私は特に思い入れのある、もっというと心から信じている宗教は今のところない。ただ死が近づくにつれ仏教に傾倒している傾向があることは言える。ところでわが家は先祖代々真言宗の宗旨を通してきている。子どもの時からボニや法事で仏壇の前でおじゅっさんが経をあげるのを聞いていた。何やら呪文のようなものを唱えているとは思っていたが、意味は全く不明。たぶん祖父母に「なんちゅう意味があるんぇ?」ときいたはずだが、祖父母もよく知らなかったのか、私が覚えていないだけなのか記憶は全くない。意味不明なお経は青年になっても壮年になっても変わらなかった。
お経の原文、書き下し文、そして意味について興味が湧いて少しずつおベンキョし始めたのがここ数年だ。ただお経は、ちょっと信じられないくらい多数存在する(耶蘇教の二種の聖書、回教のクルァーンどころではない)。これらのお経はすべて『大蔵経』という膨大な巻に入っている。この大蔵経をすべて読み理解することは不可能に近い、能力云々でなく時間的に。私のとっつきは仏教史から入ったため、時系列で作られてきた諸経典を解説した本から読み始めた。そしてその中から重要な経典類は原文(漢文)にあたり、一部をとりだし少しずつ読み下してきた。比較的古い阿含経、初期成立の般若経典類、そのあと成立する法華経、華厳経、そしてもっとも新しい密教経典(大日経、金剛頂経)など、もちろんごく一部を知的興味に任せ齧るくらいのものだが。
それで私の古い記憶にある、昔我が家で唱えられていた経が何であるか次第に分かってきた。日本の仏教の各宗派は、膨大な諸経典の中から、わが宗ではこの経典が最も大切である、あるいはこの経典に依拠して祖師様がわが宗を開かれたという「根本経典」が存在する。わが真言宗は他宗に比べると唱えられる経の種類は多い。しかしその中で最も大切にされ、葬儀、法事などの重要な儀式の時に唱えられるのが「理趣経」である。おそらく昔、ウチの法事の時にも読まれたのがこの経であろう。最近になってこの理趣経の原文(漢文)の中から特に経に唱えられる部分を読み、その大意を知ったとき大変驚いた。
なんと!「性愛のエクスタシー」と「悟りの境地」が同列に述べられているのである。ワイのような凡俗が単純に読むと、性愛のエクスタシーと「悟りの境地」がイコールで結ばれ、同じだと思ってしまう。この解釈については僧侶、専門家でもいろいろ意見が分かれ解釈の相違があるようである。ワイのボケ頭で単純にイコールで結ばれてよいものではなかろうが・・理趣経には少なくともそれが同列、もっといえば同じ価値として並べられている。単なる「愛」の、或いは「慈悲」のエクスタシーなら、精神的な高みの境地とも解釈できようが、「性愛」(エロス)のエクスタシーとなりゃぁ、あんた!もうこれは二体の人(決して男女とは言わない、同性同士でもありうる)の肉の交わりのエクスタシーとしか考えられんがなぁ。潔癖症の僧侶や専門家は前者の精神的な方を言いたいのであろうが、かなり無理な解釈となるようである。
ワイらの祖師さま、お大師っさんはどう思っていたか知りたい。空海は理趣経を根本経典としたが、その解釈についてはあれこれ言っていないようである。ただここにおもしろい史実がある、空海と同じ唐にわたって天台宗をもたらした最澄も理趣経に接し、「こりゃどうじゃ!」と驚愕したのであろう、空海しか持っていない理趣経の解釈本「理趣経釈」を借りようとしたら、空海から、これは密教の修行を極めない人が読めば、おそろしい誤解を招く、といって貸すのを断ったのである。最澄はんほどの頭脳の持ち主でも性愛エクスタシーと悟りの境地が同位と思うであろうと、空海はんは思ったのだから、もうこれは誰が読んでもイコールで結んでも仕方ないだろう。
諸経典の中でこれほど露骨にエロスを扱った経典類はまずないんじゃなかろうか、特に日本に伝わった経典では。チベットあたりに伝わった後期密教経典や、あるいはインドのヒンドゥ教の外典の「カーマスートラ」(訳は、まさに性のお経)には存在するが。
