去年の11月23日以来、寒さ、冬の到来もあって歩き遍路は一時中断していたが、暖かくなった昨日、今年になっての初めての歩き遍路を再開した。朝まだ少し寒さも残っていたが、昼を過ぎるころは、ぐんぐん気温も上昇しついに20℃近くまで上がった。
歩いていることもあって汗だくになりそうな予感がしたので、スウェットシャツ、ジャンパァを脱いでアンダーシャツ一枚になりその上から遍路の白の浄衣を着た。夕方までそれで歩いたが、それでちょうどよいほどの熱さとなった。雲一つない晴天で、春分も近いためもあり太陽の日差しは思っていたよりキツイ。
それに関し、私が頭につけている遍路装束の一つの「菅笠」は古臭い被り物のイメージがあるが、実際に歩き遍路をすると非常に合理的な被り物であることがわかる。菅笠は比較的大きな円錐形をしているため深くかぶると縁が顔の半分ほどに来る。そのためキツイ太陽光から顔ばかりか、太陽が中天に近い位置に来る真夏などは、全身を直射日光から覆ってくれる。また大きな菅笠であるので少々の雨でも全身が濡れることを防いでくれる。
また菅笠の内部にある頭を固定するフレームは菅笠と頭の間に空間を作ってくれるため、頭が蒸れるのを防ぎ、頭部の汗も乾き易い。大昔から日本の風土と歴史によってはぐくまれてきたこのような身に着けるものは古いからと言って使わないのはもったいない。遍路装束のみに今は残っているが、作業用の笠として使えないものか。
前置きが長くなったが、この日、出発したのはバスの終点、吉野川市「西麻植徳バス営業所前」、そして帰りの予定ではバスの始発駅・上板町「鍛冶屋原徳バス営業所前」、始発地を出たのが午前8時10分、そして終着地のバス営業所についたのが午後4時半だったので、全8時間余の所要時間であった。歩いた距離は概略計算で約20kmだった。
体力もないし高齢ということもあって、アッチャコッチャで十分休みながらゆっくり歩いた。水分補給には気をつけよ、ということでポカリスェットのペットボトルを重いのに一本持参していた。なおも補給が必要な場合は、割高になるが途中の自販機で買う予定をしていたが、晴天で気温が上昇していたといってもまだ春であったし、シャツ一枚+白の半そで浄衣ということもあってか汗もそうかかず、水分の輸液は一本で間に合った。もっとも嗜好で途中コーヒーや甘いジュースは飲んだが。
西麻植からそこに見えている吉野川堤防の上に出て北へ眼をむけると一面に広がる日本最大の川中島「善入寺島」が一望に見渡せる。本当にひろい、端が見渡せないほどである。この善入寺島を横断するには(川中島でから当然であるが)橋を二本渡らねばならない。橋梁土木からするとかなり珍しい「沈下橋」の、(地元ではこう呼ぶ)「潜水橋」を渡る。
まず川島潜水橋を渡る、遍路キャンペィンポスターでは多用されるシュチュェイションである。車は対向できない
善入寺島に入るがともかく広大である、歩き、歩き、また歩くが川中島から出るもう一本の橋にたどり着けない、「どんだけ広いんじゃ、ええかげんに終わらんかい、今日中にいねんぞ!」などと一人言いながら歩くが、眺めは素晴らしい、鋤き返した広い畑地、菜の花畑や、遠くには麻植の霊峰「高越山」が見えている。
広いはずである、大正時代、洪水被害防止や遊水地確保のため、この善入寺島住民全員を、お上は退去させが、その時この川中島にはなんと全島3ヶ村もあった。なんぼぅ公共のためとはいいながらずいぶん強権的な執行であった。
実は、この善入寺島、私にはある思い入れがあるのである。その旧3ヶ村の一つ粟島村には江戸時代以降、この大正初めまで私の祖先(具体的には曾祖父、曾祖母の一家)がすんでいたのである、私が社会人になるまで生きていた祖父は曾祖母と一緒に子供時代をこの善入寺島・粟島村で暮らしていた。祖父が、時々、懐かしむような表情で、その話をした。大学生になっていた私も、祖父の子供時代の牧歌的な善入寺島での思い出話を聞いた。その時は(また年寄り特有の大昔の話じゃ)と真剣に聞かなかった。
