えられない、老衰し朽ち、なかば腐りかけた肉体がそれに伴う。モラエスも肉体は異臭を放ち、思うようにならぬ体では排泄の処理もままならず、自ら、ようようのことで大便はなんとか器に受けて、それを窓からそのまま庭に捨てた。死んだときその大便が窓下にうずたかく堆積していたそうだ。肉体の不如意はますます気持ちをこじらせ偏屈になっていった。コハルの母親に相当な金銭を払って家政婦のような仕事をしてもらっていたが死ぬ数日前彼女にも悪感情を強くもったのか怒りとともに来訪の拒否を伝える。

 いったい不自由で自活のできない独居老人がどうするつもりだろう、家政婦代わりのコハルの母も近所の人も思った、しかしその心配はなかった。日を置かず彼はなくなる、発見されたときは変死扱いされてもいいような悲惨な状態だった、7月1日朝、土間で半分逆さまになったような姿で発見される、もちろん警察による検死を行ったがそれによるとキツイ酒を飲んだ後寝椅子に横たわったが夜中、喉の渇きをおぼえて台所の土間に甕の水を飲みに行こうとした(当時水道はない、水は購入して台所の甕に蓄えてある)、しかし不自由な体でなおかつ酔っている、居間からの段差が致命となった、転げ落ち半ば逆さまの形で頭を打ち付けそのままの格好で事切れたのである。

 私もモラエスさんの歳に近づいている同じ独居老人である。孤独死は覚悟せにゃならぬとおもいつつ、先にも行ったように人は精神のみの死はむかえられない、肉体的な、そしておそらくは見るも嗅ぐもおぞましい死を迎える可能性がある(夏、死後何週間目で発見ということを想像してみてほしい)。

 最近、独居老人で孤独死を迎えた文豪の日記随筆をよく読んでいる。なにか少しでも私の心が軽くなるようなことのヒントがありはすまいかと読んでいる。モラエスさんの随想、そして永井荷風の日記「断腸亭日乗」である。しかし、頭のいい文豪であっても老人の孤独感、偏屈、狭量さ、若いときなら何でもないことの耐えがたさ、怒り、などは私と変わるところがない、これは安心するとこなのか、それともこんな人でもそうなのかと絶望すべきところなのだろうか。ちなみに永井荷風も独居で何かしようとした最中なのだろうか、ズボンが半分脱げ、多量の血を吐いた状態で事切れているのが翌日発見された。

 翌日のモラエスさんの葬儀の日は大雨であったそうである。糞尿などによごれ触るのもはばかられるような遺体は近くの勢見山の金比羅さんにいたオヘンド・乞食に金銭を与えて湯灌したそうだ。そして葬列は涙雨の中、二軒屋の涙町をとおり、モラエスさんが生前に見て感想を書き記したあの火葬場で荼毘に付された。

 異様な外人の独居老人をみる当時の徳島の人はおおむね冷たかったのではないかと思える、当時としてはやむを得なかったかもしれない。しかし年々彼の評価は上がり、作品も読まれ、モラエスのことを知る人が増えてきている。94回忌どころか100,200回忌でも祈念されつづけるだろう。合掌

モラエスさんの長屋のあったところ、日課となっていた潮音寺に続く道(今はモラエス通りといわれている)


 そして日々の墓参りの終着、眉山に向かって入った右奥に潮音寺がある(今は小さなお寺である)


 潮音寺の墓地にあるモラエス、オヨネ、コハルの墓

2022年6月29日水曜日

G7対オロシャ&チャイナ


 G7サミットが昨日閉幕した。数年前までG7なんどは古い先進国クラブの遺物、これからは新興国などが加わった新しいサミットの枠組みであるG20やBRICS(ブラジル・ロシア・インド・チャイナ・南アフリカ)などが重要になる。といわれていたが、数年前からのチャイナ発のコロナウィルスのパンデミックへの対処、そして今年に入ってのロシアのウクライナ侵攻などで、少なくとも民主主義を標榜するものにとって、このような世界的な大問題を話し合い対処する場としてのG7の役割はまだまだ期待できるものとなっている。

 それにしても「G7対オロシャ&チャイナ」の対立は次第に明確になって行きつつあるようにみえる。60年前に東西冷戦の最大の危機、キューバ問題があり三度目の世界大戦かとみんな震えた。国家群がこのように二つに割れて対立して第一次、第二次世界大戦が起こったのはご承知の通り、対立しないのが望ましいが世界を見るとお山の大将の主権国家ばかりが目立ちどうしても対立はある、しかしそこは対立が熱い戦争にならぬよう調整努力せにゃならぬ。

 G7の構成国である我々からみると、自由な選挙があり民意が反映する議会を持ち、政府の構成もそれによって決まる、そして基本的な人権、言論表現の自由をもつのは当たり前であるとおもわれるが、それをないがしろにしたり、全く無視したりする国が大国として存在し、大きな影響(悪影響)を世界に及ぼしているのも事実である。大国も大国、それが核兵器をもっていて国連で拒否権を持つのである、言わずとしれたロシア、中国である。

 なんで自由・民主・人権のような基本的なものをこの二国は国民に認められないのだろう?一党独裁、支配特権の維持、広大な国を無理に一つにまとめるため、などがその理由じゃないかと言われている。G7諸国もそれらのことはわかっているつもりである。ただ漸進的によりよい方向に進めば、と期待されていた。その実、G7諸国でも日本、ドイツ、イタリアなどは第二次世界大戦で敗退するまでは結構強権的に振る舞っていたが現在は自由・民主・人権が尊重される国になっている。ロシア、中国もやがて改善してくれればと気長に待つつもりでいた。2000年代初めはロシアもG7に加わり一時は「G8」の一国であった。ところが逆に進み出した。クリミア、コーカサス、シリアへ侵攻はするわ、国内ではプーチンはますます強権的になってきている。中国も辛抱強く待っていたら改革開放の80年代、自由、人権、民主が根付き強まるかと思やぁ、天安門以降は見ての通り、習近平はんが現れて自由、人権、民主はますます弱まり、国家の強権的支配が強まっているように思われる。

