2020年4月9日木曜日

百年前のパンデミク その4 徳島二回目流行、モラエスさんもとうとう

 大正8年4月から数か月にわたり患者の0の月が続き、初夏に向かい、ようやくあの恐ろしい疫病流行が去ったことを実感しだした。人々は

 「これから、夏ぅ~になるけん、なんぼぅ、たちわりいっちゅうても、風邪やけん、おさまったんじゃわだ」

 「コカワしぇんしぇい、もいいよったでよ、なんやら、みんながよ~け罹ったけん、めんえきちゅうたらいうもんが、ワイらの体の中にでけて、二回は罹らんらしわ、そいでもう流行らんわ、って」

 「ところで、あんたんとこ、どうじゃったで、うちは全部、寝込んでしもうたわだ、だいたいみんな治ったが、バァチャンだけはまだ咳がつづっきょるわだ」

 「うちもぜんぶやられたわ、5人おる息子の総領の餓鬼ぃ~が、いっちょ重ぅて、いっときゃ、アカンと思たが、なんとかなおったわ」

 「まぁ、よかったでないで、大道の仕立て屋はんとこなんか、9人全部やられて、戸ぉしめて寝込んどるんかとおもて、しばらくして、出てこんけん、巡査はんが入ってみたら、おおかた死んどって、虫の息の何人かを、離病院にはこんだけんど、結局みんな死んだそうやで、一家全滅っちゅうやっちゃ、ほれから考えたら、まぁ、ご互い、よかったもんじゃなぁ~」

 などと話し合ったに違いない。何せ全県民の6割近くが罹り、五千人近くの死者がわずか数か月のうちに出たのであるから。

 内務省衛生局の統計によると徳島県のこの時の死亡率は1.09%、百人の患者に約1名の死亡の割合は例年流行る風邪と比較しても特に死亡率が高いこともない、ただ違っていたのはその感染力の高さと、蔓延する急激な速度であった。患者が多かったため結果、死者も多かったのである。

 ともかくホッとしたに違いないが、人々の不安は去らなかった。自分も入れて家族、身近な人、近所では罹った人が多数で、また家族あるいは友人・知人の何人かを失わない人はほとんどいなかったのである。心の中に残るこの疫病の記憶は癒えぬ傷として生々しく残っていて、まだ疼いていた。大正期はまだラジヲこそないが、徳島での新聞購読率は高く、当時としてはかなり早く海外の情報も新聞を通して得ていた。その海外の国々の中にはまだそのスペイン風邪が猖獗を極めているところもあり、紙面の海外ニュス欄では、ここでは数十万、あちらでは数百万だのという死者数の発生を伝えていた。そんなこともあり、風邪が流行りだす秋から冬に向けて季節が推移していくにしたがって徳島の人々の不安は高まっていた。

 上にある徳島の市井に人々がしたであろうと思われる会話に、一度罹ったら二度はかからない、という話が出てくる。コカワ医学博士(当時の徳島の大病院の院長)の話を引き合いに出さずとも、庶民は大昔から、麻疹、天然痘などは二度とかからぬことは知っていた。そして新聞なんどを通してそれが「めんえき」と呼ぶことも。これは罹った人が多数派の徳島県民にとっては(罹らない少数派は怖いが)直近の将来には(つまりやがて来る風邪の流行期)不安を解消する希望であった。ただ一方、風邪は以前罹った人も罹り、一生のうち複数回罹患を繰り返すのも人々は知っていて今回罹った人も手放しでは喜べなかった。

 次の冬を迎える秋の終わりに徳島はどうなったかを述べる前にちょっと先取りして、すべての流行が終わったのちに出された「内務省衛生局」の報告書にこのスペイン風邪に対する免疫のことが書かれているのでそれをまず見てみよう。報告書は文語的な硬い文章なのでわかりやすくなおして書くと

『二回目流行は前回における病毒(ウィルス)が残存していたものが、気候の変化(冬に向かって)で呼吸器を痛めるものが多くなるに及んで再び(それにとりつき)台頭したものである。その感染者の多数は前流行時に罹患を免れたものである。そしてその症状は(一回目と違い)重症になる率が高い(当然死亡率も連動している)。前回罹患してまた今回罹患したものもいないことはないが(つまり極少数)その者もだいたいは軽症で住んでいる。』

 と報告書にはある。つまり結果から言うと一度罹っていたものはほとんどかからないか、あるいはかかっても軽症で済んだのである。

 それでは実際に起った徳島の二回目の流行を「内務省衛生局」の報告書の表に従って見ていくことにしよう。

 4月中旬からずっと0で推移していた罹患者は表から11月上旬に発生し始めたことがわかる(一番上欄)、そして二か月たった大正8年12月末までに977人の患者を記録している。そして死者は14人、死亡率は1%強なので、一回目と違いそう悪性度が高いようには見えない。
 ところがわずか一ヶ月しかたっていない1月中の罹患者は1万5千276人となっている。前回免れたものをすべて総なめにせんとする勢いである。そして恐ろしいのは死者が1千115人で計算すると死亡率はなんと7.3%の高率になっているのである。

