2020年12月9日水曜日

御祈祷

  昨日、滝薬師の前を通りかかると、堂内から十三仏の真言が声高らかに聞こえてきて、続いて太鼓の音とともにまた別の真言が聞こえてきた。ああそうだ。今日は8日、護摩祈祷の日である。十三仏は不動明王に始まり、虚空蔵菩薩に終わる仏はんである。御祈祷になぜその十三仏の真言を唱えるかの説明もいろいろ言われているが、そんなことは実はどうでもよい。護摩壇でメラメラ燃え上がる祈祷の炎とともに、声高らかに真言を唱える僧の行為そのものが信者にとってはありがたいのだ。祈願者も一心不乱になれば、法悦に入り、いわゆる宗教的エクスタシーを得られるかもしれないし、もちろん心願も容易にかなう気になれる。呪文のようなマントラを夏のセミのように間断なく唱え、そして本尊前の盛大な炎、強く漂う魅惑的な香の匂い。このような宗教的演出は千数百年の歴史がある。日本では密教系宗派が主にそれを担っている。

 現代人は宗教を容認している人でも、やはり宗教は高尚でなければならないと思っている人が多い。現世利益的な、効能ばかりを強調する、祈祷系の宗教は低次なものとうつるようだ。だがそんな人でも、心の中に、こうあってほしい、そうなってほしい、という願いや希望を抱かぬ人はいまい。御祈祷を信じる人も同じである。ただ信じる人は、一心不乱に願うその心のエネルギーをなにか形にして、あるものに向ければ成就への道が開けると思っているのである。そういうと超自然現象肯定者や神秘主義者と思われるかもしれないが、そんなたいそうなものではない。「願い事」を強く思い、それが心いっぱいに満たされたとき、思わず「あるもの」に向かって合掌したり、首を垂れるのは自然なことである。

 そうならおのれ一人で静かに行えばいいことではある。もちろんそのような祈祷もある。し、とやかく言うことではない。だが人は魅惑的な宗教儀式にあんがい強く惹かれるものである。願い事を派手なパホーマンスにのせてやることで、宗教的というのがいやなら、心としてもよい、その心に満足感を得るのである。護摩祈祷などは盛大にボンボン火を燃やし、真言を高らかに唱えるため、なにか、人の持っている目には見えない祈祷のエネルギーが、火炎やマントラのように、目に見え耳に聞こえる形としてあらわれ、本尊の前で湧出するように思える。いかにも効きそうである。例えが適当でないかもしれないが、効かないと思って飲む薬より効くと思って飲む薬の方が、効果が大きいのとよく似ているかもしれない。

 そのためか真言密教の護摩祈祷は、今の世でも結構人気がある。最近の寺は檀家離れが進み、また無宗教の葬儀が増えているため収入が先細っている中で、この「護摩祈祷」はいい収入源である。今はどうか知らないが大昔は、祈祷のお坊様は、まず美声の持ち主であることが第一番、そして美男ならなおよい、とされたのは頷けることである。

 通りがかっただけなので堂内に入るのは遠慮した。外から太鼓の音と真言が流れているのを動画撮影した。十三仏を唱えた後なので太鼓の音は聞き取れるが真言は先ほどより声量も小さくなり、何を言っているのか外からはわからない。

2020年12月8日火曜日

ロチを読んでいる

  図書館の新刊書棚に左の本があった。著者のピエール・ロチという名前に聞き覚えがあった。それで手に取り、パラパラと目を通した。明治の初年、日本に来たフランスの海軍士官が書いた旅行記と言ったらいいのか、日本についての気ままな随想を述べた本であるようだ。外国人の目に映った明治や大正時代の日本の風俗はどのようなものであったか、興味があったので借りて読んでいる。

 それにしてもピエール・ロチという名、いったいどうして記憶に残っているのか?かなり古い記憶のようだ。思い出してみる。まずその名、ロチ、外国人の名前にしても変わった名前だから一度きいたら頭にずっと残っていそうである。しかし、そんな印象的な名の著者が書いた作品なら、その作品も頭に残っているはずだがそんな記憶はない。どうも別の、たぶん日本人作家の作品の中に出てきたんじゃないかとまではわかったが、それから先、その日本人作家は誰だったか、作品は何だったかは思い出せない、しかしどうも中学か高校の時の国語の教科書の中の作品のようである。はてその作品は?