 少しづつ漸進的に改善するだろう、ちゅう期待は当分この二国に関しては持てそうにない。

 ロシア、中国はなにかもう歴史をつらぬいて、そのように強権的になる文化、風土、国民の精神というもの、「国柄」「国体」と呼べるかもしれないが、そんなものが数百年来流れ続けているのだろうか。

 ここでG7、ロシア、中国の歴史的な政治風土を見てみることにする。あんまし遡りすぎてもなんやから、そうやなぁ、あ、この間、ブログで日本とロシアの出会いを書いた、大黒屋光太夫はんや、その人が日本に帰ってきた時は西暦1792(寛政4年)だが、その時点のG7、ロシア、中国を見てみよう。

 まずG7(アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、日本)を見る(カナダはアメリカと同じと見なしてよい)の1792

 アメリカ、フランスは独立戦争、革命後の「共和政体」である。憲法もあり、形の上(憲法上)ではほぼ理想的な民主・自由・人権が書かれていた。

 イギリス、国王が統治はしているが議会(下院)が強く、制限選挙ではあるがブルジョアが力を持ち、政体は責任内閣制、裁判制度、地方自治もしっかりと制度化されており、18世紀末の世界においてはかなり自由で民主的な国であった。

 さて問題はドイツ、イタリア、日本である。この三国は共通するところがある、それは1860~70年にかけていずれも国家統一がなり、その後憲法が制定され国がスタートしたと言うことである。そういうと、この三国ずいぶん自由、民主が後れたんやぁなぁと思われるかもしれないが、それにはかなり疑問符をつけて、まずその三国の1792年を見てみよう。

 これまた三国には共通するところがある。それは全く中央集権的な政体ではないと言うことである。悪く言うと「封建的」、よく言えば「地方分権的」、つまりドイツ、イタリア、日本は細切れの「小国」の集合体である。日本はその「小国」を「藩」とよぶが幕府が「藩」の内政に口を挟むことは原則としてなく、内政は藩の自由裁量である。ドイツ、イタリアの小国家群(都市も含む)も同じようなものである。それが概念の上で「ドイツ国」「イタリア国」「日本」と大まかにくくられ一つの国として認識されていた。どこにも中央集権的で強権的な政府はなかった。おまけにその上にドイツの場合神聖ローマ皇帝、イタリアの場合ローマ法王、日本の場合は天皇が小国連合体である国の上位に無力ながら位置していたので、ますます集中的で一元的な統治などからはほど遠かった。これらの国では独裁や強権は嫌われ、多数の集合体の合議、一致が重んじられた。これらは後のことを思えば、自由、民主が育つ栄養度の高い土壌になるものではなかろうか。

 1792年のロシア、中国

 ロシアはエカテリーナ女帝の治世、表面上は啓蒙君主ではあるがその実、専制君主、ロシア正教会の首長でもあるツァーリは神聖なものとされ、皇帝一人が強権的に統治し、中央の力は強く、皇帝の命令は絶対であった。本来はオスマントルコ帝国領土であるクリミアを戦争を仕掛けぶんどったのもこの女帝であった。農奴制があったため、ドイツやイタリアに比べても自由、民主の広まりは遅く、憲政、議会ができるのも20世紀に入ってである。

 中国は中華皇帝のもっとも華やかなりし時代、乾隆帝の御代、皇帝の権力は強く、地方長官もすべて皇帝からの任命を受ける、絵に描いたような一君独裁、専制政治、憲法ができるのは20世紀になってから、その後皇帝が倒れ共和国と称するものができても選挙をとおした議会が今日に至るまでないのはご承知の通り。

 ドイツ、イタリア、日本はアメリカ、イギリス、フランスと比べると民主・自由・人権の実質的な施行・施策は少々おくれた。しかし世界には多くの国がある中でこれらの国が続けたのは歴史的な国柄というのが大きく影響しているのではないかと私は思っている。小国分立の地方分権だが大枠ではまとまっている。そして世俗権力の上にさらに上位の権威、ドイツの場合神聖ローマ皇帝、イタリアは法王、日本は天皇があるのも偶然の一致ではないだろう。権威も権力も一身に集中した独裁者は生まれにくい。

 そう言うと、いや日本は征夷大将軍の専制だったという人がいるが、テレビの水戸黄門などの時代劇じゃあるまいしそんなことはない。1792年は寛政年間、老中筆頭は有名な松平定信、将軍は家斉、その家斉が恣意的に政治を行うことなどない。老中らが構成する閣老会議を定信が主催して重大な決定をしていた。将軍はそれを認め公布する、この幕府の制度、ほとんど村の寄り合い制度のようなもの(実際幕府の制度は「庄屋仕立て」といわれる)、衆で議し、村の年寄りたちが主宰して決める、専制、独裁など生まれようがなかった。この年寄りたちが幕府では老中と呼ばれ、藩では家老とか中老とか呼ばれる。

 ドイツ、イタリア、日本はいずれも多くの封建諸侯が分立し、権威も幾つかある分権的な時代を経てきている、これらの国々がアメリカ、イギリス、フランスについで民主・自由・人権が根付いてきたというのはそのことが大きいのではないかと思っている。

