2021年7月16日金曜日

大昔のおヘンドさんは?どないなんやろ

  現在マイカーがこれだけ皆に行きわたっていても、四国遍路の王道は大昔のお遍路道を歩いて全八十八ヵ寺の札所をまわることである。ワイの小ンまいときは「歩き遍路」がほとんどだったのはもちろんのこと、風体など見るからに路銀も持たず、道々の人からの「報謝」にたよって巡礼旅を続ける「おヘンド」さんもよく見かけた。ワイの家の戸口に立ち、鈴を鳴らし短いマントラかお経など唱えているおヘンドさんに祖母からいわれて小銭や米を直接手渡ししたことも何度かある。今はそのような考えは差別になるがワイの親や祖父の時代はヘンドは「乞食遍路」と同義語と見ていたのではないだろうか。

 ワイの町は十番札所切幡寺から十一番札所藤井寺への遍路道が走っている。しかし小ンまいとき住んでいた我が家はその遍路道からかなり離れていた(ほぼ1kmくらい)。しかし家は建てこんでいて往還沿いには商店も多く、すぐそばには昭和30年前半までの当時のアミューズメント施設「有楽座」などもあり、田舎にしては賑やかな場所であった。特にそこで鴨島大菊人形が主催される初秋から冬にかけては汽車やバスで団体客も詰めかける大盛況でそんなこともあって路銀を持たぬ遍路は、遍路道から少し外れるが人々の報謝を当てにできる我が家を含めたこのあたりへ戸口から戸口へと報謝のお願いに回ったのだろう。

 昔の人や祖父はそんな巡礼をおヘンドさんとよんだ、先も言ったよう乞食に近いというニュアンスが込められているように子ども心に感じたが、当時としてはあながち外れてはいまい。しかしもし我が家が本筋の遍路道に面していてそこを通るお遍路さんを見ていれば、昔であっても路銀を持たず報謝のみに頼る遍路ばかりではなかったことに気づいたはずである。もちろん御大師様の四国巡錫の太古から聖、遊行僧、巡礼が粗末な衣服と鉢以外は持たず、托鉢、布施、報謝を人々から受けそれを旅の糧とするのはそれこそ王道ではある。しかし江戸時代ともなると商業活動が活発になり、貨幣経済が浸透し、また街道、往還、旅籠などが整備され、幕府は政策として純然たる物見遊山の長期旅行などは原則禁止されていたが、神社仏閣のもの参り、巡礼、伊勢参りなどは、そのほとんどがレジャーの要素が(名所を見る、名物を食べる、遊女と遊ぶ、土産を買う、各イベントに参加する等)多くとも認められていた。むしろ、農民や生業のある町人などの長期間の有名寺社参り、お伊勢参り、回国巡礼などは、江戸時代において旅のレジャーと同義語とみて差し支えない。

 いろいろ諸説はあるが八十八ヵ寺の参拝順序が確定し、多くの庶民が先にも言ったように若干のレジャー(といってふさわしくなければ息抜きとでも言おうか)要素も加味したお四国めぐりである巡礼に参加してくるのは江戸の初期といわれている。この時期はまさに商業活動活発化、街道・往還・旅籠の整備、貨幣経済の浸透と軌を一にするものである。これらの遍路は四国当地の人々の好意にある程度期待し、善根宿も利用したが、路銀も持ち、あるいは自分の巡礼のための便宜をあらかじめ用意して巡礼遍路を行ったのである。


 公的には「四国遍路(江戸期は辺路ともいった)」ははっきりした線引きがある。まず「往来手形」(生国の庄屋や寺が発行する)を持っていることである。それには四国遍路と明記されなければならない。また上方や江戸から四国に来る場合は渡海するが、徳島藩は「渡海手形」を遍路にも要求した。これは大阪などの渡海屋(回漕業者)が代行して発行したから往来手形を所持し渡海の費用を払えば問題ない。江戸初期、元禄の始まる数年前に発行された四国遍路のガイドブックともいえる本が左に示してある(現代版で今も出ている)。これは大ベストセラーになり、なんと明治までの巡礼のガイドブックともなるロングセラーである。この本はこれらの正規(公的)な遍路巡礼のものである。

 一頁目を開くと序文に続いて、上方から行く方法が書いてあり、大坂の具体的な渡海業者をあげ、渡海費用は銀〇匁、(もちろん往来手形所持が前提)で手続きもやってくれて、最初の上陸地徳島の城下へ行けるとある。もう最初から、パスポート所持、路銀も持っている正式な遍路巡礼のみを対象としているのがわかる。藩あるいは村役人が正規に「遍路」と認定する人はこれらの人々であった。

 とはいえそれは建前である、路銀も持たず、食、銭を乞い、業病を負い、あるいは帰るところもなく、旅をすみかとし、旅に死ぬ定めをおいながら遍路道を行く人も多かった。藩、村役人もおおっぴらに取り締まることはなかった。むしろ藩や村方などは、それらの人が行路に行倒れたらどのように介抱するか、死んだ場合の扱いなどはどうするかの細則をきめてあり、むげに追い払ったり罰したりすることはなかった。悪代官の登場する時代劇を見なれていると意外な気もするが、江戸時代は当時なりに下の方の人々(無宿遊行人も含め)まで含めギリギリ最低限すくい取るセイフティーネットが貼られていたのである。

 先日、撫養へ蓮華(ハスの花)を見に行ってブログにアップしたが、その近くの撫養街道沿いに下のような寺があった。「長谷寺」という。ついでに参拝と思い境内の石碑を見るとこのように説明してある。