 ネットで「ピエール・ロチ、中高教科書、日本人作家」などのキーワードを打つとすぐわかった。芥川龍之介の作品『舞踏会』である。なるほど芥川龍之介なら好んで中高の教科書にとりあげられる作家だし、またこの『舞踏会』は短編でもあるので題材としては適当であろう。芥川龍之介の作品は短編が多いが味わい深いものがある(だから教科書にも取り上げられるのだろうが)。『蜘蛛の糸』、『羅生門』などは中高の6年間のいずれかの国語に載っている。それらと比べるとこの『舞踏会』は出現頻度はグッと落ちる。ロチという名も知らずに大学に入る学生もいるから、ごく一部の教科書に載っているだけである。ロチという名は一度この作品を読んだものは忘れはすまい。この短編小説『舞踏会』の締めくくりは読者に強い印象を与える。それを与えるのがこの「ロチ」という名になっている。そのため読書後にロチという名が頭に刻み込まれるのであろう。

 ロチの日本についての評論はちょっと評判の悪いところがある。いま借りて読んでいる『日本秋景』もそうだが、日本人の容姿について、彼はあまりにも率直に感想を述べているため、それを読む日本人としてはかなり衝撃を受ける。日本人の容姿をみて、いわく「・・・これほど醜い人々はめったにない」「・・黄色いサルのようだ」、よくて「小さくてかわいらしいサル」云々。日本人としては読んでいてムッとする。しかし、一方、西洋人からみたらそう感じるわな、と思う。彼の美醜についての感想はいつも率直である、容姿についてはかなり聞きづらいが、日本の美術、工芸、自然の美しさに関しては感嘆し、賞賛を惜しまない。つまり彼はお世辞などいわない、見たまま感じたままの心をそのまま文にしているのである。当時の西洋人が見た日本人および日本を率直に述べたものである。

 だからか、この旅行記ともいうような『日本秋景』を借りて読みつつ、彼の日本に関する小説も読もうと作品『お菊さん』を図書館で探した。ところが蔵書がないのである。全県図書館検索システムで探すと県立の蔵書戸棚にたった一冊あった。それで借り出したのが左の本である。もう長期間読まれた形跡はない。もう本はボロボロ(よく貸出禁止にしないものだ)見ると、なんと私が生まれた年発行の岩波新書である。ネットで調べてももう半世紀以上新版の発売はない。ということは読む人が少なく人気がないことを表している。やはり日本人の容姿をかなり手ひどく描いているのがみんな気に入らないのかもしれない。

 とりあえず、いまピエール・ロチの作品『日本秋景』と『お菊さん』二冊を読んでいるところである。この小説のお菊さんのモデルになった女性が長崎にいた。このお菊さんはロチの短期長崎滞在中の「現地妻」であったとされている。

 わが郷土にいたモラエスさんと(その現地妻?)おヨネとコハルを思い出しつつ、お菊さんのモデルの女性の写真を下にあげておく。二枚の写真とも同じ女性で、これがお菊さんのモデルだといわれている。いや、別人だという主張もあるが、当時の写真館でとる写真はかなり写真屋さんの修正も入るのを考慮してほしい。皆さんは見て、どう思いますか?どの写真も立っている男二人の右がロチである。


2020年12月7日月曜日

徳商の阿波おどり

 昨日アミコ二階正面広場で徳島商業高校の阿波踊りクラブが踊りを披露していた。

 動画で見ると、ご覧のように女子が多い。

 

 男子は鳴り物にいるだけ


かと思ったら、女子の総踊りのあと、男子二人がダイナミックな踊りを披露してくれた。こちらの動画も撮りたかったが二人が舞台を縦横無尽に動き回るのと、前の観客らが邪魔になり撮影できず、激しい動きの合間にある「ストップモーション」時に写真を撮った。


 徳島商業高校はアーティスト・米津玄師の母校でもある(最初ワイは名前からイリュージョニストつまり大魔術師かと思ってた)。校風になにか芸術的才能を育てるものがあるのかもしれない。

2020年12月6日日曜日

先週始まった朝ドラ、え、え?そうだったんじゃ!