 かたやロシア、中国は数百年来の皇帝専制の国柄である、伝統といってもいいそれをスパッと切ってG7諸国のようになるのは難しいのだろうな。

2022年6月28日火曜日

6月28日ウチらの梅雨があけた

夏空と眉山


  よその地方より若干遅かった四国地方も本日、梅雨明け宣言が出た。

 「えらい、はやぃなぁ」

 ちゅう感想を持つ人が多いであろうが、報道によるとこれは記録破りの「梅雨明け」のはやさ、期間の短さだそうである。6月中の梅雨明けは史上初めて、期間がたった15日というのもこれまた史上もっとも短いそうだ。最近そういや気象記録で史上初だの100年に一回の「なんちゃら異常気象」というのが多い気がする。世に気象専門家・地球物理学者などいう人がいくらいるか知らんが、ほとんどの人は素人と言っていいだろうが、それらの人ほぼすべてが「こりゃ、最近の異常気象の多発は、近年加速度的に早まった人為による二酸化炭素の増加、地球温暖化のせいじゃ」とのたまう人がいるが、原因と結果を取り間違ぅちょりゃせんかとおもう。何らかの結果として「異常気象」が起こるのは当たり前じゃが、その原因を人為による炭酸ガスの増加とすぐ結び付けるのもどうかと思う。

 地学の知見によれば、過去地球は氷河期もあり温暖期もあった、温暖期ちゅうても石炭紀なんぞは日本の夏の蒸し暑さも涼ぅしいような、まるでサウナに入ったような気候で炭酸ガスもうんと多かった。また寒さでいえば全地球氷結っちゅう時代もあったのである。異常気象!異常気象!というが今のように人類にとって熱帯から寒帯までなんとか生存できるような気候が全地球的にある期間は46億年の地史からすりゃぁごく珍しく、たまたまであり、それも須臾(瞬きするくらいの時間)の間と思ヤァ、これくらいの気候偏差などは異常なんどではない。

 もしかすると地球の気候が次の新しい地球気候帯に向けて移り変わっていく過渡期が今なのかもしれない。とするといま「異常気象」と言われているのは大きくカーブを描いて変化する大波の上の小刻みな波にしかすぎんのじゃないかとも思う。

 「あのぉ~、ちょっと心配なんじゃけんど、その大波が来て新しい地球気候帯に移り行くとして、新しくなった気候帯・地球環境は人類が生存できる気候になるんじゃろか?」

 とのご質問があろうかと思いますが、それに対したぶん「地球」さんはこう答えるとおもいます。

 「人類?生存、そういや46億年たったころそんな生き物がうまれたな、どんな生物でも永遠にのさばることなんぞありゃせん、地球の環境・気候変動によって、滅びたり別の種になったりしたわ、そういうこのオイラ(地球)も何十億ねんもすりゃ消滅するんじゃ、まぁ、おまいら人類は智慧っつうもんをもっとるそうやから、ワイ(地球)の激変に耐えれるかどうかやってみたらよかろうが、ま、永遠に生き延びれんのは確実じゃが、ちょびっとびゃぁは伸びるかもしれんわ」

 考えりゃぁ、生命の誕生もまぁゆうたら地球の計らい、人類の誕生も地球の歴史のごちゃごちゃした変化の一つ、その人類が炭酸ガスを増やすのも、地球がそうさせたもの、温暖化も、またもしかしてそれが人類絶滅になるかもしれんのも地球の一時期のほんのちょっとした変化、地球から見たら、「大したことあらへんわ」、億兆と生まれた個体も種もみんななかよく滅んだ。

2022年6月26日日曜日

夏椿と宵待ち草

  去年の今頃、夏椿(沙羅の木)の花を見に行ったことを思い出し、昨日昼から石井の山のほうにある椿園にその花を見に行った。御覧のように白い夏椿の落花は夏椿の木の下のそこここに見られたが、木を下から見上げたところ咲いている花は一つも確認できなかった。今年は開花が早まったのか、また夏椿の花は一日花なのですぐ落下する、そういったこともあって木に咲いている花はすでに落ちていたのだろう。



 駅から歩いて行ったが帰り土砂降りの雨にあう、傘は持っていたが、汗と雨のしぶき、しずくでビショコになる。雨宿りのつもりで国道沿いのマックに入った、ドリンクのみを注文し、坐って雨をやり過ごしていたがしばらくすると、なんと天井のあちこちから雨水が滝のような水流になって落ちてきだした、勢いはだんだん強くなる、雨漏りなんどという生易しいものではない、椅子のあるあたりのフロアは落ちてくる水でやがて坐れなくなった、自転車で来ていた中学生グループも飲食していたが、そこにも上から落ちてくる。かろうじて水流が落ちてこない隅のほうにみんなで移動する、坐るところがないので立ったまま中学生らは手にジュースだのポテトフライだのもってチューチュー、モグモグ。

 私は濡れそぼって元気ないが、中学生のグループは大はしゃぎ、スマホで動画を撮影するやら、中には床にたまった水面上ですべって遊ぶ子もいた。スタッフもバケツだのごみ入れだの雨受の器をもってウロウロ、モップでたまった水を拭こうとしていたが、あまりの水にどちらの方法もほとんど効果なく、床は水がたまる一方、いやぁ~~どんだけ屋根が傷んどんねん。


 蔵本駅プラットホームのはずれに宵待ち草(マツヨイグサ)が群れている。昼間撮影すると萎んだ花か、蕾か、はたまた枯れた花にしか見えない。



 しかし夜、9時過ぎに撮影すると昼はほとんど目立たなかった花が咲いて、水銀灯の明かりに黄色く浮かび上がっていた。(同じ位置で撮影する)


2022年6月20日月曜日

八番札所・熊谷寺のアジサイ

  八番の熊谷はんは春は蜂須賀桜、つゆ時はアジサイの花の名所である。今日そこへアジサイを見に行ってきた。

 アジサイと山門


 アジサイと本堂


 谷筋にいっぱい咲いているアジサイ(動画)

2022年6月19日日曜日

今日は父の日、亡き父の思い出のエピソード

  母の日の花はカーネーションが有名だが、父の日の花はこれと決まっているわけではないが、黄色い花が好まれるようだ。黄色いバラ、ひまわり、黄色いユリ(カサブランカ)などである。

