前のブログで小松島の田野の「釈迦庵」について書いたが、その時はいくつかの観光パンフレットとそれらしいネットの記事をいくつか読んだ知識に基づいていたが、あとになって調べると足りないところ、それ以外にわかったことがあるので再び「釈迦庵」について書きます。
まず直接行って見る前に釈迦庵は廃寺という固定観念があった。だいたい私のような素人の歴史好きや古いものを懐かしむ気持ちのあるものは廃寺と聞くと、かなり昔(明治以前)に無くなり、寺所蔵の貴重な文化財が散逸してしまったという大変残念な状況を思い出す。奈良飛鳥には古代の廃寺跡がたくさんあり、また身近ではウチの近くにも中世の廃寺跡・河辺寺遺跡がある。それらは見るたびに、もし今残っていれば貴重な文化財になるのになぁとの思いを強くする。そのため釈迦庵を訪ね、寺院様式の泉水池などを見るとこれは大規模な寺があったんじゃないかとか、動画を見てもらったらわかるが池の向こうの磨崖には何か磨崖仏か、仏の名号、梵字があったんじゃないんかな、と勝手に思うことになる。
しかしそのあとで調べると、「廃寺」であったというのはどうも私の夢想というか妄想に近いことわかった。だいたいパンフにも以前発行された小松島市史にも「廃寺」なんどという言葉なぞ出てこない。この時点で私のブログでいかにも惜しまれるようなニュアンスで用いていた「廃寺」というのは私の思い込みのようである。そもそも昭和56年発行の小松島市史には釈迦庵の存在を現在形(
・・建築様式を保ち、・・がある。)で書かれていて、同時に釈迦庵の写真も(
不鮮明だが)載っている。左がそうである。だがこれって?前の私のブログで弘法大師伝説の一つである襁褓をおさめた「おむつき堂」のことじゃないのか?下がそのお堂である。
瓦や壁は改修されているようだが横にある大きな木やお堂全体の形から、40年前の小松島市史に載っている写真とみてよい。ということはこの時点で釈迦庵は現存すると書かれているのはこのお堂のことであり、ここを釈迦庵と呼んでいたのである。だから40年たった今でもこのお堂を釈迦庵と呼んでいるのだろう。とすると大師伝説の「お襁褓(むつき)堂」はどうなるのだろう、二つは一緒のものなのか?この疑問は今も残っている。だれか知っている人がいたら教えてください。
そもそも考えると名称は釈迦庵であり「寺」でもなく「堂」でもなく「庵」という言葉を使っている。それだけでも「寺」のような規模は想像できない。荒廃しているが竹藪に侵された敷地(池も含む)は広い。資料によるとここは昔は人が住んでいたことが知られている(恩山寺から引きこもった僧侶が住んだともいわれる)。そのため数棟の建物が昔はあったのかもしれない。また別の文献によればこの釈迦庵では遍路道にあたるため昔は巡礼のための宗教的な物品も販売していたようでもある。ともかく「庵」と「寺」の使い方も間違っていたようで釈迦庵は廃寺ではなかった。
しかし寺ではないにしても江戸の寛政時代には、この釈迦庵はかなりな重要な宗教施設であった証拠がある。もう少し釈迦庵に関する資料がないかと、地元である小松島図書館に出向き司書さんの協力も得ながら郷土資料を探した、しかしこの釈迦庵に関する記述は前のブログでも書いたと思うがかなり観光的にもマイナーなものであるためか、取り上げられている分量は驚くほど少ない。そうかといって文化的価値のある釈迦庵の遺物は何もないのかというとそうでもないのである。(ただ今は散逸しているがルーツは昔の釈迦庵である)
私があまり熱心というか、その実、ドびぃつこかったのか、小松島の宗教的な文化財の写真が載っていいるA4版のりっぱな冊子(40pもある)を、非売品ですけどまだ冊子に少し余裕がありますので、よかったら差し上げますといってもらった。小松島教育委員会発行の『小松島の文化財』である。これが今回私のブログのネタに大変役立った。以下はその冊子の写真、文章の引用から述べます。