  昨日は土曜日、朝、ぼんやりとBSでMHKを見ていると、一週間分の朝ドラの総まとめをやっていた(6話分だから15×6で1時間半か)。

 「あぁ、そういやぁ、今まであった朝ドラ、古関裕而を描いたエールが済んで、今週から新しいのがはじまったんや」

 途中から見たので物語の出だしは見逃したが、流れている場面は、見たところどうも明治か大正の農村の雰囲気である。貧しそうな家、頼りなさそうな父(たぶん)そして継母だろうか着飾っている、おそらく敵役だろう、主人公は7~8歳の女の子で弟がいる、とここまで見ればだいたい今まで見なれたパターンの、苦労をものともせず成長につれてだんだんに大成していく女子を描いたものであることがわかる。

 時代や身につけているボロな着物、そしてまだ幼い女主人公を見ると大昔に見た超人気の朝ドラ「おしん」を思い出した。ところが見ていくと、この女の子、おしんのように「辛抱」するような子でなく、継母と負けずに堂々とやり合っている。なかなか気の強い子であるようだ。見たのは一週間のまとめの最後の方だけであったが、おしんとは性格の違う気かん気満々の、ぷっくり頬の膨れた顔、幼女とはいいながら、大人になってもおそらくはそう美人にはなりそうもない顔、でもワイはこんな明治大正の子どもの歴史顔って好っきやわ。明治大正頃にはどこの農家にもいるような少女の容姿、そしてガイな性格といいちょっと興味がわいてきた。

 ところがギッチョンチョン!次週の予告を見てずっこけた。


 なんと、いつのまにやら大きくなって田舎田舎したきかん気の女の子が韓流や華流の時代劇のお姫様もかくやとおもわれるような(一応着物だけは粗末になっているが)楚々とした美女になっているではないか。ファッションモデルや美女アナなら似合いもしようが、なんであの田舎のおぼこな子ぉが、こないになるんぞぃ!

「体が痩せすぎじゃわい!顔が綺麗ぃんはしゃぁないとしても、少なくとも下半身は頑丈で太ぅなきゃぁあかん、大根足、デカ尻ならなおよい」

「首も細すぎる、いったい何者のキャラにするつもりぞぃ、やるのは女の丁稚はんか女中はんやろが」

 とツッコミを入れたくなる。それみたらもう見る気ぃ失せてしもうたわ。「もう見ちゃれへんわ」と決心してこの話はそれで終わった、と思った・・・

ところが 

 図書館には最新に購入した新刊本貸し出しコーナーがあり利用者の便宜のため入ってきた入り口に近いところに、内容を確認できるように表紙を上に平で並べてある。今週はたくさん入ったようで30冊以上並べてある。ふとその中の一冊に目がいった。左の本である。タイトルに覚えがある『水のように』、たしか浪速千栄子はんの自伝だったと思ったが、よく見ると間違いないこの表紙の写真は浪速千栄子さんである。(若い人は知らんやろなぁ、亡くなってもう半世紀近くなる)

 なんと珍しい、この本、覚えがある。ワイが高校生の一年のときやから、ええと、昭和41年、1966年、いまから54年も昔、高校の図書館の貸し出しカウンタの真向かいの書棚にあった。なんで覚えているかというと、当時は女優の自叙伝なんかは珍しく、また高校の図書室の本の中では異色の軟派な本であるため、覚えていたのだ。目が行っただけではなく、多分借りて読んでいるが、内容はきれいさっぱり忘れている。

 「なんで、また、そんな大昔の本を、それも浪速千栄子はん亡くなってもう半世紀近くもたつのに、復刻の新刊でだしたんやろ」

 初版の出版は1965年とあるから、まさにワイが高校の時読んだのがその初版だったのだ。内容はともかく、ワイが高校の時その図書室にあったというその懐かしさが先にたち、借りて読むことにした。(最近、老人性痴呆涙腺症がすすんだのか、高校時代のゆかりのものなどに触れると涙が出るほど懐かしくなってくる)

 そして数ページ読んで、今日見た朝ドラの題とこの本が結び付いていることに気が付き驚いた。数ページ目に浪速千栄子はんはこう書いている。

「おちよやん」と申すのは、大阪弁のニュアンスをご存じない方にはちょっとおわかりにくいでしょうが、下働きの年齢の下女を総称して、そう呼ぶのが当時のならわしでございました。

 この本に出てきた「おちよやん」の言葉で、おそらくこの浪速千栄子さんの自伝が元になり今回の朝ドラがつくられたに違いあるまい、それで55年も前の大昔の本が復刻され新発売されたのも納得できると思ったが、念のためネットで調べるとやはりその通り今回のドラマのオリジナル本(もちろん脚本はそれに基づいて現代の脚本家が描いているのだろうが)であった。