 境内のようす、江戸初期を偲ぶよすがとして樹齢数百年以上はあるという銀杏が境内の真ん中にあるが、本堂も大師堂も新しい。寺は三尊をお祀りするが、ご本尊は大日如来となっている。

 この寺は藩政時代、「駅路寺」として設けられた。藩史によれば主旨は

 『当寺の儀、往還の旅人一宿のため建立せしめ候条、専ら慈悲肝要たるべし、或いは辺路の輩、或いは出家、侍、百姓に寄らず、行き暮れ一宿望む者』

 とある。主旨からいって身分にかかわらず行き暮れに困った人に一宿を供したと思われる。このような基本無料の一宿のやどで藩指定はこの長谷寺を含め八ヵ寺あったが、このような趣旨の寺あるいは善根宿はこの阿波藩には多く存在しただろうと思われる。また無人のお堂、無住の寺などはつねにこのような遍路には解放されていたとみるべきである。このような背景にはやはりここ四国は御大師様の御巡錫された地で、どんな巡礼でも実は御大師様とともにまわっているという信仰がある。薄汚い乞食坊主であると思ったが、実は御大師様であったという伝説はあちらこちらに残っている。そのようなこともあって一部には正規の巡礼でない乞食のような哀れな身なりのおヘンドさんに対し邪険に扱う人もいたが、おおむね御大師様の信仰心もあってか暖かく好意的に見る人が多く、路銀を持たなくても、善意により巡礼が出来たのである。

 日本史をマイ日本史として自分がその分野の一人者になりたいと思ったら、一番手っ取り早いのは自分の住んでる地域のだれも手を付けていない歴史資料を扱えばいいとはよく言われることだ。もちろん地域・時代・分野はごくごく狭められてくるが、なにせ誰も手を付けない隙間の資料を狙うわけだからその点に限って言えば研究の一人者になれるはずだ。

 その中でよくやるのが「地方文書」、自分の地域の江戸時代の古文書、それも公開されてなく古い家(昔の庄屋)の土蔵に眠っている虫食い文書などを自分なりに研究するのはよくある。大学院の修士論文の資料くらいにはもってこいである。結構古い家の土蔵には江戸期の膨大な史料となる文書が眠っている。

 その中で多いのは年貢関係文書、お上からの通達の写しなどであるが、先に述べた遍路、遊芸人、回国聖、など定住地を持たず、往来切手もない人が病気になって行き倒れたり、あるいは死亡したときにどうするか、という規則の文書、あるいは、上への問い合わせ、そして実際処理した記録文書も多い。その中には、病人には救米としていくらいくら、薪炭がいくら、そしてなんと病人小屋を作り、介抱人まで置いた例もある、死んだ場合は埋葬の手続きである、そして必ず、明確な無宿人でない限り生国へ問い合わせた記録も書かれている。

 これらは村方(今だと町村レベルの自治体)の仕事である。だから名主・庄屋の土蔵に古文書として残っているのである。病人への支給物の米、薪炭、死んだら埋葬料も村方の予算から出される。もちろんこれは藩の決まりに沿ったものであり、村方が独自にするものではないが、手間や費用は村方持ちである。しかし中にはもし行き倒れ病人が出たばあい手当てする最終責任者は庄屋・名主であるため、億劫がったり嫌がったりする者もいる。そんな場合は回避の方法として何とか歩ける病人なら負い銭や食料を持たせなんとか付き添いを付け村の境まで送るということもされた。しかしこれは当時としてもやってよいことではなかった。

 我々は悪代官や悪い庄屋が登場する時代劇を見すぎているせいか、江戸期は下層民、中でもボヘミアン的な人は踏んだり蹴ったりされていたのだろうという先入観に陥りやすい。確かにその生きざまから生活は苦しかったが、前に行ったように当時としてできるだけのギリギリ最低限のセイフティーネットは張られていたのである。

 このような巡礼、回国、遊行人などが病気になったり、行き倒れ、死んだ場合の記録である江戸の古文書を見ていると、現代に戻ってあるデェジャブ感を感じる。それは今現在も法律として生きている「行旅病人及行旅死亡人取扱(明治三十二年法律第九十三号)である。なんとまだ19世紀であった時の法律であるがその文言「第一条 此ノ法律ニ於テ行旅病人ト称スルハ歩行ニ堪ヘサル行旅中ノ病人ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者ヲ謂ヒ行旅死亡人ト称スルハ行旅中死亡シ引取者ナキ者ヲ謂 ...」は、江戸の村方の文書の文言とよく似ているのである。江戸の村方のそれらの人に対する扱いもこの明治の法律とよく似ている。費用が市町村の負担も同じである。

 よく言われる「行路病死人」に対する扱いである。江戸も明治も行き倒れで多かったのはいわゆるおヘンド・乞食遍路である。だから明治のこの法律も江戸期の村方の法である実施細目からおおかた引き継いだのではないかと思われる。明治維新を境に法律は欧米の法律を取り入れ江戸期とは断絶があるように言われるが、この行路病死人の法を見る限り、江戸の法と現代の法とはつながっているのである。

 なんで、ワイがこんなに行路病死人に関心があるかというと、去年、太龍寺の修行道で足をベシ折り、行き倒れも覚悟したからである。ワイとしては、行き倒れそのまま誰にも発見されることなく朽ちて土にかえるも可成、と思ったが、江戸時代も現代も、チラとでも人に行き倒れを見られたら、自然に朽ちさせてくれることはない、介抱され、死ねば埋葬も行ってくれる。江戸も現代もこれは変わらない。いい国に生まれいい歴史を持っていると誇ってよいことか?それはわからない。

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