しかしワイのみるところまじめな経典類にも「エロス」(性愛)の香りが漂っているのが多く存在する。
「あほぉ~げたこと、ぬかしてけつかる、そりゃ、おまいだけじゃ、品性下劣じゃから、そんなゲサクな解釈をするんじゃわだ。」
といわれそうである。確かにそれはごくごく一部の僻目でしか物事を解釈しない人がひっそりと心の中で思っていたものであろう。しかし19世紀の世紀末を経ると、まじめな経典類にもエロスは存在すると主張し、受け入れられ始めた。これはウィィンにすむフロイトはんの力によるところが大きい。この精神分析を始めた学者はんはまず、幼児にも性愛があるなどといいその期間を「肛門性愛期」だの「口唇性愛期」だのいって世間を仰天させた。その後、人のこころの「無意識」のさらに下の方を分析し、もっとも奥深くある根本から性衝動のエネルギーすなわちエロスのパワーが湧いて出て、いろいろな精神的活動のエネルギーともなることを主張した。具体的に言えば、禁欲的な僧侶がまるでサディズムちゃぁうんか、というようにさまざまな地獄の責め苦を微にいり細にいり描写したり、性欲むんむんの青年がその方向を過度のスポーツや、爆発的な芸術作品を作るのに向け大成するのはフロイト流に解釈すればすべて性愛エネルギー・エロスの力が元となっているのである。
フロイトはんの出現もあり、世紀末を経ると、文学者や芸術家も経典類をはばかることなくエロスに色づけして解釈するようになった。世界宗教の中でかなり禁欲的なのが耶蘇教である。セックスは子孫を残すためやむなく認めたといわんばかりの夫婦のみの交わりだけ、他は一切だめ、異常性愛(オラル、アナル、同性愛、フェチなどもろもろ)などもってのほか、ソドミーの罪として決して許されることはなかった。エロスを匂わせるような表現ももちろん耶蘇教の禁忌に触れる。
ところがである、このごろ薄れつつある英語の単語のメンテナンスの為、欽定英語版の「新約聖書」をときどき読んでいるが、このお堅い新約聖書のなかには、エロス臭がかなり強く匂うか所がある。これもまたワイだけかもしれんが。まずそのシーンを紹介しよう。
『ルカ福音書7章38節から、娼婦(聖書では罪の女とある)であるマグダラのマリアが泣きながらイエスの足元により、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、そしてその足に接吻して香油を塗った、というシーン』
先入観なしにこのシーン思い浮かべてくださいよ、話は一寸飛びますが、昨日列車の中で花火夏祭りを見に行く高校生くらいのカップルが目の前に座っていた、女性は浴衣を着て二人は手を握り、ぴったり密着し、頬も触れ合わんばかりに親密にぼそぼそ話をしていた。現代日本も体の親密度は欧米並みになってききたなぁとこのジジイにも感じられた。まぁエエこっちゃと思う。これでもちょっとしたエロスを感じるが、もしですよ、これが好きな男が座っているところに女性がおもむろに近づき、男の足元に跪き、なぜだかわからないがポロポロ大粒の涙を流し、おとこの裸の足を涙で濡らし、十分濡らした後、自分の長い黒髪でそれをぬぐい取り、さらにその足に接吻したとしたらどうでしょう?ただし言っときますが、男も女をこの上なく愛しているんですよ、そうでなければ狂女か悪質なストーカー女ですからね。聖書でもイエスはこの女の行為を比類ないものとして愛(神の愛)を持って受け入れています。現代に置き換えてこういう行為を目撃したとしたら、ワイなんかはものすごくエロスあふれる相思相愛の行為として見とれてしまいます(しかし恥も外聞もなく公衆の面前で行うかという問題もありますが、犬のようにところかまわずサカって交尾するわけではあるまいし、これくらいは現代において個性的な愛情表現とみてもいいかと。) 下はルネサンス期の名画でその聖書の場面を表している。イエスさんのおみ足、美し!