 浪速千栄子はんは若い時、確かに美人だったがそれは明治大正期の別嬪さんである。なんぼぅなんでも今流行の韓流や華流時代劇TVのお姫様のような美人とは全く性質が違う。今回のヒロインはどう見ても後者の方じゃろ。ワイとしては配役ミスとしか言いようがないが、今様の美人でなかったら朝ドラのヒロインにはなれん!と言われればそれまでだ。こういうヒロインの一生を描くドラマでは往々にして子役のイメジとその大人になってのイメジとの差が大きく、違和感を抱くが、ドラマを見続けるには慣れるしかない。まあワイは、本の方は古い復刻版でもあり、懐かしく読ませてもらうが、朝ドラの方は遠慮しますわ。

 ちなみにワイの独断と偏見で言わしてもらうなら、子役の子ぉが大きぃになった役でいちばん似つかわしいのは「近藤 春菜」か「山崎 静代(シズちゃん)」がいい。どちらもお笑いのイメージが強いというなら、「安藤サクラ」なんかが適してると思う。

2020年12月4日金曜日

イルミの季節だ

  夜が最も早い時期、すなわち日没が一番早いのは今日この頃である。冬至(12月21日)ではないのかと思うがそうではない。その地学的な仕組みはよくわからないが、たぶん地球が楕円軌道を公転していて速度に遅速があることや地球が完全な球体でないことが影響しているのだろう。

 だから早く暗くなるし、寒いし、夜がわびしくなる。そんな中、目を楽しませてくれるのはさまざまな電飾だ。発光ダイオードが普及していろんな色の電飾が見られ、その形も複雑で、あるテーマ(童話などが多い)を表現した大掛かりなものや、また芸術的のものも見られるようになった。

 先月にはなかった電飾が今月に入るとあちらこちらで見られるようになる。下は今晩の市体育館前の電飾(イルミ)である。時刻は午後6時過ぎ。親子連れがたくさん見られた。

2020年12月1日火曜日

大分限者

 上記のタイトル、わが地方では訛って「おぶげんしゃ」という。今は死語と化しているが、昔の大金持ちのことである。この言葉が使われていたのは江戸、明治、そして最近私のブログでもよく取り上げる大正時代から昭和前期くらいまでだろう。昔の大分限者はわかりやすかった、立派な門構えの広い家屋敷をもち、そして必要条件として蔵(白壁の土蔵)がなければならなかった。住み込みの女中、下男がいて、ほかにも使用人がたくさんいた。

 先日、上板の方へ渡る潜水橋を探していて、迷って重文指定の旧家の横を通った。時間があるので立ち寄って見学しようと思ったが、当分の間、コロナ防疫のため見学禁止とのことで、外から撮影させてもらった。




哀愁の廃線・鍛冶屋原駅

  前回たどった廃線は、大正時代に存在した。私の祖父の青春時代の話である。昔話に撫養へ行った話を祖父から聞いたことがあるので、おそらくこの路線にも乗ったに違いない。私に昔話として話した時点で、その連絡船と組み合わさった路線はとうの昔に廃線になっていた。祖父の心の中まではわからないが、何か懐かしさを感じるものがあったのだろう。今になって思えば、祖父の昔話をもっとよく聞いておくんだったなと後悔している。

 祖父には懐かしかったかもしれないこの(吉成~古川)間の廃線だが、私の生まれるずっと前の話で、その廃線跡を辿り、ところどころここかなと立ち止まって写真を撮っても特に思い入れなどはない。しかし、今日のブログで取り上げる廃線には複雑な哀愁がある。その廃線は国鉄・鍛冶屋原線(板野~鍛冶屋原間6.9km)である。大正12年に開通したが、高度経済成長が始まりモータリゼションの波が急激に高まり列車利用者が減ったため昭和47年に廃線になった路線である。

 私が3歳か遅くても4歳まで(昭和29頃)この路線のタミナル「鍛冶屋原駅」のすぐ近くに家がありそこに住んでいたのである。鉄道と並行に走る駅裏の道から少し下ったところに家があったのを覚えている。小さな家だが一戸建てで、そこで父、母、妹の三人で住んでいた。今の言葉で言えば「夫婦と子供二人の核家族」である。わずか3歳だった幼児の私にその時の鮮明な記憶はない、ただ、定かとは言い切れない夢のようなおぼろな記憶が断片的に残っているだけである。