 黄色いカサブランカ(一昨日、ゆうねん川のゆり園での撮影


 たまにしか返らない親父だったが実家に帰ったとき歌っていたのがこの歌、なぜかふと思い出した。そのとき私は小学校低学年だった。♪~つらいこいならネオンのうみへ~♪ のフレーズだけ覚えていた。なんのことやら意味はわからなかった。ヨウツベで検索したら『夜霧の第二国道』だった、このころ独身のまま実家をでて都会でタクシーの流しの運転手や深夜便のトラックの運転手をしていたので運転しながらよくこの歌を歌ったのではないかと思っている。

ユリ園の動画

古希を過ぎたジジイがおもう父の日

  テレビ脚本家の内舘牧子さんの最近のテレビドラマの内容は70~80代くらいの老人老女がメインキャストであることが多く、それも一人あるいは一つのカップルに焦点を当てるのではなく、まるで60年経ち集まった同級生のグループのそれぞれのエピソードのような構成で結構面白い。自分も同じ年齢と言うこともありこの老後ドラマを見ていた。今まで作られた彼女の脚本の老後ドラマは『終わった人』『すぐ死ぬんだから』があり、現在BSで放送しているのは『今度生まれたら』である。70歳を超え余命も少なく、やり直しのきかない人生になって、それぞれの老人老女の、それでもあるものは昔の果たせなかったロマン、あるいはやりきれなかったこと、などを求めなんとかしようともがき云々・・・とドラマが展開していく。

 その『今度生まれたら』で主要な老カップルは風間杜夫、松坂慶子が主演している。年齢は私とほぼ同じ歳である。ドラマでは二人の息子が出てくるが長男は46歳、次男は40歳である。なんと!子なきジジイのワイからみると、「そうかぁ、ワイの年齢やと40代の息子がおっても不思議でないんやぁ」としみじみ思う、・・・とここまで読むと、そうかそれが今日(父の日)のブログの主題か。けっきょく子がないため父の日を祝ってくれることもないジジイの慨嘆交じりの繰り言か、と思われようがそうではない。

 実はこの次男を演じている俳優さんに私は幼かったときの父の面影を見たのである。この俳優さん、役では40歳だが実年齢は35歳、ショウユ顔なのでまだそれよりも若く見え、20代後半といっても納得できる。長男のほうは大企業のエリート社員であるが、この次男は山奥の小屋に籠もってギター作りをしているちょっとエキセントリックな役である。俳優さんの名前は毎熊 克哉さん、変わった名前であるが俳優の名として聞き覚えはない。顔も映画やテレビでみたことがなかった。

 十数年前81歳で亡くなった親父にずいぶん若いイメージを重ねるのかと思われよう。だいたいの人は頻繁に親父の顔を亡くなるまでみているもので、ワイらの年になって亡き親父!をイメージするとだいたい年寄っての親父が目に浮かぶのが普通であろう。しかし早くから家をでて祖父母に育てられた私からすると、ごくたまにしか顔を見せない親父は切れ切れのその時その時の親父のイメージが残っている、今になるとむしろ若い時の親父の顔が先に思い浮かんでくる。

 親父は私が3~4歳の時私の生みの母親と離婚して家を飛び出し、都会で働きながら時たま帰ってきた、そんなとき一切連絡が途絶えていた母でなく、たまに帰る父に幼い私はもっとも「父」というものを切望していた。祖父母にとっても私の親父は一人っ子であったため、時たま帰る親父を待ち望んでいた、私が幼稚園の時である「もうすぐお父ちゃんがおまぃにクリスマスのプレゼントをもって帰ってくるけんな、楽しみにまっちょりよ」といっていた、楽しみにしていたが帰ってきたのは年が明けてで、期待外れの土産であった(機関車の模型を買ってきてとねだっていた)こともあり、かなり失望したのを覚えている。その後小学校3年の時に再婚をしてからは、自分の親父であるという自覚はもてなかった、会って話しをしても何かこそばゆい感じがした。その後再離婚し、小学校4年の時に三度目の女性と家庭を県外でもったとき、男の子のあこがれである「父」を切望した自分はもう消えさっていた。

 その後、親父が死ぬまで時々こちらに顔を見せに帰ってはいたが、私とは22年しか年の差がなかったこともあり、年の離れた兄くらいの感覚だった。結局、私が心に思い描き切望した「父」は3歳くらいから小学校2年生くらいまでで、それも幻影を求めていたのである。その時期、たまに祖父母の家に帰ってきたときみた顔は(父はまだ20代であった)私の記憶の切れ切れの最初の一枚目に残っている、その記憶の顔とこのドラマ俳優・毎熊 克哉さんとのイメージが一致して遥か過去、「父」を切望していたことが思いだされたのである。

 昨夜、押し入れの奥から古いアルバムを引っ張り出し、親父の20代の時の写真と上に貼ってある毎熊 克哉さんとの写真を並べて比べてみた。客観的にみると似ていないかもしれないが、ワイの主観では、動いて演技している毎熊 克哉さんは私が憧れ切望した20代の「父」の雰囲気をよく残していた。

 その頃の父の写真(両方とも20代だが左が少し若い、正確な年齢はわからない

2022年6月17日金曜日

ウチのすぐ近くじゃから百合園を見に行ってきた

  今日の地方紙に「吉野川市・江川ぞいの百合の写真」が載っていた。記事の字名をみるとウチから近い。そこで夕方出かけていった。この百合園のあるあたり、確かに江川の下流ではあるが、ワイらこんまいときは「ゆうねん川」と言っていた。川幅が広い割には浅く、かつ昔は水も澄んできれいだったので泳いだこともある。そもそも江川(ゆうねん川)は水源が泉で地下水が吹き出ていたので水も澄んで水量も多かったのである。

 しかし60数年たった今は下の写真のように狭い一筋の水流が細々と流れているだけになっている。昔はこの河床の緑の草地いっぱいにたっぷりの水が流れていたのである。河床の右の方、自然土手沿いに百合の花が列状に下流に向かって咲いている。



 記事によると3000株も植えられているそうである。全部見切らなかったのでそんだけあるとは思わなかった。しかし色とりどりかつ大輪の花は見事だった。これも記事によるとテッポウユリ、スカシユリ、カサブランカなど七種類の花だそうである。






いったいなんの罪?