 さらに次の2月を見てほしいのだが、死者は1千53人、死亡率は驚くなかれ!18.5%、およそ5人に一人の死亡率である。このすざましい死亡率は感染症の王者(今の一類伝染病の)ペスト、コレラ、チブスなどに十分匹敵する高死亡率である。3月も患者は減るが死亡率を計算すると16.6%、この表にはないが(次ページとなるため)4月は(患者はもっと減るが)死亡率は約7%、かなり下がった。5月からはグッと患者が減りこの月をもって二回目は終息するが最後に死神が大鎌を振るったのか、死亡率はなんと42.5%。罹った約半数が死亡という驚くべき記録をだしたのである。

 第一回目の蔓延最盛期にも一ヶ月で1500人ほどの死者を出しているが母数が大きいので死亡率は1%あまり、ところが今回の1、2の各月は患者がウンと少ないにもかかわらず、前回の最盛期に近いそれぞれ千人を超える人がなくなっているのである。2割に近い死亡率である。いかに二回目の悪性度が高かったかということがわかる。

 さて、徳島市伊賀町の長屋に住まうモラエス爺さんはこの悪性のスペイン風邪を免れたのだろうか。前に紹介したポルトガル本国にいる妹に出した「絵はがき書簡集」を見てみよう。左が絵はがきの絵、右が(日本語に訳した)本文である。(・・・は省略した部分)

 大正9年1月24日
 ・・・こちらは肺炎性インフルエンザの大流行だ。僕は気管支炎と咳は治ったが、何をする気にもなれず気力がない。(しかし)眠れるし食べてもいる・・・






 スペイン風邪に罹ったのかどうか、ちょっとわからないが気管支炎と咳があったので罹ってその症状が出ていたのかもしれない。
 その疑問は次の絵はがき書簡ではっきりする。

 大正9年3月9日
 ・・・おまえ(妹)と夫君もインフルエンザにかかっていたが、両人とも快方に向かっているとのこと。いまじぶんは二人とも元気に違いない。もう知っての通り(この絵はがき書簡には1月24日からここまで連絡はないが、もしかすると手紙類で知らせたのかもしれない)、ぼくもインフレエンザかそのようなものに罹っていた。同じころひいたのだね(1月2日頃らしい)。咳や熱があったが、ごく軽症だった・・・

 ああ、モラエス爺さん(この時66歳、百年後の今日の元気な老人の感覚から言えばかなり年齢をプラスして考えた方がいい、ということはオイラと変われへんわ)、罹ったが軽症で済んだみたいだ。よかった、よかった!内務省衛生局の報告・徳島編などを見ると一回目を辛うじて免れた人を総なめにせん勢いで広がっていって重症化し死亡率も驚くほど高かったのに、まことに幸運だった。いやもしかすると前回症状が顕在化せず免疫がある程度できていて軽症で済んだのかも知れない。なんせ70歳近いジイチャンやから重症化すればイチコロやでぇ~、歳寄りゃ抵抗力弱いからなぁ~、今回の武漢ウィルスの疾病でも重症化して亡くなるんは高齢者がほとんどやからなぁ~。

 おっと!ちょっと待ってほしい。この大正のパンデミク、スペイン風邪に関する限り年寄りが多く死んだというのは当てはまらないのである。次の内務省衛生局の死亡者の年齢割合を見ると衝撃的である。(徳島の統計はなく、これは全国統計である)

 黄色枠が各年齢別の死者比率である。一番死者の比率の高いのは20代、次が30代、そして5歳以下、10代と続いている。20~50歳までの死亡がほぼ50%を占めている。最も元気な働き盛りの年代が多く死んだのである。これを見ると罹った人が年寄りだから重症化してより死にやすいとは言えない。逆にモラエスさんは歳寄りだから助かった?まさか!そうは言わないが、ともかくスペイン風邪の若い人の死亡比率は異状である。なぜこのスペイン風邪は、一回目より二回目の死亡率が驚くほど高かったのか。なぜ本来なら一番抵抗力のある若い人たちがバタバタ倒れたのか、大いなる疑問である。百年後の今日でもその理由の説明はいくつかあるが、未だに断定できていない。

 ともかくモラエスさんは大正のパンデミクを生き延びた。しかし余生は果たしていいものだったか。推測はひかえる。まだ彼は十年近く、昭和の御代まで生きる。貧窮ではないにしても言葉も不自由な異国の地で、多くの持病を持つ独居老人として小さな長屋で生きていく。そして最後に訪れる死はかなり悲惨なものとなる。

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