 あやふやな記憶らしきものにはいくつかあった、家の台所棚にガラスのコップ、それと同じ棚にラジオがあった、なぜそんなものが記憶に残っているのかわからないがほかの物の認識はない。そして外出するとき(誰に連れられてかわからないが)まだ乳飲み子の妹が縁の手すりにつかまって、アァ~ンとこちらを見て泣いていたこと、また別の記憶では祖父だろうと思うが家に迎えに来て連れていかれるとき家の奥には母がぽつねんと座っていたこと、などわずかである。家の周囲(つまり駅付近)の記憶はただ一つ。それは夜である。たぶん駅裏の家のあたりの夜景だろうと思う。転轍機(ポイント切り替え機)の上についている赤や青のやけに寂しい信号機の明かりが唯一である。 

 私は事情があって上記の時(3~4歳)以後、そこから10kmばかり離れた祖父母の家に引き取られ、以後祖父母に育てられた。つまり鍛冶屋原駅裏のこの小さな家でのこのおぼろな記憶は、唯一、両親と妹と私の4人の一家団欒の時代があったことをしめすものだ。世の中には片親やあるいは祖父母に育てられる子は多い、そんな中でも幸せに暮らす子も多いが、やはり二親のもとで育てられるのが子供にとって一番いいに決まっている。もう取り戻せない過去ではあるが、その一家団欒の記憶がほとんどないのが残念である。いやむしろ小さすぎて記憶などが全然ないほうがいいかもしれない(妹はようやく乳離れした幼児だったのでこの時の記憶などは全くないだろう)。断片的におぼろな記憶があるだけに、よけいにこの時代を哀切とともに振り返ろうとする、ところが悲しいかな記憶が残るギリギリの幼児だったため、そのおぼろな記憶も大してよみがえってこない。このもどかしさは何とも言いいようがない。

 その大切な珠のような貴重な記憶も70年近くも生きると少しづつ風化し、霧消していきつつある。老化、ボケとともに大昔の記憶もなくなっていく。10代や20代の時はもっと記憶も多く鮮明であったのは確実である。というのも、あれは忘れもしない小学校6年生の時だ、やはり昔の楽しかった家庭への懐古がやみがたかったのか、自転車で10km近くある鍛冶屋原の駅裏のその小さな家まで、遠出して見に行った記憶がある。そして実際その家を見つけた。8年以上たっていたがその家は、ちゃんとあった(もちろん別の人が住んでいる)。その行動を今から考えてみると、小学校6年当時の私の記憶は、駅とその家の位置関係、そして家の形などを確実に覚えていたのである。

 その廃線の鍛冶屋原駅跡を歩いてみた。

 駅だったことを思い出すよすがとなる物は残っていない。昭和47年に廃業ということはほぼ半世紀前である。せめて地形にでも(線路あとの盛り上がった長い丘のようなもの、プラットホムの石造の跡など)と探したが見つからない。お上や当局者が意図して駅の遺構となるようなものを残さなければ栄枯盛衰激しいこの世の中で消滅もやむを得ない。

 ただ最近作られたであろう御影石のこのような記念碑が立っていて辛うじてここに昔駅があったことを示している。


 この記念碑から北の方角を見ると道路にしては広い場所が広がっている。これはここが昔駅前であったことを示している。広場の隅に消火栓を大きくしたような大昔の赤い郵便ポストが立っているが、もしかすると半世紀前、駅があった時からの遺物かもしれない。

 

 駅舎跡は今は商工会議所と銀行のビルが建っている。鍛冶屋原駅はタミナル駅(終着駅)であったため駅構内は広かったと思われる(多数の線路、引き込み線、蒸気機関車の時代は円形の機関車の向きを変えるターンテブルもあったはずだから当然広い)、今その構内あとは大部分が運送会社とそのトラック駐車場になっている。

 記憶では我が家は駅裏(つまり線路がいくつも走る構内の南)の道にあった。まずその場所で間違いないと思われるところに行って写真を撮ってきた。もちろん当時の家はなく新しい家が建ち、整地したため地形も少し変わっていたが、道路より少し低い敷地に建っているのは昔のとおりである。小学校6年の時にも訪れ、記憶を確認していたためわかった。


 もう父母、祖父母、みんないない。おぼろなこの記憶も遠からず私とともに消え去るだろう。残るのは廃線の鍛冶屋原駅跡を示す墓標のような碑のみである。私にとってはなんとも哀愁漂う廃線・鍛冶屋原駅跡の探索であった。