  昨日のスポツ紙に面白い事件が載っていた。この事件の犯人は逮捕され下に挙げるように全国紙スポツ紙の紙面を大きく飾っている。まぁスポツ紙に大きく取り上げる市井の事件はよほどの重罪、または破廉恥罪、有名人の犯罪(軽いのも含め)だがどれも違う。

 さて事件であるが、最終目的は「ある人を殺すこと」である。そうだとするとこれは凶悪重大事件かというとそうは言い切れない。「殺人罪」、「殺人未遂罪」、あるいは殺人準備罪でもいいが、まず構成要件の第一は犯人の「殺意」である。はたして犯人に明確に殺意はあったのかというと疑問符をつけざるを得ない。しかしまぁここでは殺意もあったとしよう、そしてその目的を遂げるために「ある実行行為」もしている。しかしけっして「殺人未遂罪」にも「殺人準備罪」にもならない。なぜか?それは呪い殺そうとしたからである。

 現在刑法では相手を呪い殺す目的で呪術行為を行ってもそれだけでは何の罪にもならない、「きゃつを呪い殺す」なんどと公言していれば何らかの刑法上の罪に問えるかもしれないが秘密裏に(例えば自宅で護摩壇などで呪法を行う)行う分には(わかったとしても)何のおとがめもない。しかし日本史を勉強している人はよく知っていると思うが奈良朝から平安朝にかけては呪い殺す「呪法」は大罪であった。呪い殺す、ということが実際にあると信じられていた時代であるから、これは殺人未遂罪と同じに見られた。奈良朝では何人もの皇族、高位の貴族が館から政敵を呪い殺すための呪術道具(人形などが多い)が発見され、冤罪、でっち上げにもかかわらず罪に問われ失脚させられたり、殺されたりしたのである。

 古代中世では呪法によって命が縮められるということが信じられていたが、江戸時代になるとさすがそのような行為は「殺人実行行為」とは見なされなくなる、忌まれ厭われる闇の祈祷行為ではあるが犯罪には当たらなくなる。それでもその闇の祈祷(西洋では黒魔術というのだが)は江戸時代結構流行する。よく知られているのは呪い殺したい人のわら人形を作って真夜中、神社に参詣し境内の神木などに釘で打ち付ける呪法である。「丑の刻参り」と一般的には言われている。これは結構人気があって昭和時代にも引き継がれていた。私の子供の時、近所の神社の境内でその丑の刻参りのわら人形が発見されたと話題になっていた。

 私のイメージは、神社の丑の刻参りの藁人形は、不実で憎い男を呪い殺す女性が行うのが普通だと思っていた。白い着物をきて髪はざんばらにし、鼎を逆さまに立てて頭に被り、丑三つ時、鼎の足にろうそく三本立て、藁人形を五寸釘で神社の神木に打ち付ける、スリラー小説の挿絵そのままである。やる方は覚悟があるから肝も据わっているが、たまたま深夜にそれを見た人、ましてややられる相手が知ればかなりビビるだろう。それでも現代においてその行為が犯罪となることはないと私は思っていた。

 ところがその同じ行為で72歳のおじいさんの逮捕である。左が昨日の事件の記事である。一体何の罪で、記事を読むと藁人形を釘で打ち付けて神社の建物・器物を損壊した「器物破損」、それと「不法侵入」であるとのことである。不法侵入ってそもそも神社は祈願するところ、よき祈願は不法侵入ではないが悪い祈願は不法侵入になるんかぇ?器物破損罪はまぁわからないではないが、神社がたとえ悪い祈願だろうが祈願人に「不法侵入罪」はそりゃないと思うが。

 その呪い殺す相手が「プーチン大統領」という。犯人の呪い殺す相手が知人や利害関係人なら藁人形の呪法がしれたらずいぶん気分悪く、罪の一つでも負わせたくなるが、プーチンじゃぁ、だれも感情を害することもあるまい。まぁこの爺さん(わいとほぼ同い年やないか)、御念の行ったことにアッチャコッチャの神社で、効果が増すと思われたのか10件も同じことをやっていたようだから、やり過ぎ(まぁ一つでも器物破損罪ではあるが)感はあるが、そんな新聞に大きく載るような重罪ではないのにちょっとかわいそうな気がする、器物破損は弁償するとして起訴なんかせんと説諭くらいでこらえてやったらいいと思うがどうだろう。

2022年6月16日木曜日

季節の野草花 三種

  こマツヨイグサ

 生命力が強いんだろう。舗装したアスファルトの隙間からでも芽を出し葉を伸ばしこのような花を咲かせる。昼間見るとどれもオレンジで萎れた花が見える。しかし待宵草(マツヨイグサ)の名の通り暗くなるとポッカリと黄色い花を開く、夜の舗道の隅などほとんどの人は注意しないが街頭の薄明かり、ヘッドライトの照射などをうけたとき、ここに咲いているよ、と存在を控えめに主張する。

 ムラサキ)カタバミ(左が花で右がその葉っぱ)

 今の時期、畦、野原、どこにでも見られる。ピンクのかわいい花を咲かせる。花よりも葉っぱや茎に私は小さいときからなじみがある。小学校の頃、このハート型の三つ葉の茎を根元から折り、中の筋を出すため茎をシュッと剥き、糸筋の先に三つ葉をぶらぶらさせながら、同じようにぶらぶらさせている相手のそれと絡めグイッと引っ張り、切れた方が負けとなる遊びをしたものである。