まず釈迦庵敷地にある私の趣味の注意を引いた「仏足石」の文字であるが、文字が磨滅したり石が割れていたりで、前回のブログでは一部しか私には読めなかったが、この冊子に解読可能な拓本があった。そのためこの仏足石に刻まれた刻文がわかった。下がその拓本である。
右文字列『三国傳來佛足跡之圖〇』、左文字列『薬師寺所珍藏之者也』がわかった右文字列の最後の〇は読めない。だれかこの文字わかりますか?また仏様の足裏のめでたい奇瑞の御印(相)は私の写真ではよくわからなかったが拓本ではかすかではあるが模様が見える。法輪のようなものが見えている。
また同じ江戸時代寛政年間、この釈迦庵に所蔵されていた重要な文化財に「両界曼荼羅」がある。ところが今は前のブログを見てもらったらわかるように庵ともお堂ともいえるような小さな建物がぽつんと一つだけ建っている。とてもそんなたいそうな両界曼荼羅が所蔵されているような場所ではない。その両界曼荼羅(胎蔵界、金剛界と二枚ある)はいまはそれぞれ別の所蔵となっている(胎蔵界は市内地蔵寺、金剛界は個人所有)。
その二枚の曼荼羅がこの釈迦庵由来のものであるのがわかるのは、この頂いた冊子の曼荼羅図とともに載っていた図の裏や掛け軸にかかれていた古文書からである。
まず胎蔵界曼荼羅(右)金剛界曼荼羅(左)を見てもらおう(ほぼ4m強の正方形に近い)
金剛界曼荼羅の古文書を見てみよう
そして胎蔵界曼荼羅の古文書である
漢文(和風)であるため知識の乏しい私などは読みにくい。それでも大意はわかる。特に黄色の線で引いたところに注意してほしい。どちらにも「高雄」という言葉が出ているがこれは京都の高雄山神護寺である。弘法大師空海が9世紀初め唐より持ち帰った両界曼荼羅のオリジナルは残っていないがそのもっとも早い時期の第一の模写である曼荼羅がこの神護寺にあるのである。つまり空海のもっとも所縁のある曼荼羅を模写しようと思ったら高雄山神護寺をもとにすればよいのである。当然宗教的な価値高い。それを寛政年間に金剛界と胎蔵界曼荼羅を写して作り、同じ黄色の線で示すように「釈迦庵」におさめられ保管され使用されたのである。
模写とはいえ空海のオリジナルに最も近い高雄山神護寺の両界曼荼羅に似た曼荼羅というだけでもかなり文化的価値は高い。そしてこの両界曼荼羅は真言密教では最重要な儀式の時に使われる(灌頂など)、真言宗の寺とはいえどこの寺にも手ンごろ易くあるものではない。それが江戸の寛政期にこの釈迦庵にあったということは、ここは真言宗のかなり重要な宗教的な儀式の行われる庵であったと思われる。だから今は無住のみすぼらしい庵になっているが当時は幾人かの僧侶や修行僧がいてまた幾棟かの宗教的な建物もあり、修行者や信者で賑わっていたことであろう。それは珍しい仏足石や六億万遍にも達した光明真言の記念石塔があることでもその宗教的な賑わいは想像できる(光明真言塔も寛政四年である)。そののち、廃れるとともにこの釈迦庵にあった両界曼荼羅も別の所有者に帰するようになってしまった。釈迦庵は「廃寺」ではないけれども往年の宗教的な賑わいは全く消滅してしまったといっていいだろう。
仏足石を直接見、手に触れ、そしてこの釈迦庵にそもそもあった両界曼荼羅の上図の絵を見るにつけ思うことがある。
昔の庶民は仏教の高邁な思想や教えをよく理解していてお参りしていたわけではない。易行門(要するに小難しいことはナシに易しく救われる)のような浄土宗や浄土真宗などはひたすら阿弥陀を念じ、名号を唱えることで済度されるといわれる、真言密教の場合はちょっと違う、確かに南無大師遍照金剛とか光明真言(オン、アボキャ・・)は念仏に似ているが、同じ作用をもたらすものではないと言える。弥陀が極楽から光速ジェットに載って迎えに来るのではなく、真言宗の究極の到達は「即身成仏」(そこでそのまま仏になる)である。そのためには三密に基ずく加持、観想、あるいはその他の修行が行われた。また他力っぽいが阿闍梨による加持祈祷もそれに至る道程として考えられる。