聖書にはさらに人の心理の奥の奥にある原始的で暴力的な性衝動をむずむずさせかねないシーンもある。マタイによる福音書14章の6~11節、
『ヘロデ王の義理の娘サロメが祝宴で見事な舞を舞う、感心したヘロデはなんでも望みの物を。と約束する。そこでサロメは、獄につながれている預言者ヨハネの首を盆にのせていただきたいと所望し、約束した王はしかたなくそれを果たすというシーンである。』
聖書はこれ以上の詳細な記述や意味づけはしていないが、異常性愛的エロス漂うシーンとして多くの人を刺激してきた。しかしこの聖書の記述だけでは満たしきれないモヤモヤ感、うぅぅぅ~~~~一体なんだこの満たしきれないこの聖書のシーンは?ある作家がこれに二つの要素を加えることでストンと落ちた。それは、一つはサロメがお堅い預言者に恋をし接吻を望むのである、獄にあっても預言者ヨハネはむろん厳しくはねつける。そしてその二は、所望して得られた大皿にのった預言者ヨハネの首の唇にサロメは深々と接吻し恍惚感に酔うのである。もうエロス大爆発である。
その作家はイギリスのオスカー・ワイルド(ツバメと王子の童話で知られる)で、それを戯曲に仕立てる。そして絵としてあげたいのはビァズリー作・挿絵「ヨハネとサロメ」である。
口づけするシーン、ぞくぞくする、やっと私のものになったわ、生首をモモぐって愛撫してやろうとおもっているのかしらん、可愛さ余って憎さ百倍ちゅうんやろか。いや憎ぅはない、至高の喜びにサロメは満たされている、しかしそのエクスタシーの瞬間、サロメは・・仏典にもたいへんエロいシーンとしか思われないものが出てくる。それもお柔らかい密教経典の理趣経なんどではなく、熱心な念仏をすすめる浄土系の根本経典の中に。浄土三部経の一つである「観無量寿経」ののっけからの冒頭シーンである。
『(インド王舎城の悲劇として知られる)、王子アジャセは父王ビンビサーラを悪友にそそのかされ何重にも閉ざされた牢に幽閉し、面会も断ち餓死させようとする、王の妻イダイケ夫人(アジャセの母でもある)は、身を清め、パン粉を蜂蜜で練り、それを身体にぬり、またつけられた首飾り肩飾りの大玉の中に葡萄酒を仕込み、なんとか身一つで獄の王にあう。餓死から救うため、蜂蜜で練ったパン粉、葡萄酒を飲食させるのである、そこで王は練り物を食べ葡萄酒をのみ・・』
ここで、ワイはちょっと待った!を入れたくなる。おいおい、さらっと「食べ、飲み」だけかよ。そもそも練り物は夫人の体に塗っているのだろ、それをどうやって食べるのか。お堅い信者としてはそりゃぁ、あんた、夫人の体からそれをこそぎ落として食べたんじゃろ、と言いたいと思うが、何重にも閉ざされた獄、息子の目を盗んでこっそり身一つで夫王に会いに来た夫人である。体に万遍なく塗った練り物を悠長にこそぎ落としたりするか?手っ取り早く夫人の体から王の口で舐め取るのが自然じゃないのか。機会があれば浄土系のボンさんに確かめたいが「あの~、ビンビサーラ王はイダイケ夫人を舐めたんでしょうか」とは聞きにくい。
必死の思いで最愛の王にあい、暗い獄中で体をペロペロなめさせるシーンはかなりエロいんじゃないかと思う。ワイはもちろん舐めさせて飢えを救ったと思うが、他の人の解釈はどうなんだろう。手塚治虫の漫画に「ブッダ」という作品がある。多くの仏典からエピソードをひろい、なかなか見ごたえのある漫画にしている。この手塚治虫の解釈でも夫人は王に体を舐めさせている。そのシーンが下。涙を流す夫人に至高のエクスタシーの表情を感じるのはオイラだけだろうか。
他にも探せば経典に(それもお堅い経典に)エロスに満ちた話があるかもしれない。
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