 ひるがお

 今の時期、土手などに薄いピンクの花を咲かせている。鮎喰駅は土手上にあるので下りてくるときあちらこちらに咲いていたので撮影した。

 以上の三種の野草花、私の子供の頃からよく見ている花だが、ひるがお以外は外来種である。しかし江戸時代に入ってきてかなりたっているので今は風土に順化して、かわいらしく慎ましやかに繁殖している。(いずれの花も今日、鮎喰駅から田宮街道にかけての場所で撮影した)

2022年6月12日日曜日

あじさいだらけ

  いつもよりは眠れたこともあり、天気もいいようなのでサイクリングに出かけることにした。月曜までは晴れるようである。梅雨は九州~関東甲信越が入り、四国は今のところパスである。つゆ時の花といえば「アジサイ」である。徳島植物園に「アジサイの小道」と称する階段状の花道があるのでそこを最終目的地と決めた。

 園瀬川の手前から法花までの旧道は狭いうえ車が多く剣呑なのでできるだけ農道やあぜ道のようなところを通っていった。そのためかあちらこちらにおいしそうに熟れたビワの実をみる、昔祖父母と暮らしていた家の庭にはビワの木があってこの時期よく食べたことを思い出した。そういえばビワなどエット食べていないなと思ったら食べたくなった。旧道に出れば無人農産物販売所があったことを思いだし、ビワがあれば買おうと旧道に出てしばらく行くとあるにはあったが棚には何の商品もなかった。

 50mばかしひんずの寄り道になるが日本一低い山「弁天山」によった。


 そこに有人の農産物販売所があり地産のビワを売っていたので買った、一袋100円、甘くておいしかった。


 アジサイの小道植物園までの登り道と植物園よりせんずり峠の方へすこし上った小道








 帰りに寄った園瀬川沿いの「アジサイロード」も見事だった。




 うちの近所の鎮守様のガクアジサイも花簪のようで美しい、昨日の雨の日に撮影した。夕方薄暗い中、白のガクアジサイが引き立っている。(一緒に写っている白いのは注連縄の幣



2022年6月11日土曜日

ゴロウニンの日本幽囚記を読む 

  5月18日のブログ「オロシャ2」では漂流した大黒屋光太夫の漂流聞き書き「北槎聞略」を読み、日本人の見た18世紀末ロシアのようすについて述べた。この光太夫が帰国した(1792年)少しあと文化12年(1811年)、光太夫とは逆に日本に捕らわれたロシア人がいた。

 ゴロウニンである。彼は軍艦の艦長で大尉である。国後島で士官二人と水兵四人とともに上陸後日本側の役人(松前奉行所管轄)に捕まってしまう。これだけ見ると、なんと日本側は無体なと思われようがこれには光太夫送還まで遡ったいきさつがある。このブログではゴロウニン捕獲に至る流れを詳しく説明することはできないが、この5年ほど前、ロシアの別の士官が、択捉島や樺太、利尻島を襲撃しアイヌの子供らを拉致したほか略奪や放火などを行ったのである(18世紀末には択捉、樺太南には日本の陣屋、交易会所もあり日本の領土であった)。 この行為は幕府の態度を硬化させることとなった(それまでは薪水のため上陸したときなどは必要な物資を与え、交流交易は不可と言うことを穏便に伝え速やかに帰ってもらっていた)。その結果のゴロウニン捕獲である。だから発端はロシアの蛮行だったわけである。

 ゴロウニンは国後で捕まった後、北海道松前へ送られる、厳しい監禁もつかの間で、尋問の結果、先の蛮行も国家意思ではないと言うことがわかり、またゴロウニンの人柄もあったのだろう、武家屋敷にすむようになり、二人の監視人付きではあるが、松前の町を結構自由にウロチョロできるようになった(もちろん禁足地や日本人との交流の制限があるが)。ゴロウニンは軍人ではあるが西洋の高い文化と教養を身につけた人で、後には海軍主計総監に任命され海軍中将に就任。ロシア初の蒸気船を含む200以上の船舶を造ったといわれる。彼の教養の高さはその著者「日本捕囚記」を読めばよくわかる。

 その「日本捕囚記」であるが、岩波文庫から上下二巻の訳本が出ている。そこでまずこれを借りて読むことにしたが吉野川市、徳島市図書館にはない。県立図書館で探すと「下巻」のみがある。かり出すとなんと、もうボロボロ、下等な紙・酸性紙でできているので劣化が激しい。表紙もすり切れて分解しそうなのであっちこっちセロテープを貼っている。初頁の購入スタンプを見てびっくり、昭和24年6月となっている、このジジイの生まれより古いやないかい!

 この上下二巻、上巻はゴロウニンの捕らわれてから釈放までの日記であり、下巻の方は各分野に焦点を当てた日本人論となっている。当然学術的な価値があるのは下巻の方である。実は私は30年ほど前、北海道松前で何日もいたとき(放浪の旅の途中)退屈なので松前郷土資料館や現地の図書館でこのゴロウニンの上巻は読んだことがあるのである。捕囚日記風なのが上巻で、脱走を企てたりしたこともあるので読み物としては上巻が面白い。(そういえば私が松前にいたときゴロウニンが最初に入れられた牢屋跡の場所を見に行ったことを思い出した)今回は(ボロボロだが)学術書風の下巻をロシア人が書いた日本人論として読んだ。

 彼は2年と3ヶ月、主に北海道松前に滞在する、最初は文字通り幽囚(捕囚)状態だったが後には身分の上下を問わず、町人も含めて交流できるようになり、また町中をアチラコチラ見物もしている。江戸時代、こんなに長期にわたって日本国内で日本人に接触した外国人はまずいまい(有名な江戸期の外国人による日本社会の見聞録はオランダ商館員による江戸参府記、朝鮮通信使の日記などが主だが、ゴロウニンほど長期に広範囲に接触はない)。今読んでも彼の観察の正確さ、そして分析の的確さは際立っている。ゴロウニンの立場から言えば日本人に対しては恨みこそすれ好意的になることもないし、帰国後書かれたものであるため日本人に阿る必要もない。だが「下巻」はそのような意識、個人的感情を排し極めて客観的に書かれているし、伝聞はちゃんとそう断ってもいるし、不確かな話は疑問符もついている。

 読む前はこの「下巻」、日本人にとってかなり耳の痛い「日本人論」じゃなかろうかとおもったが、読んだ後の私の印象は全く別、むしろお尻のへんがむずがゆいくらい日本人の特質(私が読む限りでは)の優れている記述が(ロシアはもちろんヨーロッパに対しても)極めて多いのである.