しかしここ四国は真言宗が盛んな土地ではあっても、やはり庶民には三密だの修行だのは難しいし、専門僧に頼んだ加持祈祷もそうそうできるものではない。やはり易行(誰でもできる易しい行い)が求められる。その中でもっとも効果ありそうなのは「仏様」に直接触れることである。普通はお触り地蔵をのぞいて、なかなか本尊には手を触れさせてはくれない。その中で平たい自然石のような石に刻んだ仏足石は直接手に触れ祈願することができる。仏足石ではあっても有難い仏様に直接触れるのと変わりがないと思っていた。「触れる」ということは六字名号の念仏と同じように易行の行いと言える。(そうそう、嫌な思い出だが、去年滑くれて足をベシ折った太龍寺に参拝したとき、五鈷杵か金剛杵に直接触れられる礼拝所があった。これも「触れる」ことによる祈願であろう。)
仏足石などはかなり庶民的な信仰の対象だが、昔この釈迦庵にあった両界曼荼羅はそのような庶民的な易行とは違う。両界曼荼羅の使い方は即身成仏を求める修行者に対するものである。もちろん庶民も御拝見くらいはできたがやはり密教の修行において用いられるものであった。曼荼羅を用いる密教の儀式はたいへん複雑で深遠なものであるためとてもブログなどで書くことはできない。
この釈迦庵において仏足石と両界曼荼羅の二つがあるのは、お釈迦様の涅槃後、初期仏教からやがて仏像を作る仏教となり、そして大乗仏教となりさらにそれが最終段階で密教になるというインド仏教史の最初と終わりの形態を見るようで面白い。初期仏教では礼拝の対象としてブツダそのものを表すのは恐れ多いと考えたのか、菩提樹や法輪あるいは仏の居ます座(仏足石)などがその象徴と考えられた。すなわち仏足石は仏像が現れる(ガンダーラで)前の仏教の礼拝形態であると言える。そして数百年たった紀元頃インド西北部(今はパキスタン)のガンダーラで人身の形のブツダ像が作られるようになり、いろいろな種類の違った仏様も作られるようになった、一体ではなく、三尊(三体)となったり、あるいはもっとたくさんのものが並べられたりした、そして最後は密教の曼荼羅宇宙のように大日如来を中心として宇宙にたくさんの仏が存在するようになった。その大日如来を中心とした宇宙に遍在する無数の仏・神の世界を表したのが曼荼羅である。
もう今はないが江戸期にはこの釈迦庵では初期仏教の礼拝対象としての仏足石がある、それが発展しやがて仏像がつくられ、大乗仏教となり千年かけてそれは終着の密教に行きつく、その密教で視覚化されたのが曼荼羅であった。ここでは仏教のはじめと終わりの二つの聖物に触わることができ、また見ることができたのである。これも真言密教の、古い新しいを問わず、インドも含めた神やさまざまな仏をも包含する、幅の広さだろう。
釈迦庵を見学し、仏に手を合わせながら、無慈悲な殺生を思わずしてしまい、心が痛む。藪に囲まれ、丈高い雑草も生い茂るなか、蜘蛛の巣を払いながら、あちらこちらを見た。その時、首筋に違和感を感じたので手で払うと、大きな女郎蜘蛛が私の手から細い糸でぶら下がっている、ヒェ~といいながら思わず振り払い足で踏んでしまった。殺生禁断の境内でひどいことをしたと悔やまれる。
エピソード
曼荼羅を写真や本でなく直接実物を見たのはもう30年も昔、場所が四国レオマ世界村にあったチベット寺院か、愛知県の世界村かどちらか忘れたがチベット仏教系の曼荼羅であった。確か砂絵のようであったのを記憶している(当時は仏教に今ほど関心がなかった)。
「へぇ~、チベットにも密教があるんだ」
と思ったが密教史を勉強するとインド仏教の最終到達形態である後期密教の伝統を受け継ぐのは日本ではなくチベット仏教のほうだ。ちなみに空海のもたらした密教はそれより一期前の中期密教であるといわれている。ただし、日本人の感性には中期密教でよかったと思われる。後期仏教となれば二体の仏さんのお姿が合体して、ほとんど浮世絵の春画のようなものもある。まぁ日本にもお聖天さんのように二体結合の仏像もあるが、チベットのそれはあまりに赤裸々で礼拝どころか初めて見ると周りを気にし、赤面してしまう。