眉山と青空
空を見上げた。ずっと見ているとしんどさや嫌なことが消えていくような気がする。高いところに巻雲(すじ雲)がある。仏典によれば天の高いところには天人のすまいがあるという。よく見ると微細な巻雲は天人の羽衣に見えはすまいか。私は生来、聖的なもの超常現象、など見ない方でそういう意味では鈍感。目を凝らす、幻でもいいから天人が飛翔するのが見えればいいのに。仏典の解くように天には何重にも重なる天上界があれば死後行けるのだろうか。
青空は上へ上るにつれ薄く、暗くなっていく、青空は宇宙空間につづく、宇宙空間は虚空とも呼ばれ、暗く空っぽである。「虚空」は真空であるがほんとに何も詰まっていないのか、何も生み出せないのか、仏説ではそうではないようであるし、最新量子力学では無から有(宇宙)が生まれたという理論もあるようだ。劫初、その虚空からわが世界はうまれた。空っぽは無と同じ意味ではない。そら(空)とはよく言ったものである。大空を見ると心が澄みわたってくるのはそんなことと関係あるのかなぁ
青空~宇宙空間~虚空、そしてその虚空から有が生まれ、世界が誕生したなら、海はわれら有情(生き物)を誕生させた。青空のはるか上は暗い虚空に続くように、海も青く見えるのは表面に近いところだけで数百mももぐれば暗くなりさらにその下は闇となる。生命の誕生は昔は海の表面近くか波打ち際かと思われていたが、現代もっとも有力な説は深海の海底火山の付近であるという。とすると暗い虚空から世界が誕生したように、暗い暗い深海から命も誕生したことになる。
海を見ていると大空を見上げた時とはまた違うがやはりなにか心がおおらかになりそうな気がする。原初、暗い深海のバクテリアから進化してわれら人類になったが、その受け継いできたDNAのどこかに、原初の命の「母」が海であることプリントされていて、海を見るとそのような感情が起きてくるのかもしれない。
津田の海で大空と海を見つつ、港の突堤にあるお堂で、弘法大師が招来した不動明王(大日如来の化身でもある)を拝んでいると、弘法大師が宇宙の創造主・大日如来はありとあらゆるものすべてに遍満し、人はそれと一体化できると「即身成仏」を唱えたのを思い出す。この眼前の世界は空と海である。はるか上の虚空、そしてはるか下の深海は、「宇宙」と「命」の始原につながっている。弘法大師が別名「空海」といわれるのはなるほどと頷ける。
津田の空と海
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