2022年9月4日日曜日

中世の日本人の海外雄飛?前期倭寇

   マドロスものの演歌、映画の話からから歴史をさかのぼって北前船と港の女(遊女)、能登福浦の腰巻地蔵の話、阿波鳴門の女郎の純愛密航物語、などブログに取り上げてきた。昭和の日本人が愛したマドロス演歌・映画の好みはこのような歴史的な海の民族体験に基づいているのではないかと思っている。

 大昔は劣弱な船、未発達の航海術など大洋へ乗り出し外国へ向かうのは命がけであった。しかし勇気あり冒険心に富む海の男たちは外洋へと乗り出していった。そもそも日本列島にやって来た初めての日本人(?)も大洋とは言わないが大陸から南西諸島の島伝いにやって来たのである。島国の人間はその始原から海洋に乗り出すように運命づけられているのかもしれない。大洋に乗出したと言えば16世紀にあった日本のいわゆる「日本版大航海時代」があった。もっと古くは13世紀末ころから始まる「倭寇」の時代も日本人が海外に船を操り出かけた時代があった。いやもっと古く遣隋使、遣唐使があるではないかといわれようが、これは国家の意思として行った者である。古代にも確かに大もうけを企んで海へ乗り出す人も居たが、大洋横断となると躊躇したのではないか(壱岐、対馬、朝鮮海峡沿いだと考えらるが東シナ海を横断はどうだろう) 

 ここでいままで述べた「大洋」の定義について述べておく、古代~中世に限ると「大洋」はいわゆる太平洋周辺に位置する「○○海」と言っていいだろう。それを「横断出来る」ことが大洋に乗り出すことと思っている。具体的な「海」は、日本海、東シナ海、南シナ海、などであろう。太平洋のようなオーシャンではなくあくまでシィー(sea)である。(太平洋が大洋になるのは16世紀の近世になってからである)、これは古代、中世のヨーロッパも同じである。この時代の大航海は地中海の横断、紅海そしてせいぜいインド洋沿岸までである。大西洋はいわゆるオーシャンで、それが横断の対象となるのは16世紀直前まで待たなければならなかった。

 近世は地球規模の海外交易の時代が始まったが、それまでは西洋も東洋もさほど変わらぬ地域限定の「海」を航行し交易していたのである。近世の始まる前、すなわち中世末、西洋の方では、利益を求め、あるいは若干の冒険心も伴って積極的に海に乗り出した人々は、イタリアの人々、そしてポルトガルの人々がいた。東洋ではどうか?積極的に海外に乗り出した国に沖縄があり、また国や都市住民ではないが集団として日本の主に九州やその西の付属の島々から乗り出した『倭寇』(前期倭寇)がいた。どちらも今の日本である。前期倭寇と後期倭寇はその性質が大分違っているが、ともかく中世日本で勇敢に大洋を横断していった人々がいた。この人々は何の利益があって危険な海に出て行ったのだろう。海の向この大きな利益が動機ではあったが、貧しい漁村や村の生活に耐えられず飛び出た人も多かったろう。

 倭寇はその軽蔑的な文字が示すように半島や大陸の人が日本人の海賊を意味するものとして使っていた。船の集団でワァ~と海からやって来て上陸し、財貨を略奪する行為もあったが、またあるときは商人として港での平和的な交易もあった。前期倭寇は時代とともに徐々にその性質を変えていく、日本人で構成されるより、大陸の沿岸部の中国人の占める割合が大きくなっていき日本人は少数派になる。そして活動領域も南シナ海や東南アジアまで広がる後期倭寇となる。

 前期倭寇が発展してそれが日本人の海外雄飛(ヨーロッパの大航海時代のような)に直接結びつかなかったのは、当時中世の日本は封建諸侯分立の時代で、国家意思として積極的にこのような日本人の海外雄飛を後押しするようなことがなかった。九州沿岸あたりの人々がある程度のまとまりを持って海に出た私的な小規模集団でしかなかった。

 これに対し同時代のポルトガルも国全体としては日本より貧ちょこまかったが、国王を中心とする国のまとまりがみられ(後に絶対王制とよばれる)、国家意思として海外進出を後押ししたのである。船の構造や航海術の優劣もあろうがそれ以上に、海外雄飛に関し、ポルトガルがめざましい活躍をしたのは、この国家意思としての、海外進出を支える国の力であった。日本もポルトガルもユーラシア大陸からしたらそれぞれ東の端と西の端とのどん詰まり、かたや孤島、かたや西が極まる大西洋に突き出た半島、だがしかし、地球の大半を占める海洋からみれば、もっとも海に出やすい場所に位置している(かたや太平洋、かたや大西洋)、このように海外雄飛の好適な地理条件に恵まれながらポルトガルが真っ先に海外雄飛を果たすのは、やはり統一された国家の意思によるところが大きいのではないかと思っている。この後、ポルトガルは大西洋のアフリカ沿岸から喜望峰を回り、16世紀が始まる2年前にはインドに到達、そしてそれから20数年後には世界一周航海を成功させるのである。

 この日本人の海外雄飛の芽ともなったかもしれない前期倭寇の人の姿を見てみよう。大陸の人が作成した「倭寇図巻」による。

 海上での明の正規軍と倭寇の戦い、どちらが倭寇かわかりますよね。まだ銃や砲は使われていません。接近すると弓矢や長い槍でまず交戦(この図はそれ)そしてもっと近づくと、相手の乗り移り船上の戦いとなると倭寇は日本刀を振り回して戦うというパターンと思われる。


 倭寇の格好見たらわかるが下半身むき出し、金玉で膨らんだふんどしを丸出しし、オリャァ~と日本刀を振りかざす倭寇はかなり強かったらしく、また小舟で機動力も優れ、あちらの取り締まりの役人はホトホト困ったらしい。 

 下は拡大図、この倭寇(日本人)の姿形から私は文化人類学的な興味を覚えます。頭がガッシリしていて、どんぐり眼、なにより髭が濃い、股、脛なども髭ボウボウの人が多い。左の大陸の兵士と比べると差は一目瞭然、別に卑しめるため醜く描いたのではない。


 別の倭寇の武器を振りかざしている図、やはり髭も体毛も非常に濃い、海の縄文人という(文化人類学でそのような言葉があるかどうか知らないが)ような人々か、そういえば沖縄、南九州あたりの人は縄文人の血が濃ゆいのか髭や体毛が多い人が多い。


 五島列島(長崎県)にある倭寇の銅像、ヒェ~、こりゃどうじゃ!この姿、まるで桃太郎に退治された鬼のようではないか。観光資源として作るなら見た子供がヒキツケ起こすようなこんな恐ろしい銅像を作るのもなんだかなぁ。



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