一人暮らしのモラエス爺さん、誰にみとられることもなく長屋の自宅で発見されたのが昭和4年7月1日であった。当時、死因はいろいろ取りざたされたが現在では自宅での事故死とみられている。前日は近所の人の声掛けで返事をしているので生きていたのは確かめられている。おそらく30日の夜から未明にかけてなくなったのであろう。(モラエスさんの死因についての私のブログがこれ)
今日がその命日である。亡くなった当初は、当時の徳島市民も近所の人も西洋乞食とまで陰口をたたかれた長屋暮らしのみじめな異人のジイサンの孤独死としか認識されなかったが、死後その履歴(外交官)や、また本国ポルトガルで日本・徳島に関する書籍などを出版していた文学者の一面も知り、年々名声は高まり、今では徳島出身(晩年だが)文学者として知られるようになった。そのためなくなってほぼ1世紀たつが文学愛好家や日葡協会の人などが今日、墓のある寺町の潮音寺に集まって毎年「モラエス忌」を挙行し、モラエスさんの遺徳を偲んでいる。
モラエスさんのお墓は寺町の潮音寺にある。今日は「モラエス忌」で大勢の人がいると思うのでそれを避け、昨日、一人お参りしてきた(結局昨日は晴れていて今日は小雨、昨日お参りしてよかった!)下がそのお墓、真ん中がモラエスさん、向かって右がオヨネ、左がコハルの墓。
潮音寺のすぐ横、眉山ロプウェイ前の広場はモラエス記念広場となっている。花壇や四阿、ベンチがあり憩いの場である。モラエスさんの名を冠した「モラエス花」(キバナアマ)は有名であるがこれは寒い時期の花なので今は花壇になく、その代り紫花の丈高い「アガパンサス」が花開いて、今日のモラエス忌を飾っている。このアガパンサスは「アガペー(神の愛)の花(アンサス)」という意味がある。でも私の見るところ、モラエスさんの愛は「アガペー」より「エロス」のほうがふさわしい。下が広場のアガパンサスの花、向こうに鳥追いの被り物を模した四阿が見えており、その横にモラエス記念碑も見える。
モラエス記念碑の拡大写真 60歳ですべてをなげうって徳島に移住し、以後15年伊賀町の長屋で暮らし、7月1日享年76歳で亡くなった。
モラエスさんは言語の壁もあり、文学者として大正期に日本ではほとんど知られていなかったが徳島から発出した原稿はポルトガルで出版され、当時からポルトガルでは文筆家として知られていた。死後、日本でも何人かの日本人翻訳者によってモラエスさんの重要な本が出版され、徐々にその評価は高まっていった。極めて遅まきながら、戦後、県の当局もモラエスさんの文豪としての価値に気づき、文化政策の上でモラエスさんの遺業の広報、バックアップに力を入れるようになった。
徳島で誰にみとられることなく、ボロっちぃ長屋で一人亡くなったモラエスさん、私としては最晩年のモラエスさんの「死生観」、特にもう今日明日かもしれない身近に迫った「死」に対してどのように思っているのか知りたい。モラエスさんは宗教家でもないし、哲学者でもない。確たる死生観について陳述しているわけではない。しかし彼にはこの徳島で書いた随想(日記に近いものもある)がたくさん残っている。平易に日常の言葉で書かれている。術語や専門用語が多い宗教書や哲学書の著作より、いっそこのようなものが彼の本音の死生観を知るうえでは役に立つ。ただ日記に近い随想記であるため、その文章を読んでも、これがはっきりした彼の死生観であるとは断言しがたいが、その中で特にこれなどは彼の「死」に対する見方がよく表れているのではないかと思うのは著作『おヨネとコハル』の中の一節「ある散歩での感想」である。
その題の通り彼はある散歩であるものを目にしその感想を書いているのである。いったいどのような散歩だったのか。もちろん本を読んでみるとよくわかるが、なにせもう百年も前の散歩である。その風景も様変わりしているであろう。それを考慮に入れつつ当時の散歩はこのようなものではなかったのか、と私なりにそのあとをたどったブログを以前作っていたので、そちらの方も参照してみてください(その散歩のブログこちら)
誰でも厳粛にならざるを得ない死、万人に訪れやがて自分もそれに向かう。それをどのようにとらえるのか個人によってそれぞれ違いがあるであろう。モラエスさんはこの随想をつうじてその一端を垣間見せてくれる。私としてはそれについて(モラエスさんの死に対する考え)の私の受け取り方をここで述べるのはやめておく。『おヨネとコハル』は日常の言葉で書かれた日記に近い随筆なのでもし興味があればその一節をお読みくださればと思っております。
最後にかれの信仰について一言述べておきます。モラエスさんはポルトガル人です。ポルトガル人は16世紀に初めて日本に到来したヨーロッパ人であり、その後もポルトガルの宣教師が多く日本に渡来しました。当時も今もポルトガルはカトリック教国です。しかしモラエスさんはカトリックに根差した死生観は持っていないように見えます。カトリックに基づく死生観にとらわれず、むしろ仏教の死生観によりシンパシーを感じているように見えます。それによって「背教者」の烙印をおされても甘んじて受けいれる覚悟ができている人ではなかったのかと思われます。彼の遺言書には、仏教による葬式を是非にしてくれ、と頼むような積極性は見られませんが、彼の位牌はおヨネ、コハルとともに市内の北山にある「東海寺」へ依頼してほしいとあり、仏教による供養を否定はしていません。もちろんカトリックによる秘跡や葬儀、供養についてなどは遺言書にはありません。
この節(おヨネとコハルの一節、ある散歩での・・)の読書後の感想としては、彼の死生観は唯物主義のようにも見受けらるが単純なそれではなく、そこには仏教の輪廻転生の思想、仏教の四大元素説などの影響が見られるのではないかと思っております。まあ浅学菲才の私があれこれ言うより一度読んでみてください。独断と偏見かもしれませんが手塚治虫の『火の鳥』の最終章の死生観とモラエスさんの死生観は似ているのではないかと思っております。
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