 最初の章「国民性」のところで彼は日本人の欠点をあげている、それも西洋が美徳としてあげているものの中で「一つだけ」の欠点と断っているから、あとはみんないいと思われる、その唯一の欠点は彼が言うには「剛毅、勇気、果断」(また時には男らしさという)だそうである、なんだぁ、一番肝心なものが欠けていて全然だめじゃないか、とガッカリしそうだが彼はそれに対し分析をしている、「これは日本の統治の平和希求的な性質によるものであり、この国民が戦争をしないで享受してきた長い間の太平のためである」、これはゴロウニンの記述ではあるが、私はこの徳目(剛毅、勇気、果断)なるものを当時のロシア・欧州に逆照射して考えてみた。16世紀からロシア、西欧諸国は膨張を始める、ロシアはユーラシア大陸を東に向かって、西洋は大洋進出して海外貿易拠点を確保し、さらには植民地を広げていく、一昔前まではこれを「地理上の発見」とまるで現地に住んでるネイティブの人を無視するようなことを言っていたが、その領地膨張、植民地獲得のための外部への探検心、冒険心、また原住民に対する理不尽な支配を行うための戦闘への闘争心が、まさに「剛毅、勇気、果断」の別のいいではないのかと思うのである。そうであるならば「剛毅、勇気、果断」があるなどというのははたして褒め言葉なのだろうかと思ってしまう。植民地獲得に狂奔し、原住民をよくて支配、悪くすれば奴隷、抹殺した西洋・ロシアのこの「剛毅、勇気、果断」はよい方にとらえない方がいい。ゴロウニンは「日本は永続的な平和が続いたため」とある意味暗示的な言い当て方をしているが、なるほどこれは「探検心、冒険心、闘争心」などの戦闘的な積極性がない、というように読み替えるべきである。(皮肉なことにペリーによって目覚めさせられた日本は19世紀中頃から急激に外部に戦闘的な積極性を発揮し、ロシアのように植民地帝国にまでなるが、戦争続きで結果はあまりよくなかったのはご存じの通りですね

 そのほかの国民性の点について彼はサラッと書いているが見逃せないところがある。「技能の習熟度、到達度はほとんどヨーロッパ人に劣らない、あらゆる家庭用品の製造も巧妙である、そのため庶民にはこれ以上開化の必要は少しもない」と断言した後の次の言葉である。「なるほど我が国では科学・芸術はこれ以上進んでいて優秀な科学者・芸術家はいる、しかしそんな人一人に対し三つの数も読みこなせないような人間が千人もいるのだ。だから国民全体をとるならば、日本人はヨーロッパの下層階級よりも物事に対し優れた理解を持っているのである」、このゴローニンの観察はこの幽囚記の至る所に出てくる、まず、初期に厳しく閉じ込められた場所(獄舎に近いものだろう)の番卒が字が読めて本などを読んでいるのに驚いている。またその同僚が丸い茶碗を示し、ゴロウニンに「地球は丸いもので、ヨーロッパは日本に対してこんな関係のところにあるのを知っていなさるか」と尋ね、その番卒がヨーロッパと日本との実際の位置に相当近いところを指で指し示したのである。これらの人々の教養は町中に住むごく普通の庶民と同じ教養程度と見てよいだろう。その庶民にして文字の読み書きができ、世界地理に関する(庶民が生きる上で全く必要のない)知識まで持っているのである。私は日本史を勉強した結果、近代(17~19世紀)において欧州諸国の国民以上に日本人の識字率の高かったのは知っていたが、いわゆる鎖国下にあるといわれる日本の庶民が世界地理のこのような教養まで持っていたとは知らなかった。しかしよく考えるとこれも頷けることである。町中の庶民は貸本屋などを通じ、絵草紙、読み本など娯楽本を読んでいた。当然、庶民の好奇心を満足させるような海外知識もその中に織り込まれている、興味本位とはいえ当時の西洋科学のエレキ、磁気、なども庶民はそんな娯楽本を通じて知っていたのである。世界地理の知識なども庶民の興味を引くものであるから当然そのような記述の絵草紙、読み本はあったと思われる。結局、庶民が本が読めるということは西洋のどのような知識でも知ることができると言うことである(西洋の科学、地理、医学などの本は長崎を通じ日本に入ってきて早くから蘭学という分野が生まれていたのはよく知られたことである

 次に私が注目したのは「法律・習慣」の章である。ゴロウニンは日本人は礼儀正しく熱烈な議論は好まないが、このような日本人との議論があったと例を挙げているが、その例に私はいたく感動したのでそれを紹介する。(相手はおそらく役人であろう

 ゴロウニンは日本のいわゆる鎖国政策をあげ、それを止め相互に通行通商する利益をとく。

 「わがロシアでは外国で行われた発明発見を利用し、外国でもこちらの発明発見を利用しているのです。また我がロシアの産物は外国に出し、外国からもこちらの必要とする産物を買っているのです。そのため皆は仕事に励み、営業は盛大になってヨーロッパ人は多大の満足と快適を味わっているのです。ところがもしもヨーロッパ各国の王様たちが日本政府の真似をして、外国との交際を一切断絶していたら、こんな満足をヨーロッパ人も知ることはできなかったでしょう