しかし私自身、人生の黄昏をむかえ、未来に向けて一家の歴史を語り、それを託す子孫もないいま、過去の一家の話、いわば家の歴史のみが私のアイデンティティの拠り所になるのじゃないかと考えるようになった。しかし今更遅い、なんしに、あの、祖父が懐かしげぇに語った、善入寺島・粟島村での在りし日の話を真剣に聞き、できればメモでもしておかなかったのか、悔やまれるが仕方ない。ウロ聞きの、おぼろで断片的な、薄っすらとした記憶のみが、悔悟、もどかしさ、呼んでも帰らぬ、こうあって欲しかった過去に対する焼け付くような切望をともなって存在する。
そんなことを考えながら善入寺島の道を歩いていると、こんな古い石柱が路傍にあるのを見た。
手前の古い石柱は、明治期の境界乃至地名の石柱の一種であると思われる。「これより東、二条通、源田浜(の)道」と読める、時代から言って子供時代の祖父、そして曾祖父母は村の道でこれを見つつ道路を行き来していたのだろう。
そしてこの地一帯は一斉退去まで「法幢寺」があった跡らしい、新しい石柱には「法幢寺跡」と書いてある。曾祖父母はこの寺とかかわりがあったのだろうか、わからない。時は容赦なく過ぎ去ってゆき、人は死に、残された人の記憶もやがて忘却で薄れ、しまいには確実に消去される、唯一残されるのは記憶を書いた歴史文書である。古老の話とバカにせず、記録を残すことの大切さを思う。
それから北路(キタジ・吉野川北岸をいう地元の呼び方)に上がり、なおも歩く、10番はんの切幡寺は阿讃山脈の中腹にある、なんと、ついたのは正午、まだ一ちょも寺をお参りしてないのにずいぶん時間が過ぎた。
10番切幡寺本堂、上には多宝塔もある。
山の中腹にあるため階段や坂が多い。ジジイにはのぼりがキツイ。石段だけでも333段もある。石段手前の山門の横の桜は満開であった。
形式通りの参拝のあと寺境内ベンチでたっぷりくつろいだためここを出たのが午後一時ころになった。こんなんで6番さんまで回れるやろか、心配になる。しかしここからはほぼ平坦な道で次の9番はん、法輪寺まではわりと近い。下は9番法輪寺
この山門前の無人販売所で一袋100円の温州ミカンを買い、またまたベンチでくつろぎミカンで水分補給と糖分を摂る。販売所の横に遍路道と各寺の案内標識をかいた大昔の石柱が立っていた。大昔(江戸期)の人は(当時のヨーロッパと比べても)文盲は少なかったが、それでも漢字は苦手でひらがなしか読めない人が多かった。しかしひらがなと言っても、当時は、この石柱を見てもわかるように「変体仮名」である。現代人には漢字より難しいようで、アベックの二人がこの前で立ち止まり彼氏の方が、読もうとしたが、わからんわぁ、と言っていた。
私はおかげで73歳まで生かしてもらい、古い石柱を目にする機会も多いので読める。歳ぃいって誇れることはこれくらいか(くまたにじ、の「ま」と「た」が難しい、「ま」は「満」のくずし変体仮名、「た」は「多」のくずし変体仮名である。ちなみに距離も書いてある、これには(きりはたじ、の下)二十五丁と書いてあるが、尺貫法とメートル法の偶然の一致か分かりやすい、丁は今の単位で大体100mびゃぁである。2.5km強である
そこから8番熊谷寺へ向かう、山門は由緒ある17世紀創建、白モクレンと山門が絵になる。
もうここから出たあたりから足ぃやぁくたぶれるわ、体がなんとなくセコぅなるわで、あれこれ甘い感傷や思い出に浸る余裕はなく、ただ、はよつけ、はよつけ、とひたすら黙々と足で距離を稼ぐのみとなる。よほど7番の十楽寺はんはパスしようかなと思うたが、いやいやこれが修行じゃと思い、作法通り参拝する。
十楽寺全景、横の白い建物は宿坊(寺経営のホテル)のようだ
四時過ぎてようやく最後の6番はん安楽寺につき、参拝する
思い出したことがある、若かったころ、この寺はたしかユースホステルやってた。そこで何かわすれたが若者の会合が開かれ(泊りはなかったが)ワイも参加したことがある。本堂右奥に昔はそのユースがあった。
参拝し終わって時計を見ると、アイヤァ~!四時二十分、鍛冶屋原停留所のバス出発時刻が4時39分、間に合うか知らん?
幸いなことにこの寺は鍛冶屋原の町に近いので何とか間に合った。あぁぁ~~~~、しんど