2020年4月20日月曜日

疫病退散

 疫病(武漢ウィルス)に罹らないようにするには集・近・閉(しゅうきんぺい)を避け、手指の消毒、マスクの着用をする以外あまり思いつかない。家に閉じこもって一歩も外へ出なければいいかもしれないが、全員となると不可能である。いっちょ効果があるのはワクチンができてみんなが接種をすることだろうけど、かなり(一年以上)時間がかかりそうだ。幸いなことにわが県の感染者数は全国で三番目に少ない(3人)が、クラスタが発生しそれに伴い感染爆発した多くの都道府県を見ていると、いつウチラの県でも急激な蔓延が起こらないとも限らない。いや、密かに潜行し広がっているかもしれん。常にポーの小説の「赤い死の仮面」の恐怖を思い浮かべるほうがいい。(赤い死の仮面で前にブログを書いてます。ここクリック

 「赤い死の仮面」を読むと絶対的な隔離にもかかわらず、疫病はやすやすと入り込む。なぜ絶対的な隔離にかかわらず「疫病」は入れるのか、それは不合理じゃないか、と思うが、この怪奇小説っぽい話は、人の傲慢、不信心に対する「罰」(報い)の話じゃないだろうかと思う。芥川の「蜘蛛の糸」のカンダタのように自分だけ(ポーの小説では自分や身内の貴族だけ)助かろうとした罰(報い)ではないのかと思ってしまう。もしポーの小説の主人公やカンダタが自分だけ助かろうとせずにいたら、篤い信仰を持っていたら、破局的な終焉は迎えずに済んだかもしれない。

 いやそうじゃなく、死はどのように足搔こうが絶対逃れられない運命だということを強烈に教える話ではないのかということも想像できる。むしろ欧州の文化的土壌から言うとこっちのような気がする。前者の、自分だけ助かろうとした報いだとか、瀆神、傲慢への罰というのは日本や印度のような東洋的解釈かもしれない。14世紀、黒死病蔓延のため人口の三分の一から半数近くが死亡した西洋ではその後「死神が描かれる」絵画が流行った。その絵画には大勢の老若男女、貴賤、聖職者あらゆる人が登場する。その中に「死神」(死の運命の擬人化)が不気味な姿見せている。そして手には死の大鎌をを持っていることが多い。ひとたび死神が、フッ、と大鎌を一振りすれば、地上のどんな人々も命を絶たれる。まことに恐ろしい絵画であるが、この教訓は「常に人は死を思え」ということであるらしい。そう考えるとポーの小説はむしろこのような欧州の中世以来の教訓の一つであると見たほうがよさそうかもしれない。

 ルネサンス期に描かれた死神の絵画


 このような絵画は、何をやっても結局は死ぬのだから、刹那的に快楽的に生きたほうが良いという教訓を示すものではない。死を常に思うとともに常に神の目を思い神の審判を思うべきだというのが表裏一体となった教訓的寓絵である。死神は描かれるがそれは決して死神への賛美ではなく、唯一神への強い信仰を促すものであった。結局、日本にしても西洋にしても非力な人間が最後によりどころとできるのは神仏ということか。

 まあ、今は科学万能の21世紀である。なにがなんでも神仏に頼るというような狂信的あるいは原理主義的な信仰を持つ人は少ない(でも世界のある地域には結構おおい)、しかし「人事を尽くして天命を待つ」という態度は今でも充分納得できるものである。あらゆる努力、手立てを尽くし、最後は神仏に祈る、というのは今でもアリな気がするがどうであろうか。

 日本は印度とともに多神教世界にある。たくさんの神さま仏さまがいらっしゃる。唯一神のようにオルマイティの神仏は少ない、ある御利益に特化している神仏が多い。神仏に参拝に行けば聖域の入り口にその神仏の能書きが書いてある場合もある。また口コミで、あの仏さんは、脳の病に効くんじょ、とか言って広まっている場合もある。

 そこでオイラの現在の行動範囲で「疫病退散」(罹らない予防で病気平癒とは違う)の神仏がどこぞにないか思い出してみた。そうすると「ぎょんさん」(祇園社)・八坂神社があった。ぎょんさんが疫病封じの神というのは昔からよく知られていた。日本三大祭りの一つである京都の祇園祭も疫病封じから始まったと聞いている。そういえば京都本社の祇園さんに参拝したとき鳥居を入ってすぐに「疫神社」というのが摂社としてあり、多くの人の信仰を集めている。ぎょんさんが疫病封じの神の性格を持っていることがこれを見てもわかる。

 ワイが疫病退散のお祈りに行ったのは大滝山にある「ぎょんさん」・八坂神社である。この大滝山のぎょんさん、なぜか栄枯盛衰の波の呑まれ今は参拝者のごく少ない寂れた小さな神社となっている。しかしモラエス爺さんのいた大正期は祇園祭の時は参拝者の列がひきも切らず今の天神社のあたりから祭りの露店が途切れることなくつづき、夏の一夜、そこをそぞろ歩いた思い出が随想記に載っている。参拝者の賑わいを見せなくなったのは大東亜戦争後であるという。今では徳島の祇園祭といえばみんな蔵本のぎょんさんを思い出すが、本来はこちらの方が主な祇園社であったのである。

 まあこんだけ寂れた神社であったら、集・近・閉(しゅうきんぺい)の心配はしなくてよさそうだから思う存分、参拝できる。

 神社だから祝詞風に「かけまくもかしこき八坂のおおみかみ、なにとぞ、はやりやまいを、おさえたまえ、しずめたまえ、かしこみかしこみ、もうしさふろう、(パンパン)」でもいいし、お経ではあるが「般若心経」をとなえてもよい。簡単に「疫病退散、御願い奉る」でもよい。人それぞれ、お願いするとよい。

 小さな神社だが、茅の輪(茅、萱、藁などで作ったくぐり輪)がある。

 これをくぐると、特に疫病封じになるそうだ。くぐり方には作法がある。作法に興味のある方はググればよい(くぐるとググるをかけているジジイギャグはずかし)。右には神馬も奉納されている。

 動画

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