 そのように説明し、鎖国政策を非難しヨーロッパの制度を褒めたのである。さて相手の日本人はどうしたか?じっとその話に聞き入り、ヨーロッパ各国政府の頭の良さを褒めた。ゴロウニンは、私の強力な論拠に説得されて一から十まで我々に同意したかに見えた、と書く。

 ここまで読んで世界史の今日にまで至る経緯を知っている私としては、「よくゆうよ!」といささか反発を覚える。各国の通商、交流はお互いに利益をもたらす「万国公法」のように説明されている。確かにゴロウニンの理屈はヨーロッパ各国の理屈である。お互いに利益云々はもっともと思われるが、それは各国対等で武力や経済力で相手を一方的に圧伏しない場合に正しいかもしれないが、19世紀ヨーロッパやロシア、アメリカがアジア諸国に対してとった態度は優越した武力、経済力による圧伏であり、それは侵略となり最後は植民地となるのである。衣の下に鎧をちらつかせながらのお為ごかしのように私には聞こえる。

 それに対し日本人は論破されたままだったか?これからの議論が私をうならせるところである。日本人はいう

ヨーロッパでは戦争のないのは五年と続かず(事実である)また二ヶ国が争いを起こすと他国もたくさんその争いに割り込んできて、ヨーロッパ全体の戦争になるようですが(これも事実、当時ナポレオン戦争はロシアを含む全欧州の争いになっていた、日本の役人はそのような知識を長崎を通じとっくに知っていた)一体その原因は何です?

 ゴロウニン

それはね、隣り合って生活し、絶えず交渉を持っているために、不和のきっかけができるのです。そうした不和は必ず円満にまとまるとは決まっていないのです。ことに個人的な利害と名誉心が混じってくるとなおさら友好的には解決できません。さてある国が他国と戦争して大いに優勢となり、強大になって来るとします。すると別の国々までその国が自国のために危険な国となることを許さずに弱い国の肩をもって強い国と戦うのです。強い国の方でももちろん同盟国を求めるのです。こうして戦争はほとんど全般的なものとなって行くのです。

 日本人たちはこの話を聞いてヨーロッパ各国の賢明さを賞賛し、それから「西洋には強国がいくつありますか?」と尋ねた、そこでヨーロッパ列強の名をあげてその数を教えてやると日本人はこう尋ねた。

仮に日本とシナ(中国)が西洋諸国と国交をひらき交際するようになり、さらに西洋の制度をまねるようになったら、人間同士の戦争は一層頻繁に起こり、人間の血は一段とたくさん流されるようになるのではありますまいか

ゴロウニンが「そうです。それはそうなるかもしれません」と答えると

もしそうだとすれば、さっきいろいろとヨーロッパと交際したがよいとご説明いただきましたが、やっぱり日本としては西洋と交際するよりも、古来の立場を守った方が、各国国民の不幸を少なくする意味で却ってよいのではありますまいか

 こう答えられ、ゴロウニンは正直言うところを知らず仕方ないので「もっと日本語が上手になったらこの問題について僕の意見の正しいことを証明できるのですが」といったが、完全に日本人の論破に舌を巻いたことが書き記されている。

 これを読んで私は、胸のすくような思いをした。しかしこのような考えは益々強大化して東洋に押し寄せてくる西洋諸国に対しては残念ながら妥当なことではなかった。ほぼ唯一と言っていい、植民地にも半植民地にもならない方法を模索した日本としては、西洋の考え方に身を置き、軋轢を覚悟しつつ西洋諸国と同じように生きるしかなく、富国強兵を目指し、海外には戦闘的な積極性ででていき、やがて20世紀を迎える頃には西洋列強と肩を並べる強国にまでになる。しかし松前の小役人が懸念したように江戸二百数十年の泰平は終わり、戦争が続く時代になるのである。

2022年6月7日火曜日

助任緑地公園の花菖蒲

  昨日は井戸寺の寂聴はんの分骨の納骨堂を見てきた(ちゅうたらあけへんな、一応お参りちゅわなんだら) 

 ニュース報道によればお骨は三つに分けてその一つをこの井戸寺に納骨したそうである。納骨堂ちゅうからそれなりな(厳粛な、あるいみ畏怖を感じるような)モンかいなぁ、とおもっていたが、なんと半透明ピンクの大きなガラスのモニュメントだった。モダンアートみたいで納骨堂にみえない。

 お寺だから境内になにか季節の花でもあるかなと期待したが盛りを過ぎたサツキツツジがチラホラくらいでアジサイもなかった。

 そこで今日は季節の花「花菖蒲」を見に行った(もちろん自転車で)。場所は助任緑地公園、というより蜂須賀家菩提寺興源寺の裏の公園といった方がわかりやすいだろう。




 ちょうどこの花菖蒲園の前に十代徳島藩主重喜の墓がある。花菖蒲の向こうに見えるのがその墓である。石段を上がったテラスが全部重喜の墓で灌木に隠れて少し見えているのが墓石である。

 昨日、井戸寺へ行ったと話をしたが、この墓の十代藩主重喜は幕府に忌避されて若いのに強制隠居の処分を受ける(小説鳴門秘帖では悪玉として描かれている)。そして彼の隠居のため新築された御殿の門は徳島市の大谷(北山)の方にあったがのちに井戸寺に移転されて現在の山門になっているそうである。左がその井戸寺の山門である。


 午後からはイヨンモールへ行ったが川沿いの「みなと公園」にはこんな白い穂がたくさん風に揺れていた。秋ならばススキだが、ずっと小さく子猫の尻尾くらいの白い穂である。

怒り
 日銀総裁が「国民(家計)の値上げに対する許容度は高まっている」との発言を聞いた。こぅらぁぁぁ~!国民年金満期でも月6万5000円びゃぁにしかならんがそれでもなんとかやっている老人もおるんやぞ!じぇったい許容度なんど高まっとらんわ!