もうそろそろ沙羅の花(夏椿)も終わりじゃろうな。たっぷり見たし、写真も撮ったのでもう満足。沙羅の花のブログをいくつかアップしたせいもあって沙羅の花の木の下で静かに息を引き取ったお釈迦はんにつても考えるようになった。「涅槃」そしておそらく同じ意味の「涅槃寂静」、「寂滅」、さらには同じ境地であると(えらいボンさんはいう)「空」、禅の「無我」、など、いろいろ考えることはあるが、これから死ににいくワイ自身のことを考えれば、それがわかってどうなるのか。救いになるのか、よ~わからん。
その点耶蘇教や回教ははっきりしている、信仰とそれに基づく実践で死後必ず「救い」があり、よき来世に行けると断言している。しかし科学万能・情報化社会の現代では宗教による「救い」などは生きている間だけの気休めに過ぎないのではないかと思う人が多い(死んだらすべて終わりゲムオーバァ、PCのブラックアウト、無、畢竟生きているときのことだけ考えりゃぁええ、という考え)。マルクスのおっさんは「宗教はアヘン(痛みをとめる薬)」であるといったが、まさにそのことを言い表しているのであろう(確かに生きているときにだけ効果をもたらすのが薬、死んだら薬も役立たん)。
死を含めた人生とは何か、を論理的思考の方法であつかう哲学ならどうか?死に向き合う何か良い知恵を授けてくれるのではないか。しかし、寡聞にして「ワイ、哲学によって人生、救われたわ」っちゅう人はまず聞かない。それについてある哲学者(古典期の哲学者と思う)がこんなことを言った記憶がある、「哲学が役に立つかって?ふん、歩いていて電信柱にブチあたった犬が、当たったのは自分のせいでなく、電信柱のせいにできるくらいの効果はある」、しかしその程度じゃ哲学は「救い」にゃならへん。
そもそも御釈迦さんは死後の「救い」のことなどは言っていない。お釈迦様は「悟り」を開いた後は、現世の出家者、庶民が「苦界」から脱し、ひたすら現世でより良い生き方ができるようにするため、教化、指導に当たった。おそらく願わくばすべての人が悟りに達し、解脱し、最後は涅槃にはいり生を終えればいい、と思っていたに違いない。そして自らその最終到達点を示すように涅槃の境地で死を迎えたのである。その生涯で最大の通過・転換点「悟り」とはいったいなにかをぜひ知りたいが、これは修行の果て(しかしある人は一瞬で悟ったという人もいるようだが)に到達するものであり、また論理的な言葉では言い表せぬ深遠なものであるという。悟りに達せぬ人にむかって(教化、手助けのため)言えるのは、仮の方便であるという(難解なお経の内容でもそうだ)。
「修行」、「悟り」、そして最終の「涅槃」など2500年前初期仏教で御釈迦様の示された生き方、教えは、どういうものか不思議なことに、現代においてどうしてもさけられない「死」に向かう時、哲学や既存の「救い・来世欣求」の宗教よりずっと魅力的に私に迫ってくるのである。(そういえば昔、理系の若い衆が「Ω神理教」に傾倒したっけ、なんで論理思考の得意な彼らが、とおもったがわかる気がする)
「修行」中の釈迦の像は極めて少ない(一度あばら骨が浮き出たガリガリの釈迦像を見た記憶はある)まだ「仏」となっていないため信仰対象とはならないからだろうか。しかし「悟りの像」は違う、ブッダガヤの菩提樹下で開いた「悟り」像は瞑想状態(半目)の結跏趺坐像として多く作られていて普通に寺の釈迦如来像として見ることができる、それに比べると(横たわった)「涅槃」像は少なく、ましてその涅槃像が寺の御本尊となっているのはまれである。
その稀な御本尊が涅槃像である寺が私の母の里近くにある。土成町にある9番札所「法輪寺」である。八十八ヵ寺の中で横臥の涅槃像が本尊なのはこの寺のみである。
法輪寺山門
境内
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