先日の切幡観音参拝記のエピソードの一つです。
バナナの木を見たあと、帰りは往路の吉野川中央橋でなく、善入寺島(吉野川の川中島)を通って帰る道を選んだ。川中島なので吉野川の分流を二回渡る。市場町八幡のほうと川島岩の鼻のほうでどちらも潜水橋になっていて大水の時は水没して渡れない。
その岩の鼻の潜水橋のたもとに「かんどり舟」が三隻岡にあげてあった。懐かしいので撮影した。
私が小学校の時、祖父はかんどり舟をもっていて、吉野川で鮎を獲る時に使っていた。下の写真の左の船と同じ形だった。夏などはなんども祖父にこの船に乗せてもらったし、私が浅瀬で水遊びするとき祖父はこの船の上から、泳げない私を見守っていたものだ。
かんどり舟は全て木製で独特の形をしており、舵も櫓もなく、長い竹竿を川底にさして押し進める、船の真ん中には四角の生け簀が作り付けられている。大昔は渡しにも使われたようだが昭和30年頃には吉野川の川漁に使われていた。
祖父もかんどり舟は川漁に使っていた。祖父の川漁はまさに「漁」で、昨今の趣味で(釣り竿などで)鮎を一本釣りするのとは違い、網を使い、大量の鮎を獲るのである。当然、たくさん鮎が獲れるが、それを祖母が自転車の荷台にモロブタをくくりつけその中に獲れたての鮎と氷を乗せて町を売り歩いた。夏だけ祖父が獲った鮎を祖母が行商していたのである。祖父母も中年頃までは家で魚屋をしていて、仕出しなどもやっていたようだが、私が小学校に上がる頃は止めてしまっていて漁期だけ鮎を獲って商売としていた。
今は鮎は趣味で獲るのみ許される、それも許可証をもらってである。現在ではもう祖父のような「漁」としての漁法は認められていない。しかし私が小学校の頃、祖父は川漁師として登録してあったのか、「せばり」という漁法で鮎を(売り歩けるほど)多量に獲っていた。うろ覚えだが私も何回か祖父に連れられ見学しその漁網やウケを見たことがある。今ネットで調べると下のような漁法であった。
もちろん祖父一人では出来ない漁法である、時期が来ると祖父とよく似た年頃の人を4~5人集めそれで漁をした。大がかりな網や器具、ウケなどは祖父が所有していた。そして上のような漁法で鮎を獲って引き揚げてきて、ウチでその4~5人の仲間と漁獲した鮎を分配していた、もちろん祖父が網元なので分配は多かったはずだ。
川島潜水橋でかんどり舟をみてすっかり忘れていた祖父の川漁師としての姿をおもいだした。そうそう、それから祖父の生まれたところはこの善入寺島であったと聞いたことがある。先祖も代々そこで居住していたそうだ。明治頃はこの善入寺島内だけで3ヶ村もあり、祖父もその村で生まれた、しかし大正初年に遊水地帯として全村退去令が出され祖父も含め村人は全員近隣の町村に散って行ったとのことだ。
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